第102話 母の教え
エマの縁談について打ち明けられてから、二日が経った。
ヴィオレッタは授業を終えると、いつもより少し早足で学院の廊下を歩いていた。
(お母様から、お返事が来てるかな……)
昨日、アルバレス公爵家へ送った手紙には、まだ返事が届いていない。急ぎの相談だと伝えてはいたものの、母も忙しいはずだ。
そう思いながら角を曲がろうとしたところで、背後から聞き慣れた声がした。
「ヴィオレッタ!」
「あ、セレス!」
振り返ると、金色の髪を揺らしながらセレスティアが駆け寄ってきた。
「今日はずいぶん急いでるね。何か予定でもあるの?」
「うん、ちょっとね。お母様からのお手紙を待ってるんだ」
「公爵夫人から?」
「そうなの。少し相談したいことがあって」
セレスティアは不思議そうに首を傾げたが、それ以上は尋ねなかった。
「そっか。じゃあ、今日は引き止めない方がよさそうだね」
「ごめんね、セレス」
「いいって! 何か手伝えることがあったら言ってよ」
「うん、ありがとう!」
ヴィオレッタが笑うと、セレスティアも明るく手を振った。
「それじゃ、また明日!」
「うん、また明日!」
セレスティアと別れたヴィオレッタは、寮へ向かって歩き出した。
友人たちに事情を話すことも考えたが、エマの実家に関わる問題だ。本人の許可なく広めるわけにはいかない。
(まずは、お母様に相談してからだよね)
そう心の中で頷き、歩く速度を少し上げた。
◇
寮の自室へ戻ると、エマが机の上に一通の封筒を置いていた。
「お帰りなさいませ、ヴィオレッタ様」
「ただいま、エマ! ……あっ、それ!」
「はい。イザベラ様からのお返事が届いております」
「本当!?」
ヴィオレッタは急いで封筒を手に取り、丁寧に封を開けた。
『ヴィオレッタへ。
お手紙をありがとう。エマのことで相談があるとのこと、承知しました。
詳しい事情はまだ分かりませんが、あなたが真剣に考えていることは伝わってきました。
明日の午後、こちらへいらっしゃい。時間を空けておきます。
久しぶりにあなたの顔を見られるのも楽しみにしています。
母より』
「……お母様!」
ヴィオレッタは嬉しそうに声を上げた。
「明日、お屋敷に来ていいって!」
「それは何よりでございます」
エマはほっとしたように微笑んだが、その表情には少しだけ緊張も混じっていた。
「……ヴィオレッタ様。本当に、よろしいのでしょうか」
「何が?」
「私のことで、イザベラ様のお時間をいただくなど……」
「もちろんだよ! お母様も、ちゃんと話を聞いてくれるって」
ヴィオレッタは手紙を大切そうに胸に抱いた。
「それに、エマのことは私だけの問題じゃないもん。お母様だって、きっと心配してくれるよ」
「……ありがとうございます」
エマは深く頭を下げた。
その姿を見て、ヴィオレッタは慌てて首を振る。
「そんなにかしこまらなくていいよ! 私がそうしたいだけなんだから」
「ふふ。そうでございますね」
エマは小さく笑った。
その笑顔を見て、ヴィオレッタも安心したように頬を緩めた。
◇
翌日の午後。
ヴィオレッタはエマとともに、久しぶりにアルバレス公爵家の屋敷を訪れていた。
玄関を抜け、案内された応接室へ入ると、そこには母イザベラが待っていた。
「ヴィオレッタ!」
「お母様!」
イザベラは娘の姿を見るなり立ち上がり、嬉しそうに両手を広げた。
「まあ、少し見ない間に、また綺麗になったんじゃないかしら」
「ええっ、そんなに変わってないよ!」
「いいえ。母親には分かるものなのよ」
そう言って、イザベラはヴィオレッタを優しく抱きしめた。
「学院祭も大成功だったそうね。お父様から聞いたわ」
「うん! みんなで頑張ったんだよ!」
「ふふ。今度、ゆっくりお話を聞かせてちょうだい」
イザベラは名残惜しそうに娘から離れると、エマへ視線を向けた。
「エマも、お帰りなさい」
「ただいま戻りました、イザベラ様」
「いつもヴィオレッタのことをありがとう。あなたがそばにいてくれるから、私も安心していられるわ」
「……もったいないお言葉でございます」
エマは丁寧に頭を下げた。
イザベラは穏やかに微笑み、二人へ席を勧めた。
「さあ、座って。今日は大切なお話があるのでしょう?」
「うん……」
ヴィオレッタは少しだけ緊張しながら、椅子に腰掛けた。
◇
「……エマに、縁談が来ているの」
ヴィオレッタがそう切り出すと、イザベラは静かに頷いた。
「そう。それで?」
「相手はハーディング子爵っていう人なんだけど、エマはその人と結婚したくないんだって」
イザベラはエマへ視線を向けた。
「エマ。それは本当なの?」
「……はい」
エマは膝の上で手を重ね、静かに答えた。
「父から、一方的に話を進めたという手紙が届きました。ですが、私はその方にお会いしたこともなく、結婚を望んでおりません」
「そう……」
イザベラはしばらく考え込んだ。
「グレイフォード男爵家だったわね。あなたのご実家は」
「はい」
「確か、地方に領地を持つ家だったと記憶しているわ」
「……そのとおりでございます」
エマは少しだけ俯いた。
「実家は、以前から財政的に苦しい状況にございました。父は今回の縁談によって、子爵家から援助を受けようとしているようです」
「なるほどね」
イザベラは静かに紅茶を置いた。
ヴィオレッタは思わず身を乗り出す。
「お母様! エマが嫌がってるんだから、断ってもいいよね?」
「もちろん、本人が望まない結婚を無理に進めるべきではないわ」
「じゃあ……!」
「でもね、ヴィオレッタ」
イザベラは優しく娘の言葉を遮った。
「あなたがエマを大切に思う気持ちは分かるわ。けれど、ここで一つ、忘れてはいけないことがあるの」
「……何?」
「エマの人生を決めるのは、あなたでも、あの子のお父様でもない。エマ自身よ」
ヴィオレッタは目を瞬かせた。
「……うん」
「あなたが公爵家の娘として強く出れば、相手の家も簡単には逆らえないでしょう。でも、それではエマの代わりにあなたが決めたことになってしまう」
「……そっか」
ヴィオレッタは小さく頷いた。
自分はただ、エマを助けたいと思っていた。
けれど、その気持ちが強すぎれば、知らないうちにエマの意思を置き去りにしてしまうかもしれない。
「……じゃあ、私はどうすればいいの?」
イザベラは柔らかく微笑んだ。
「エマが自分の意思を伝えられるように、支えてあげなさい」
「……支える?」
「ええ。必要なら私たちも力を貸すわ。でも、最後に答えを出すのはエマ自身でなければならないの」
ヴィオレッタはしばらく考えたあと、ゆっくりと顔を上げた。
「……分かった」
その瞳には、真剣な光が宿っていた。
「私、エマが自分で決められるように手伝う!」
「ふふ。それでこそ、私の娘ね」
イザベラは嬉しそうに微笑んだ。
そして、エマへ視線を向ける。
「エマ。あなたは、どうしたいの?」
エマは一瞬、言葉に詰まった。
けれど、ヴィオレッタが隣で小さく頷いてくれたのを見て、ゆっくりと口を開いた。
「……私は、今の仕事を続けたいと考えております」
「そう」
「ヴィオレッタ様のおそばで、これからもお仕えしたいのです」
イザベラは静かに頷いた。
「分かったわ。その気持ちは、きちんと受け取ったわよ」
「……ありがとうございます」
エマは深く頭を下げた。
その目には、少しだけ涙が浮かんでいた。
◇
話が一段落すると、イザベラは少しだけ表情を引き締めた。
「ただし、今回の件には気になることがあるわ」
「気になること?」
「ええ。グレイフォード男爵家の財政状況と、ハーディング子爵が援助を申し出た理由よ」
ヴィオレッタは首を傾げた。
「お金に困ってるから、助けてくれるんじゃないの?」
「もちろん、そういう可能性もあるわ。でも、家同士の結婚に金銭の話が絡むなら、条件をきちんと確認する必要があるの」
イザベラはエマへ向き直った。
「エマ。お父様から届いた手紙を、見せてもらってもいいかしら」
「……はい。持参しております」
エマは鞄から封筒を取り出し、丁寧に差し出した。
イザベラは内容を一通り読み、わずかに眉を寄せた。
「……なるほど」
「お母様?」
「少なくとも、この手紙にはエマ本人の意向を確認した形跡がないわね。それに、援助の条件も曖昧だわ」
イザベラは手紙を机に置いた。
「まずは事実関係を確かめましょう。相手方がどのような話をしているのか、こちらでも確認してみるわ」
「本当!?」
「ええ。ただし、勝手に縁談を破談にするためではないわよ。エマが自分の意思を伝えられるよう、状況を整理するためよ」
「うん、分かってる!」
ヴィオレッタは大きく頷いた。
イザベラはそんな娘を見て、少しだけ目を細めた。
「……それにしても」
「ん?」
「あなたが、こんなふうに誰かのために真剣に悩むようになるなんてね」
「えっ?」
「ふふ。何でもないわ」
イザベラは微笑みながら、ヴィオレッタの頭を優しく撫でた。
「本当に、大きくなったわね」
「も、もう! お母様ったら!」
ヴィオレッタが照れたように頬を赤らめると、エマも思わず小さく笑った。
その笑顔は、ここ数日で一番自然なものだった。
◇
夕方、屋敷を出る前に、ヴィオレッタはエマと庭園を歩いていた。
秋の風が木々を揺らし、色づいた葉が足元へ舞い落ちる。
「……エマ」
「はい、ヴィオレッタ様」
「今日は、来てくれてありがとう」
「……こちらこそ、ありがとうございます」
エマは静かに微笑んだ。
「ヴィオレッタ様が声をかけてくださらなければ、私はきっと、誰にも相談できなかったと思います」
「そんなことないよ。エマはいつも頑張ってるんだから、たまには誰かに頼ってもいいんだよ」
「……ふふ。そうでございますね」
エマは少しだけ目を細めた。
ヴィオレッタは隣を歩きながら、空を見上げる。
「私ね、エマには幸せでいてほしいんだ」
「……ヴィオレッタ様」
「だから、ちゃんと自分で決めてね。私は、そのお手伝いをするから!」
エマはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
その声には、以前よりも少しだけ力がこもっていた。
ヴィオレッタは嬉しそうに笑い、エマも穏やかに微笑み返す。
まだ、何も解決したわけではない。
けれど、少なくともエマは、もう一人ではなかった。
そして、その日の夜。
イザベラの指示を受けた公爵家の使用人が、グレイフォード男爵家とハーディング子爵家について調べ始めていた。




