第100話 望まぬ縁談
秋も深まり始めた、ある日の午後。フィオラ女学院の授業を終えたヴィオレッタは、寮の自室で机に向かっていた。
「うーん……」
目の前には授業で出された課題が広げられているものの、先ほどから同じ行を何度も読み返している。
(おかしいなあ。昨日まではちゃんと理解できていたはずなのに……)
首を傾げながら教科書を読み直し、ようやく答えにたどり着いたところで、控えめなノックの音が聞こえてきた。
「ヴィオレッタ様、お茶をお持ちいたしました」
「あ、エマ! ありがとう!」
扉を開けて入ってきたエマは、いつものように穏やかな笑顔を浮かべていた。
「課題は順調でございますか?」
「うん! 今、ちょうど一つ分かったところ!」
「それは何よりでございます。少し休憩なさってはいかがでしょう」
「そうする!」
エマが机の端に紅茶を置くと、ヴィオレッタは嬉しそうに頷いて椅子から立ち上がった。
「そういえば、エマ。この前のお菓子作り、楽しかったね!」
「ふふ。そうでございますね」
「今度はリリたちも誘っていい?」
「もちろんでございます。皆様にも楽しんでいただけるよう、準備いたしましょう」
「やった!」
ヴィオレッタが満足そうに笑うと、エマも自然と頬を緩めた。
いつもどおりの、穏やかな時間だった。
◇
夕方、エマは寮の使用人用の控え室で、届いた書類を整理していた。
その中に見覚えのある家紋が押された封筒を見つけ、思わず手を止める。
「……これは」
グレイフォード男爵家からの手紙だった。
数日前にも同じ封筒が届いていたが、あの時は父親からの短い知らせだけだった。今回は少し厚みがあり、何か重要なことが書かれているのだろうと予感させる。
エマはしばらく封筒を見つめていたものの、やがて静かに息を吐いた。
「……確認しなければ、なりませんね」
誰もいないことを確かめて封を切ると、中には父親からの手紙と、もう一枚の書類が入っていた。
最初の一文を読んだ瞬間、エマの指が止まる。
『エマへ。
先日知らせた件について、正式に話がまとまった。
お前の縁談が決まったのだ』
「……え?」
思わず小さな声が漏れた。
エマは慌てて続きを読み進める。
『相手はハーディング子爵だ。先方は我が家との縁組を望んでおり、お前を妻に迎える意向を示している。
公爵家で長年行儀を学んだお前ならば、子爵家の女主人としても十分に務まるだろう。
ついては、速やかに現在の勤めを辞し、帰郷の準備を進めるように』
エマはしばらく動けなかった。
縁談という言葉だけが、頭の中で何度も繰り返される。
(……私の、結婚?)
貴族の娘として生まれた以上、いつかそうした話が持ち上がる可能性は考えていた。長女も次女も、父親が決めた相手のもとへ嫁いでいる。
けれど、自分はもう二十四歳だ。
九年間、公爵家で働き、今ではヴィオレッタの専属メイドとして日々を過ごしている。実家からの連絡もここ数年はほとんどなかったため、いつしか自分の人生は自分で選んでよいのだと思うようになっていた。
「……そんな」
エマは小さく呟き、もう一枚の書類へ目を落とした。
そこにはハーディング子爵の家柄や財産、家族構成などが簡単に記されている。
三十六歳。数年前に妻を亡くし、八歳の娘が一人。
領地経営は安定しており、財政的にも余裕があるという。
条件だけを見れば、悪い縁談ではないのかもしれない。
けれど、エマはその人物に会ったことも、話したこともなかった。どんな人なのかさえ分からない相手との結婚を、父親はすでに決まったこととして知らせてきたのだ。
「……どうして、私に何も聞いてくださらないのですか」
誰もいない部屋に、小さな声が落ちた。
◇
手紙の最後には、さらに数行が書き加えられていた。
『なお、この縁談は我が家の今後にも関わる重要なものだ。
ハーディング子爵は、婚姻が成立した暁には、我が家への資金援助を検討すると申し出ている。
お前もグレイフォード家の娘である以上、その責務を忘れてはならない』
エマは静かに目を閉じた。
(……やはり、そういうことなのですね)
父親の言う「重要な話」が、単なる娘の結婚ではないことはすぐに理解できた。
実家は昔から金銭的な問題を抱えていた。父親は家柄を誇り、華やかな暮らしを手放そうとしない一方で、領地から得られる収入は年々減り、借金だけが増えていった。
エマが公爵家へ送り出されたのも、上位貴族とのつながりを得るためだった。そして今度は、結婚によって資金を得ようとしている。
(……私は、家のために使われるのですね)
胸の奥が、じわりと痛んだ。
ふと、姉たちのことを思い出す。
長女は嫁ぐ前夜、誰もいない廊下で静かに泣いていた。次女は結婚が決まった日からほとんど笑わなくなり、幼かったエマには、そんな二人の背中を見送ることしかできなかった。
そして今、自分にも同じことが起ころうとしている。
「……私は」
エマは唇を噛んだ。
結婚したくない。少なくとも、今は。
知らない相手のもとへ嫁ぐために、これまで築いてきた生活を手放したくなかった。何より、ヴィオレッタのそばを離れたくない。
けれど、その思いを父親に伝えたところで、聞き入れてもらえるとは思えなかった。
エマは手紙を丁寧に折り畳み、誰にも見られないように封筒へ戻した。
◇
「……エマ?」
不意に名前を呼ばれ、エマは顔を上げた。
控え室の入口には、ヴィオレッタが立っていた。
「ヴィオレッタ様? どうなさいましたか?」
「あ、うん。エマがなかなか戻ってこなかったから、ちょっと気になって」
「申し訳ございません。書類の整理に時間がかかってしまいまして」
「ううん、それはいいんだけど……」
ヴィオレッタはエマの顔を見つめ、心配そうに眉を寄せた。
「……エマ、顔色悪くない?」
「……え?」
「何かあった? 具合が悪いなら、少し休んだ方がいいよ」
エマは一瞬、返事に詰まった。
手紙を読んだばかりの今、うまく笑えている自信がなかった。
「……ありがとうございます。ですが、体調は問題ございません」
「本当?」
「はい。少し考え事をしていただけです」
「そっか……」
ヴィオレッタは少し考えたあと、エマの手元へ視線を向けた。
「……お手紙?」
「……はい。実家から届いたものです」
「前にも届いてたよね?」
「ええ。少し、家のことで連絡がございまして」
「そうなんだ」
ヴィオレッタはそれ以上、無理に聞こうとはしなかった。
けれど、エマが封筒を握る手に力を込めていることには気づいていた。
「……エマ」
「はい?」
「何か困ったことがあったら、私にも言ってね」
エマは驚いたように目を見開いた。
「……ヴィオレッタ様」
「私にできることがあるか分からないけど、話くらいは聞けるから!」
ヴィオレッタは少し照れたように笑った。
エマはその顔を見つめ、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「……ありがとうございます」
自然と、柔らかな笑みがこぼれた。
「ですが、今は大丈夫でございます」
「……そっか。分かった!」
ヴィオレッタは頷いたものの、心配そうな表情は消えなかった。
「じゃあ、今日は早めに休んでね。無理しちゃだめだよ?」
「ふふ。かしこまりました」
二人は小さく笑い合った。
エマは手紙を引き出しへしまい、ヴィオレッタとともに部屋を後にした。
◇
その日の夜、ヴィオレッタは自室で翌日の授業に使う本を鞄へ詰めていた。
「えっと、これと……あれ?」
机の上を見回し、首を傾げる。
探しているのは授業で使う小さなノートだった。帰ってきた時には机の上に置いたはずなのに、どこにも見当たらない。
「……おかしいなあ」
引き出しを開け、棚を覗き込み、椅子の下まで確認してみるものの、やはり見つからなかった。
その時、扉が静かに開いた。
「ヴィオレッタ様、何かお探しですか?」
「あ、エマ! ノートが見つからなくて……」
「ノート、でございますか?」
「うん。確か、机の上に置いたと思うんだけど」
エマは周囲を見回すと、窓際の小さな棚へ歩み寄った。
「こちらではございませんか?」
「あっ!」
そこには、探していたノートが置かれていた。
「そうだった! さっき窓のところで読んでたんだ!」
ヴィオレッタは嬉しそうに駆け寄り、ノートを手に取った。
「ありがとう、エマ!」
「ふふ。見つかって何よりでございます」
「やっぱりエマはすごいなあ。私が忘れたことも、すぐ分かっちゃうんだもん」
「長年お仕えしておりますので、ヴィオレッタ様の行動は少しだけ予想できるのです」
「ええっ、そんなに分かりやすい?」
「……ふふ。どうでしょう」
「もう!」
ヴィオレッタが頬を膨らませると、エマは小さく笑った。
けれど、その笑顔はどこかぎこちなく、ヴィオレッタはふと首を傾げる。
(……やっぱり、何かあったのかな)
夕方のことが気になっていた。
エマは大丈夫だと言っていたけれど、いつもより元気がないのは確かだった。
「……エマ」
「はい?」
「本当に、無理しないでね?」
エマは少し驚いたように瞬きをした。
それから、柔らかく微笑む。
「……ありがとうございます、ヴィオレッタ様」
「うん!」
ヴィオレッタは安心したように笑った。
けれど、エマの胸の奥では、父親から届いた手紙の言葉が重くのしかかっていた。
(……どうすれば、よいのでしょう)
今はまだ、ヴィオレッタに何も伝えられない。
心配をかけたくないという気持ちもあるが、それ以上に、自分自身が現実を受け止めきれていなかった。
「それでは、ヴィオレッタ様。おやすみなさいませ」
「うん! おやすみ、エマ!」
エマは静かに一礼し、部屋を後にした。
◇
夜更け、エマは自室の机に向かい、一枚の便箋を広げていた。
父親への返事を書くためだったが、筆を持ったまま、なかなか言葉が出てこない。
『お父様。
このたびのお話について、私は――』
そこまで書いて、手が止まった。
断りたい。その気持ちは、はっきりしている。
けれど、どう書けばよいのだろう。
父親は娘の希望を尋ねるために手紙を送ってきたわけではない。すでに決めたことを、知らせてきただけなのだ。
エマはしばらく便箋を見つめたあと、ゆっくりと筆を置いた。
「……少し、考えましょう」
今すぐ返事を出す必要はない。せめて、自分の気持ちを整理してからにしよう。
そう思いながら窓の外へ目を向けると、夜空には静かな月が浮かんでいた。
(……私は、どうしたいのでしょう)
答えは、もう分かっているはずだった。
それでも、その答えを口にする勇気だけが、まだ見つからなかった。




