第99話 侍女の知られざる過去
アルバレス公爵家の朝は、いつも静かに始まる。
廊下を行き交う使用人たちの足音。厨房から漂う焼きたてのパンの香り。そして、窓から差し込む柔らかな朝の光。
エマは洗い終えた銀の盆を棚に戻し、ふと手を止めた。
「……もう、九年になるのですね」
昨日、ヴィオレッタと交わした会話を思い出す。
十五歳の頃に、この家へ来たこと。
あの時は、自分がこれほど長く公爵家に仕えることになるとは思っていなかった。
エマは棚の扉を閉め、静かに微笑んだ。
九年前。
まだ、何も知らなかった頃の記憶が、ゆっくりとよみがえってくる。
◇
「エマ。お前には、アルバレス公爵家へ行ってもらう」
十五歳のエマがその言葉を聞いたのは、故郷の屋敷にある食堂だった。
長い食卓の向こうに座る父は、いつものように険しい顔をしていた。
「……アルバレス公爵家、ですか?」
「そうだ。先方に話を通してある。来月には出発しろ」
突然の話に、エマは思わず母へ視線を向けた。
けれど、母は紅茶のカップを置いただけだった。
「上位貴族のお屋敷で行儀を学べるのです。ありがたく思いなさい」
「……はい」
エマは小さく頷いた。
地方の小さな男爵家。
それが、エマの生まれたグレイフォード家だった。
古くから続く家ではあったが、近年の暮らしぶりは決して豊かではなかった。
父は家柄を誇り、社交の場では見栄を張る。
その一方で、領地の管理にはほとんど関心を示さず、屋敷の修繕も後回しになっていた。
使用人の数は年々減り、かつて華やかだった庭園も、今では手入れが行き届いていない。
それでも父は、客人の前では高価な食器を並べ、豪華な料理を用意させた。
そのたびに、屋敷の使用人たちが困った顔をしていたことを、エマは覚えている。
「いいか、エマ」
父が低い声で続けた。
「公爵家に仕えるということは、我が家にとって大きな意味を持つ。決して粗相をするな」
「……承知いたしました」
「お前は三女だ。姉たちのように、家に利益をもたらす縁談がすぐにあるわけではない。せめて、役に立ってもらわねば困る」
エマは膝の上で、そっと手を握りしめた。
昔から、父はそういう人だった。
娘たちを一人の人間として見るより、家のために何ができるかを重視する。
長女が嫁いだ時も、次女の縁談が決まった時も、父が喜んでいたのは相手の家柄や財産のことばかりだった。
「……はい、お父様」
エマはそれ以上、何も言わなかった。
言っても、きっと聞いてはもらえない。
そう分かっていたからだ。
◇
アルバレス公爵家へ向かう馬車の中で、エマは窓の外を眺めていた。
故郷の景色が、少しずつ遠ざかっていく。
寂しさがなかったわけではない。
けれど、それ以上に胸を占めていたのは、不思議な安堵だった。
(……これで、しばらくはあの家を離れられる)
父の機嫌をうかがう毎日。
母から繰り返される、貴族の娘としての役目についての話。
そんな暮らしから、少しだけ距離を置ける。
もちろん、公爵家での生活が楽なものだとは思っていなかった。
むしろ、今まで以上に厳しい礼儀作法を求められるだろう。
それでも。
(……私にも、何かできることがあるかもしれない)
エマは膝の上で手を重ね、小さく息を吐いた。
その時の彼女は、まだ知らなかった。
これから出会う一人の少女が、自分の人生を大きく変えることになるなんて。
◇
アルバレス公爵家の屋敷は、エマが想像していた以上に立派だった。
高い門をくぐると、美しく整えられた庭園が広がり、その奥には白い石造りの大きな屋敷が建っている。
「……すごい」
思わず呟いたエマに、案内役の使用人が微笑んだ。
「最初は皆さん、驚かれますよ」
「……失礼いたしました」
「ふふ。お気になさらず」
エマは慌てて背筋を伸ばした。
その日から、彼女の新しい生活が始まった。
礼儀作法の確認、屋敷での仕事の手順、来客への対応。
覚えることは山ほどあった。
最初の頃は失敗も多かったが、先輩の使用人たちは丁寧に教えてくれた。
失敗すれば注意される。
けれど、理由を説明してもらえるし、次にできるようになれば褒めてもらえる。
それは、エマにとって新鮮なことだった。
(……ちゃんと、見てくださるんだ)
家柄でも、父親の評価でもなく、自分が何をしたかで判断してもらえる。
エマは少しずつ、この屋敷で働くことに喜びを感じ始めていた。
そんなある日のこと。
「エマ、少しいいかしら」
先輩の侍女に呼び止められた。
「はい。何でしょうか」
「お嬢様のお部屋へ、お茶を運んでいただける?」
「……お嬢様、ですか?」
「ええ。ヴィオレッタ様よ」
その名前を聞いて、エマは少しだけ緊張した。
アルバレス公爵家の一人娘。
まだ六歳ほどの少女だと聞いている。
けれど、使用人たちの間では、少々気難しいお嬢様として知られていた。
「……承知いたしました」
エマは盆を受け取り、慎重に廊下を歩き始めた。
◇
「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
扉を開くと、広い部屋の中央に、小さな少女が座っていた。
銀色の髪。
淡い青色の瞳。
人形のように整った顔立ち。
それが、エマが初めて見たヴィオレッタだった。
「……遅いわ」
少女はエマを見るなり、眉を寄せた。
「申し訳ございません」
「いつもの人は?」
「本日は、私がお持ちするよう申しつかりました」
「ふうん」
ヴィオレッタは興味なさそうに視線を逸らした。
エマは静かにお茶を並べる。
すると、少女が突然口を開いた。
「それ、違う」
「……え?」
「カップの向き。いつもと違うわ」
エマは慌ててカップを確認した。
確かに、取っ手の向きが普段とは少し違っていたらしい。
「申し訳ございません。ただいま直します」
「まったく……」
ヴィオレッタは小さくため息をついた。
「ちゃんとしてよね」
「……はい」
エマは深く頭を下げた。
部屋を出たあと、廊下で小さく息を吐く。
(……厳しいお嬢様なのね)
けれど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
あれほど小さな子どもが、周囲の大人たちに囲まれながら、いつも不機嫌そうにしている。
それが、少しだけ寂しそうにも見えたからだ。
もちろん、当時のエマには、その理由など分からなかった。
◇
それから二年ほどが過ぎた。
エマは屋敷の仕事にも慣れ、少しずつヴィオレッタの身の回りの世話を任されるようになっていた。
相変わらず、ヴィオレッタは気難しい少女だった。
気に入らないことがあれば、すぐに顔をしかめる。
使用人の小さな失敗にも、容赦なく注意する。
エマも何度か、理不尽な叱責を受けたことがあった。
それでも、彼女は仕事を続けていた。
そんなある日。
ヴィオレッタが八歳になって間もない頃だった。
「……エマ」
「はい、ヴィオレッタ様」
いつものように朝の支度を手伝っていると、ヴィオレッタが突然名前を呼んだ。
「……昨日は、ごめんなさい」
エマは思わず手を止めた。
「……はい?」
「昨日、私、ひどいこと言ったでしょ」
ヴィオレッタは少しだけ俯いていた。
「……だから、ごめんなさい」
エマは驚いて、しばらく言葉が出なかった。
昨日、ヴィオレッタは些細なことで機嫌を損ね、エマに強い言葉を向けていた。
けれど、それは今までにも何度かあったことだ。
謝られたことなど、一度もなかった。
「……ヴィオレッタ様」
「……怒ってる?」
「いいえ」
エマはゆっくりと首を横に振った。
「怒ってなどおりません」
「……本当?」
「はい」
ヴィオレッタはほっとしたように笑った。
「……よかった」
その笑顔は、今まで見たことがないほど柔らかかった。
エマは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
その日を境に、ヴィオレッタは少しずつ変わり始めた。
使用人に礼を言うようになった。
自分の失敗を認めるようになった。
そして、周囲の人々が何を考えているのか、気にかけるようになった。
もちろん、すぐにすべてが変わったわけではない。
時には失敗もしたし、言葉が足りずに誤解されることもあった。
それでも、ヴィオレッタは少しずつ前へ進もうとしていた。
エマは、そんな彼女を見守ることが嬉しかった。
(……この方は、きっと素敵な女性になられる)
そう思うようになったのは、いつ頃からだっただろう。
気づけばエマは、ヴィオレッタの成長を誰よりも楽しみにするようになっていた。
◇
「……エマ?」
不意に声をかけられ、エマは我に返った。
目の前には、現在のヴィオレッタが立っていた。
十五歳になった彼女は、幼い頃とは比べものにならないほど穏やかで、優しい少女に成長している。
「あら、ヴィオレッタ様。どうなさいましたか?」
「ううん。エマがぼーっとしてたから、どうしたのかなって」
「ふふ。少し昔のことを思い出しておりました」
「昔のこと?」
「はい。私がこちらに来た頃のことです」
「へえ!」
ヴィオレッタは興味深そうに目を輝かせた。
「どんな感じだったの?」
「そうですね……最初は、何もかもが新鮮でした」
「そっかあ」
「ですが、今ではすっかり慣れてしまいましたね」
エマは柔らかく微笑んだ。
ヴィオレッタも嬉しそうに笑う。
「エマがうちに来てくれて、よかった!」
「……ありがとうございます」
「だって、エマがいなかったら、私、絶対困っちゃうもん」
「ふふ。ヴィオレッタ様は、もう立派に成長なさっていますよ」
「ええっ、まだまだだよ!」
ヴィオレッタは慌てて首を振った。
「この前だって、廊下を間違えて違う教室に入っちゃったし……」
「……それは、また別のお話かと」
エマがくすりと笑う。
「もう! エマまで!」
二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
その笑顔を見ながら、エマは静かに思った。
(……私は、この方のそばにいられて幸せです)
それは、九年前には想像もしていなかった気持ちだった。
生まれた家では、自分の役目を果たすことばかり求められていた。
けれど、この屋敷では、自分の仕事を認めてもらえる。
そして何より、心から大切に思える人がいる。
エマはそっと胸に手を添えた。
昨日届いた手紙のことが、頭の片隅をよぎる。
けれど、今はまだ、その内容を確かめる術もない。
(……考えすぎても、仕方ありませんね)
エマは小さく息を吐き、いつもの笑顔を浮かべた。
「ヴィオレッタ様。本日は、どのようにお過ごしになりますか?」
「うーん……そうだ! 昨日話してたお菓子作り、今日できる?」
「ふふ。もちろんでございます」
「やった!」
ヴィオレッタは嬉しそうに笑った。
その姿を見て、エマも自然と微笑む。
いつもと変わらない、穏やかな日常。
エマは、その時間を心から大切に思っていた。




