第98話 エマに届いた手紙
学院祭が終わった翌朝。
ヴィオレッタ・アルバレスは、いつもより少し遅い時間に目を覚ました。
「……んん」
柔らかな布団の中で寝返りを打つ。
窓の向こうからは、秋の穏やかな日差しが差し込んでいた。
(……あれ? もう朝?)
ぼんやりと天井を見つめていると、控えめなノックの音が聞こえてきた。
「ヴィオレッタ様、お目覚めでしょうか」
「あ、エマ……おはよう」
「おはようございます。よくお休みになれましたか?」
「うん……すっごく」
ヴィオレッタは布団から顔を出し、少しだけ笑った。
「昨日、楽しかったなあ……」
「ふふ。学院祭のことでございますね」
「そう! みんなで頑張った劇も成功したし、セレスのお菓子屋さんも美味しかったし、カトレアの作品も可愛かったし!」
「それは何よりでございます」
エマは微笑みながら、窓辺のカーテンを開いた。
朝の光が部屋いっぱいに広がる。
「それにしても、昨日のヴィオレッタ様は本当に素敵でしたね」
「えっ?」
「銀の王子様のお姿です。私も拝見したかったです」
「あ、そっか。エマは見られなかったんだよね」
「はい。ですが、学院祭からお戻りになったヴィオレッタ様のお話だけでも、十分に楽しさが伝わってまいりました」
「えへへ。今度、衣装を着て見せようか?」
「まあ、本当ですか?」
「うん! リリがすっごく頑張って作ってくれたんだよ」
ヴィオレッタは嬉しそうに笑った。
エマも、そんな彼女を見て柔らかく目を細める。
「楽しみにしておりますね」
いつもと変わらない朝。
いつもと変わらない、二人のやり取りだった。
◇
身支度を整えたヴィオレッタは、エマと一緒に朝食の準備を進めていた。
「そういえば、今日はお休みだったよね?」
「はい。学院祭の翌日ですので、授業はございません」
「やった! じゃあ、今日は何しようかなあ」
ヴィオレッタは椅子に腰掛けながら、楽しそうに考え始めた。
「リリたちとお茶するのもいいし、カトレアと手芸の続きをするのもいいし……」
「ふふ。相変わらずお忙しそうですね」
「だって、やりたいことがいっぱいあるんだもん」
エマは小さく笑い、紅茶を注いだ。
その時、扉が静かに叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、屋敷の使用人の一人だった。
「エマ様。お手紙が届いております」
「私に、ですか?」
「はい。今朝、屋敷に届けられたものです」
差し出された封筒を見た瞬間、エマの表情がわずかに変わった。
「……ありがとうございます」
受け取った封筒には、古びた家紋の封蝋が押されていた。
ヴィオレッタは首を傾げる。
「エマ、お手紙?」
「……はい。実家からのようです」
「実家?」
「ええ。私の生まれた家でございます」
「へえ……!」
ヴィオレッタは少し驚いた。
そういえば、エマの家族については、あまり詳しく聞いたことがない。
エマは幼い頃からずっとそばにいてくれた。
だからこそ、彼女にも自分の知らない家族や故郷があることを、普段はあまり意識していなかったのだ。
「久しぶりのお手紙なの?」
「……そうですね。しばらく連絡はございませんでしたので」
エマは封筒を見つめたまま、少しだけ間を置いた。
「後ほど、確認いたします」
「うん!」
ヴィオレッタはそれ以上尋ねず、朝食へと視線を戻した。
けれど、エマが封筒を引き出しにしまう時、その指先がほんの少し震えていたことには気づかなかった。
◇
午前中、ヴィオレッタは自室で学院祭の思い出を振り返っていた。
机の上には、劇の台本と、リリアーナが作ってくれた王子の衣装の一部が置かれている。
「……ふふ」
台本を開くと、昨日の舞台が鮮やかによみがえってきた。
月の姫と銀の王子。
最後に二人で手を取り合った場面では、客席から大きな拍手が起こった。
(リリ、本当に綺麗だったなあ)
ドレス姿のリリアーナを思い出し、ヴィオレッタは嬉しそうに微笑んだ。
セレスもカトレアも、たくさん褒めてくれた。
アリアとミレーヌも、舞台の成功を心から喜んでくれていた。
(……みんなで頑張ってよかった)
そんなことを考えていると、扉の外から声が聞こえた。
「ヴィオレッタ様、お茶をお持ちいたしました」
「あ、エマ! ありがとう!」
エマが盆を持って入ってくる。
いつものように紅茶と小さな焼き菓子を並べ、静かに一礼した。
「本日は、少し甘めのお菓子をご用意いたしました」
「わあ、美味しそう!」
ヴィオレッタは嬉しそうに笑った。
けれど、ふと気づく。
エマの表情が、どこか硬い。
「……エマ?」
「はい?」
「何かあった?」
エマは一瞬だけ目を見開いた。
「……いえ。何もございませんよ」
「本当?」
「はい。どうぞ、お茶が冷めないうちに」
そう言って微笑むエマ。
けれど、その笑顔はいつもより少しだけぎこちなかった。
(……気のせいかな?)
ヴィオレッタは首を傾げた。
エマはいつも、穏やかで優しい。
忙しい時でも、困った顔をすることはほとんどない。
だからこそ、今日の彼女には何か違和感があった。
「エマ、疲れてる?」
「……え?」
「昨日もお仕事だったでしょ? 今日は少し休んでもいいんだよ?」
エマは驚いたようにヴィオレッタを見つめた。
そして、ふっと表情を緩める。
「……ありがとうございます、ヴィオレッタ様」
「ううん! いつも頑張ってくれてるもん」
「ですが、私は大丈夫です」
「そっか……」
ヴィオレッタは少しだけ考えたあと、笑顔を浮かべた。
「じゃあ、あとで一緒にお茶しない?」
「……私と、ですか?」
「うん! 今日はお休みだし、ゆっくりお話ししたいなって」
エマは一瞬、言葉を失った。
それから、いつもの優しい笑顔を浮かべる。
「……喜んで、お付き合いいたします」
「やった!」
ヴィオレッタは嬉しそうに笑った。
エマも微笑み返したが、その胸の奥には、朝から消えない重苦しさが残っていた。
◇
午後。
ヴィオレッタが読書をしている間、エマは自分に与えられた小さな部屋へ戻っていた。
机の上には、朝届いた封筒が置かれている。
古い家紋。
見慣れた筆跡。
エマはしばらくそれを見つめていた。
「……まさか、今になって」
小さく呟き、ゆっくりと封を切る。
中には、一枚の便箋が入っていた。
書かれていたのは、短い文章だった。
『エマへ。
近頃、我が家にとって重要な話が持ち上がっている。
お前にも関わることゆえ、近いうちに詳しく知らせる。
その際には、必ずこちらの指示に従うように。
父より』
エマは便箋を握りしめた。
「……重要な話、ですか」
胸の奥に、嫌な予感が広がる。
実家からの連絡は、いつも突然だった。
そして、その内容が自分にとって嬉しいものであったことは、ほとんどない。
エマは静かに目を閉じた。
幼い頃の記憶が、ふとよみがえる。
広いだけの古びた屋敷。
厳しい父親の声。
母親の冷たい視線。
そして、姉たちが家のために嫁いでいった日のこと。
(……私は、もうあの家には戻りたくない)
そう思っていた。
アルバレス公爵家に仕えるようになってから、九年。
ここには、自分の居場所がある。
毎日忙しくても、誰かの役に立てる喜びがある。
そして何より――。
「……ヴィオレッタ様」
エマは小さく名前を呟いた。
あの方のそばで、これからも働いていたい。
その願いは、決して贅沢なものではないはずだった。
けれど、便箋に書かれた父親の言葉は、そんなささやかな願いさえ許さないように思えた。
エマは手紙を丁寧に折り畳み、引き出しの奥へしまった。
「……まだ、何も決まったわけではありません」
自分に言い聞かせるように呟く。
そして、鏡の前でいつもの笑顔を作った。
ヴィオレッタ様に、心配をかけてはいけない。
そう思いながら、部屋を後にした。
◇
夕方。
ヴィオレッタは窓辺の椅子に座り、エマと一緒に紅茶を飲んでいた。
「ねえ、エマ」
「はい、ヴィオレッタ様」
「エマって、いつからうちに来たんだっけ?」
突然の質問に、エマは少し驚いたように瞬きをした。
「……私が十五歳の頃でございます」
「十五歳?」
「はい。ちょうど、今のヴィオレッタ様と同じ年頃ですね」
「ええっ! そんなに若かったの!?」
ヴィオレッタは目を丸くした。
「すごいなあ……私なんて、まだ何もできないのに」
「ふふ。そんなことはございませんよ」
エマは柔らかく微笑んだ。
「ヴィオレッタ様は、私が十五歳だった頃よりも、ずっと多くのことを考えていらっしゃいます」
「そうかなあ?」
「ええ。少なくとも、あの頃の私は、自分がこれからどうしたいのかさえ、よく分かっておりませんでした」
その言葉に、ヴィオレッタは少しだけ首を傾げた。
「……エマは、どうしてうちに来たの?」
エマの指が、紅茶のカップに触れたまま止まった。
ほんの一瞬。
けれど、ヴィオレッタはその変化を見逃さなかった。
「……実家の意向でございます」
「実家の?」
「はい。私は地方の小さな男爵家の三女として生まれました。貴族の娘が上位の家に仕え、礼儀や作法を学ぶことは、珍しいことではございません」
「へえ……」
「私も、その一人だったのです」
エマは穏やかに答えた。
けれど、その声にはどこか寂しさが混じっていた。
「……エマ」
「はい?」
「うちに来て、よかった?」
エマは驚いたように顔を上げた。
ヴィオレッタは、少し不安そうに笑っていた。
「だって、私、小さい頃はすっごくわがままだったでしょ? エマにも、いっぱい迷惑かけたと思うし……」
「……ヴィオレッタ様」
「だから、嫌じゃなかったかなって」
エマはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「……いいえ」
その声は、とても優しかった。
「私は、こちらに来られて、本当によかったと思っております」
「……本当?」
「はい。心から」
ヴィオレッタはほっとしたように笑った。
「……よかった!」
エマも微笑んだ。
その表情を見て、ヴィオレッタは安心したように紅茶を口に運ぶ。
「そうだ! 今度、エマも一緒にお菓子を作らない?」
「お菓子、でございますか?」
「うん! 昨日、セレスのクラスで食べたタルトがすっごく美味しくて。私も作ってみたいんだ」
「ふふ。それは楽しそうですね」
「でしょ? エマ、作り方知ってる?」
「簡単なものでしたら、お教えできると思いますよ」
「やった! じゃあ、今度教えてね!」
「かしこまりました」
エマはいつもどおり、穏やかに微笑んだ。
ヴィオレッタも嬉しそうに笑い、さっそくどんな果物を使おうかと考え始める。
そんな彼女の姿を見つめながら、エマはそっとカップを持ち上げた。
先ほどまで胸の奥にあった重苦しさが、少しだけ和らいでいる。
(……本当に、不思議なお方です)
何気ない言葉で、いつも自分の心を温かくしてくれる。
エマは紅茶を一口飲み、静かに微笑んだ。
けれど、自室の引き出しにしまった手紙のことだけは、まだヴィオレッタに話すつもりはなかった。
今はただ、こうして穏やかな時間を過ごしていたかったから。




