第97話 月の姫と銀の王子
フィオラ女学院の講堂には、開演を待つ人々の話し声が広がっていた。
客席には学院の生徒たちだけでなく、招待された家族や貴族たちの姿もある。舞台の前には花が飾られ、天井から差し込む秋の日差しが、講堂全体を柔らかく照らしていた。
「わあ……結構人がいるね」
舞台袖の隙間から客席を覗いたヴィオレッタは、思わず小さな声を漏らした。
「本当ですね……」
隣に立つリリアーナも、少し緊張した様子で頷く。
淡い青色のドレスをまとった彼女は、胸元にそっと手を添えていた。
「リリ、緊張してる?」
「……少しだけ」
「私も。さっきまでは平気だったんだけど、こうしてお客さんを見ると、ちょっとドキドキするね」
ヴィオレッタが笑うと、リリアーナも小さく微笑んだ。
「でも……ヴィオレッタ様と一緒なら、大丈夫な気がします」
「本当?」
「はい。これまで、たくさん練習してきましたから」
「……うん、そうだね!」
ヴィオレッタは頷き、リリアーナへ手を差し出した。
「じゃあ、最後まで一緒に頑張ろう!」
「はい!」
リリアーナがその手を握る。
その時、舞台袖の奥からアリアがやってきた。
「お二人とも、準備はよろしいですか?」
「うん!」
「はい、大丈夫です」
「ふふ。それなら安心です。小道具も背景も、すべて確認できていますよ」
アリアは穏やかに微笑んだ。
「どうか、楽しんできてくださいね」
「ありがとう、アリア!」
その後ろから、ミレーヌが顔を覗かせる。
「皆さん! いよいよ開演です!」
その声に、ヴィオレッタは深く息を吸った。
(……よし!)
今日まで、みんなで頑張ってきた。
だからこそ、最高の舞台にしたい。
そう思いながら、彼女はそっと舞台の方へ目を向けた。
◇
客席の前方では、セレスティアが落ち着かない様子で座っていた。
「ねえ、カトレア。まだかな?」
「もうすぐだと思うよ」
「さっきからずっと楽しみで!」
「ふふ。知っているよ」
隣に座るカトレアは、穏やかに微笑んでいる。
セレスティアは舞台の幕を見つめながら、両手を握りしめた。
「ヴィオレッタ、ちゃんとできるかな?」
「大丈夫さ。あれだけ練習していたんだから」
「そうだよね!」
セレスティアは嬉しそうに頷いた。
やがて、講堂の照明が少し落とされる。
客席のざわめきが静まり、舞台の幕がゆっくりと上がった。
最初に姿を現したのは、月の国の姫君だった。
淡い青色のドレスをまとったリリアーナが、月明かりを模した照明の下で静かに佇んでいる。
その姿に、客席から小さな感嘆の声が漏れた。
「……綺麗」
セレスティアが思わず呟く。
「リリ、本当にお姫様みたい」
「ああ。よく似合っているね」
カトレアも静かに頷いた。
舞台の上で、リリアーナがゆっくりと顔を上げる。
「『今夜も、月はこんなに明るいのに……』」
その声は、講堂の奥まで澄んで響いた。
「『どうして私の心は、こんなにも寂しいのでしょう』」
静かな音楽が流れ、物語が始まる。
月の国の姫は、国を守るために古い塔で暮らしていた。
誰かと自由に会うこともできず、窓の外に広がる世界を眺めることしかできない。
そんな彼女の前に、一人の旅人が現れる。
「『こんなところに、一人でいたの?』」
舞台の端から、銀の王子が姿を現した。
白い上着に紺色のマント。
銀色の髪を緩く結び、背筋を伸ばして歩くその姿に、客席が一瞬静まり返った。
「……っ!」
セレスティアが息を呑む。
「……やっぱり、格好いい」
隣のカトレアも、思わず微笑んだ。
「うん。とても素敵だね」
ヴィオレッタはそんな客席の反応には気づかず、ただ目の前の物語に集中していた。
「『あなたは……?』」
リリアーナが問いかける。
「『ただの旅人だよ。でも、困っている人を見過ごすのは苦手なんだ』」
ヴィオレッタは柔らかく微笑み、そっと片手を差し出した。
「『よかったら、僕に手伝わせてくれないかな』」
リリアーナは一瞬だけその手を見つめ、やがて小さく頷いた。
「『……あなたを、信じてもよろしいのでしょうか』」
「『もちろん。君が望むなら、僕は何度だってここへ来るよ』」
その言葉に、リリアーナの表情が柔らかく変わった。
客席では、何人かの生徒が小さく息を漏らしている。
「……ねえ、カトレア」
「何だい?」
「私、あの王子様に迎えに来てほしい」
「……ふふ。僕も少し、そう思ったよ」
二人は小さく笑い合った。
◇
物語は順調に進んでいった。
月の姫と銀の王子は、何度も塔で会ううちに心を通わせていく。
けれど、月の国には古い決まりがあった。
姫が塔を離れれば、国を守る月の光が失われてしまうというのだ。
やがて王子は、姫を自由にするため、その決まりの真実を探しに旅立つことになる。
「『あなたは帰ってください。私のために、これ以上危険な目に遭ってほしくありません』」
リリアーナが静かに告げる。
その声には、練習の時以上の切なさが込められていた。
「『君を置いて帰ることなんて、できないよ』」
ヴィオレッタが一歩近づく。
「『でも……』」
「『僕は、君の笑顔が見たいんだ』」
そっと手を取り、まっすぐに目を見つめる。
「『だから、もう一度だけ信じてほしい。僕が、必ず君を迎えに来るから』」
リリアーナの瞳が揺れる。
「『……お待ちしています』」
その返事に、王子は優しく微笑み、舞台の奥へと姿を消した。
客席からは、静かなため息が漏れる。
舞台袖では、ミレーヌが感激した様子で拳を握りしめていた。
(素晴らしいです……! お二人とも、練習以上の演技です!)
その隣で、アリアは次の場面に使う小道具を確認していた。
王子が旅の途中で見つける、古い月の紋章が刻まれた小箱。
物語の結末につながる、大切な小道具だ。
「……あら?」
アリアはふと眉を寄せた。
小箱を置いていた台の上に、何もない。
「……小箱がありません」
「えっ!?」
ミレーヌが振り向く。
「そんな……さっきまで、確かにここに……!」
アリアはすぐに周囲を見回した。
小道具の置き場所は、何度も確認している。
けれど、今は見当たらなかった。
「……落ち着いてください。まだ時間があります」
アリアは静かに言った。
「私が探します。ミレーヌ様は、舞台の進行をお願いします」
「は、はい!」
アリアは素早く舞台袖を移動し、小道具の箱を一つずつ確認した。
そして――。
「あっ……!」
背景の布の陰に、小さな箱が置かれていた。
どうやら、舞台の転換作業で誰かが一時的に移動させてしまったらしい。
「……よかった」
アリアは小さく息を吐き、すぐに箱を手に取った。
そのまま、次の出番を待つ生徒へそっと手渡す。
「こちらをお願いします」
「はい!」
舞台の上では、ちょうど王子が旅の終わりを迎えるところだった。
小箱は無事に運ばれ、物語は何事もなかったかのように続いていく。
アリアはようやく肩の力を抜いた。
(……本当に、間に合ってよかったです)
その隣で、ミレーヌが小さく頷く。
「アリア様、ありがとうございます……!」
「ふふ。皆さんで作った舞台ですもの。最後まで支え合いましょう」
二人は顔を見合わせ、静かに微笑んだ。
◇
物語はいよいよ終盤を迎えていた。
王子は旅の果てに、月の国の古い伝承が誤って伝えられていたことを知る。
国を守る光は、姫を閉じ込めることで生まれるのではない。
人々が互いを思いやり、希望を失わずにいることで、月は輝き続けるのだ。
王子はその証となる小箱を手に、再び塔へ戻ってきた。
「『約束どおり、迎えに来たよ』」
ヴィオレッタが微笑む。
リリアーナは驚いたように顔を上げた。
「『……本当に、戻ってきてくださったのですね』」
「『もちろん。君との約束を、忘れるはずがない』」
ヴィオレッタは小箱を開き、中に収められた月の紋章を示した。
「『君が自由になることで、この国の光が失われることはないんだ』」
「『……それは、本当なのですか?』」
「『ああ。だから、もう一人で泣かなくていい』」
ヴィオレッタはそっと手を差し出した。
「『姫君、どうか僕と一緒に』」
リリアーナはその手を見つめた。
そして、ゆっくりと微笑む。
「『……はい。喜んで』」
二人の手が重なった瞬間、舞台の背景がゆっくりと変わり、満月を模した大きな飾りが現れた。
柔らかな光が二人を照らす。
「『これからは、どんな世界が待っているのでしょう』」
リリアーナが問いかける。
ヴィオレッタは少しだけ笑った。
「『きっと、素敵な世界だよ』」
そして、最後の台詞を告げる。
「『だって、君と一緒なんだから』」
その瞬間、舞台の幕がゆっくりと下り始めた。
一瞬の静寂。
そして――。
大きな拍手が、講堂いっぱいに響き渡った。
◇
「……終わったあ!」
舞台袖へ戻ったヴィオレッタは、思わず大きく息を吐いた。
「ヴィオレッタ様、お疲れさまでした!」
リリアーナも嬉しそうに笑っている。
「リリも! すっごくよかったよ!」
「ありがとうございます。ヴィオレッタ様も、本当に素敵でした」
二人が笑い合っていると、アリアとミレーヌが駆け寄ってきた。
「お二人とも、素晴らしかったです!」
「本当に! 大成功ですよ!」
ミレーヌは感激した様子で、今にも泣き出しそうだった。
「私……こんなに素敵な舞台になるなんて……!」
「ミレーヌが頑張ってくれたからだよ」
ヴィオレッタが笑う。
「アリアも、みんなも! 本当にありがとう!」
アリアは嬉しそうに微笑んだ。
「こちらこそ。お二人のおかげで、素敵な物語になりました」
その時、講堂の入口から明るい声が響いた。
「ヴィオレッタ!」
「セレス!」
セレスティアが勢いよく駆け寄ってくる。
「すっごくよかった! 本当に、本当に格好よかったよ!」
「わっ、ありがとう!」
「最後の台詞なんて、もう……!」
セレスティアは興奮した様子で両手を握った。
「私、何回でも見たい!」
「ふふ。そんなに?」
「そんなに!」
その後ろから、カトレアも歩いてきた。
「お疲れさま、ヴィオレッタ。リリアーナも」
「カトレア!」
「二人とも、とても素敵だったよ。舞台の上で、本当に物語の登場人物になっていた」
「ありがとう!」
ヴィオレッタは嬉しそうに笑った。
リリアーナも深く頭を下げる。
「ありがとうございます、カトレア様」
カトレアは柔らかく微笑んだ。
「……僕も、あんなふうに誰かを笑顔にできたらいいな」
「え?」
ヴィオレッタが首を傾げる。
すると、カトレアは少し照れたように笑った。
「いや、何でもないよ」
セレスティアはそんな二人を見て、くすくすと笑っていた。
◇
学院祭が終わりに近づく頃、ヴィオレッタたちは校舎の外へ出ていた。
夕暮れの空は茜色に染まり、学院の庭には柔らかな風が吹いている。
「今日は、本当に楽しかったね」
ヴィオレッタが呟く。
「はい。忘れられない一日になりました」
リリアーナが微笑む。
「ふふ。私も、皆さんと一緒に過ごせて嬉しかったです」
アリアも頷いた。
「来年も、また一緒に何かできたらいいね!」
セレスティアが元気よく言う。
「もちろん!」
ヴィオレッタが笑うと、カトレアも穏やかに微笑んだ。
「その時も、ぜひ僕を誘ってほしいな」
「当たり前だよ、カトレア!」
五人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
その時、ヴィオレッタはふと学院の方へ振り返った。
華やかな学院祭。
大勢の人々。
そして、舞台の上で交わした約束。
(……そういえば)
原作ゲームの学院祭では、何か大切な出来事が起きていたはずだった。
けれど、今日という日は、ただ楽しくて、温かくて。
不安に思っていたような出来事は、何一つ起こらなかった。
(……きっと、大丈夫だよね)
ヴィオレッタは小さく微笑んだ。
過去の物語がどうだったとしても、今の自分たちは、自分たちの物語を歩んでいる。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「ヴィオレッタ! 早く行こう!」
セレスティアが手を振る。
「うん! 今行く!」
ヴィオレッタは笑顔で駆け出した。
秋の夕暮れの中、少女たちの楽しそうな声が響いていく。
こうして、フィオラ女学院の学院祭は、たくさんの笑顔とともに幕を閉じた。




