第92話 王子様とお姫様
新学期が始まって二日目。
フィオラ女学院の一年生の教室では、朝から学院祭の話題で持ちきりだった。
「それでは皆さん、今日は『月の姫と銀の王子』の配役を決めたいと思います!」
教壇の前に立ったミレーヌ・オルコットが、台本を胸に抱えて声を弾ませる。
昨日、演劇を提案した彼女は、そのまま脚本と演出を担当することになったらしい。もともと物語が好きなだけあって、今朝も誰より早く教室に来て、黒板に役名を書き出していた。
王子役の欄には、すでにヴィオレッタ・アルバレスの名前が記されている。
(……昨日のこと、夢じゃなかったんだ)
ヴィオレッタは自分の名前を眺めながら、小さくため息をついた。
前世でも演劇の主役なんて経験はない。ましてや王子様となれば、どう振る舞えばいいのかさっぱり分からなかった。
「ヴィオレッタ様、そんなに心配なさらなくても大丈夫ですよ」
隣からリリアーナが優しく声をかける。
「昨日の台詞、とても素敵でしたもの」
「ありがとう、リリ。でも、あれはちょっと読んでみただけだからなあ」
「それでも、皆さんが見惚れていらっしゃいましたよ」
「……そうなの?」
ヴィオレッタが首を傾げると、リリアーナはなぜか頬を赤くして視線を落とした。
その様子を見ていたアリアが、楽しそうに口元を緩める。
「ふふ。今日も賑やかな一日になりそうですね」
「アリア、何か知ってる?」
「いいえ、何も?」
どうにも含みのある返事だった。
◇
「さて、次は月の姫役です!」
ミレーヌが黒板を指さす。
「物語の中心になる大切な役ですから、王子様と息の合う方にお願いしたいと思っています」
教室のあちこちから、興味深そうな声が上がった。
「どなたが似合うかしら?」
「姫様なら、やっぱり優雅な方がいいわよね」
「でも、台詞もかなり多いそうですわ」
何人かの生徒が立候補し、順番に短い場面を読んでみることになった。
それぞれに魅力があり、ミレーヌも熱心に耳を傾けていたけれど、なかなか一人には絞れない。
「うーん……皆さん素敵なんですけど、もう少し王子様との掛け合いを見てみたいですね」
そこで、ミレーヌの視線がふとリリアーナへ向いた。
「そうだ! リリアーナ様、昨日の続きを読んでいただけませんか?」
「わ、私ですか?」
「はい! 昨日のお二人、とても自然でしたから」
突然名前を呼ばれたリリアーナは、困ったようにヴィオレッタを見た。
「でも、私なんかが姫役だなんて……」
「リリ、やってみようよ」
「ヴィオレッタ様?」
「私も一人じゃ不安だし、リリと一緒なら頑張れそうな気がするんだ」
ヴィオレッタは笑顔でそう告げた。
「それに、昨日も付き合ってくれたでしょ? すごく読みやすかったよ」
「……っ」
リリアーナの頬がみるみる赤くなる。
「そ、そんなふうに言っていただけるなら……」
彼女は小さく頷き、台本を持って立ち上がった。
二人が教室の前に並ぶと、ミレーヌは嬉しそうにページを開いた。
「では、王子様が月の姫を迎えに来る場面をお願いします!」
物語の中で、姫は自分の国を守るため、王子との別れを決意している。
それでも王子は諦めず、再び彼女のもとへやってくる。
リリアーナは台本を見つめ、一度息を整えた。
「『どうして……どうして、ここへ戻ってきたのですか。私は、あなたに何もしてあげられないのに』」
その声は少し震えていたけれど、姫の戸惑いがよく伝わってきた。
ヴィオレッタは続く台詞を確かめると、リリアーナに向き直る。
「『何かをしてもらうために来たんじゃないよ。君に会いたかったから、ここまで来たんだ』」
少しだけ声を落とし、できるだけ優しく微笑む。
リリアーナが顔を上げた。
「『でも、私と一緒にいれば、あなたまで……』」
「『それでもいい』」
ヴィオレッタは台本に書かれた動作を思い出し、そっと片手を差し出した。
「『君が一人で泣いているなら、僕は何度でも迎えに来る。だから……一緒に帰ろう』」
「…………」
リリアーナの声が途切れた。
差し出された手を見つめたまま、ぴたりと動かなくなってしまう。
「……リリ?」
「は、はいっ!」
「次、リリの台詞だよ?」
「あっ……!」
慌てて台本に目を落としたリリアーナだったけれど、どこを読んでいたのか分からなくなったらしい。
「ご、ごめんなさい……!」
「大丈夫だよ。ゆっくりでいいから」
ヴィオレッタが笑いかけると、リリアーナはますます顔を赤くした。
教室の後方から、小さな歓声が上がる。
「……素敵ですわ」
「今の王子様、本当に迎えに来てくださったみたい」
「リリアーナ様も、とても可愛らしかったです!」
ミレーヌは両手を胸の前で握りしめ、何度も頷いていた。
「決まりです! 姫役はリリアーナ様にお願いしたいです!」
「ええっ!?」
リリアーナが驚きの声を上げる。
「私、途中で台詞を忘れてしまいましたのに……」
「それも含めて、姫様の気持ちが伝わってきました! 何より、お二人の雰囲気がぴったりなんです!」
ほかの候補者たちからも賛成の声が上がり、リリアーナは戸惑いながらも、最後には小さく頭を下げた。
「……私でよろしければ、精いっぱい頑張ります」
「やった! よろしくね、リリ!」
「はい、ヴィオレッタ様!」
ヴィオレッタが嬉しそうに手を取ると、リリアーナはまた少しだけ頬を染めた。
その横で、アリアがくすりと笑う。
「これは、本番までにリリアーナ様が台詞を覚えるだけでなく、慣れる必要もありそうですね」
「ア、アリア様……!」
「ふふ、応援していますよ」
ミレーヌはすでに黒板へリリアーナの名前を書き加え、次の配役について話し始めている。
(よかった。リリが一緒なら、ちょっと安心かも)
ヴィオレッタはほっと胸を撫で下ろした。
もっとも、隣のリリアーナが何に慣れなければならないのかについては、まったく気づいていなかった。
◇
放課後。
教室での話し合いを終えたヴィオレッタは、廊下を歩きながら鞄の中の台本を確かめていた。
「王子様らしい歩き方、かあ……」
ミレーヌからは、次の練習までに立ち居振る舞いも考えておいてほしいと言われている。
けれど、王子様らしい仕草と言われても、すぐには思いつかない。
(……あれ? そういえば、身近にぴったりの人がいるじゃない!)
思い浮かんだのは、いつも凛々しく、自然に人を気遣う先輩の姿だった。
ヴィオレッタは顔を上げ、二年生の教室がある方へ向かった。
少し歩いたところで、見慣れた姿を見つける。
「カトレア!」
呼びかけると、窓辺で友人と話していたカトレアが振り向いた。
「やあ、ヴィオレッタ。どうしたんだい?」
「ちょっと相談があって。今、時間ある?」
「もちろん。君の相談なら喜んで」
カトレアは友人に軽く断りを入れ、ヴィオレッタのそばへやってきた。
「それで、何か困りごとかい?」
「うん。実はね、学院祭の劇で王子様役になっちゃったんだ」
「……王子役?」
カトレアがわずかに目を見開く。
「君が?」
「そうなの。私なんかより、カトレアの方がずっと似合うと思うんだけど……」
「ふふ、そうかな」
カトレアは楽しそうに笑った。
「僕は、君の王子様姿をぜひ見てみたいけどね」
「本当? でも、どうやったら王子様らしく見えるのか分からなくて」
「なるほど。それで僕に相談しに来たわけだ」
「うん! カトレアって、普段から格好いいでしょ? だから、ちょっと教えてほしいなって」
「……君は本当に、そういうことをさらりと言うね」
「え?」
「いや、何でもないよ」
カトレアは小さく笑い、少し考えるように顎へ手を添えた。
「それじゃあ、まずは相手をエスコートする時の仕草から始めようか」
「エスコート?」
「そう。王子様なら、姫君に手を差し出す場面もあるだろう?」
「あ、あるある! 今日もやったよ」
「それなら、ちょうどいいね」
カトレアはヴィオレッタの前に立つと、優雅に片手を差し出した。
「お手をどうぞ、お嬢さん」
「わあ……!」
思わず感嘆の声が漏れる。
背筋の伸びた姿勢も、柔らかな微笑みも、まるで物語から抜け出してきた王子様のようだった。
「すごい! やっぱりカトレア、格好いい!」
「ありがとう。さあ、今度は君の番だ」
「えっ、私が?」
「そう。僕を姫君だと思って、やってみてごらん」
「カトレアを?」
「ふふ、難しいかな?」
「ううん、やってみる!」
ヴィオレッタは一度姿勢を正し、先ほどのカトレアの動きを思い出した。
背筋を伸ばして、少しだけ顎を引く。
そして、目の前のカトレアへそっと手を差し出した。
「……お手をどうぞ、姫君」
「…………」
カトレアの笑みが、ほんの一瞬止まった。
ヴィオレッタは気づかず、続けて微笑む。
「僕と一緒に、来てくれる?」
「……っ」
今度こそ、カトレアが小さく息を呑んだ。
差し出された手と、ヴィオレッタの顔を交互に見つめる。
「……カトレア?」
「……ああ、うん」
「どうだった? 変じゃなかった?」
「いや……」
カトレアは口元に手を当て、少しだけ視線を逸らした。
「……思っていた以上に、様になっているよ」
「本当!?」
「うん。少し驚いたくらいだ」
「やった! カトレアに褒められると自信がつくなあ」
ヴィオレッタが嬉しそうに笑う。
その無邪気な表情を見て、カトレアもようやくいつもの微笑みを取り戻した。
「……ただ、一つだけ注意した方がいいかもしれないね」
「注意?」
「その笑顔は、あまり気軽に向けない方がいい」
「え? どうして?」
「……君が思っている以上に、効果があるからさ」
「効果?」
「ふふ。いずれ分かるよ」
意味が分からず首を傾げるヴィオレッタを見て、カトレアは楽しそうに笑った。
けれど、その頬にはほんのりと赤みが残っていた。
◇
翌日の昼休み。
いつものように食堂へ向かったヴィオレッタたちは、窓際の席で待っていたセレスティアと合流した。
「ねえ、聞いたよ! リリが姫役になったんだって?」
「は、はい……!」
リリアーナが少し恥ずかしそうに頷く。
「へえ、いいなあ! ヴィオレッタが王子様で、リリがお姫様なんて、絶対素敵じゃない!」
「ありがとう、セレス」
「でも……」
セレスティアは頬を膨らませ、ヴィオレッタをじっと見つめた。
「リリばっかりずるい!」
「えっ?」
「だって、ヴィオレッタに手を取ってもらったり、優しい台詞を言ってもらったりするんでしょ?」
「まあ、劇だからね」
「私もやってほしい!」
「ええっ!?」
ヴィオレッタが目を丸くする。
「でも、セレスは別のクラスでしょ? お菓子のお店もあるし……」
「それはそれ! 練習相手くらいできるもん!」
「練習相手?」
「そう! 私だって姫役の台詞くらい読めるよ!」
セレスティアは自信満々に胸を張った。
その様子に、アリアが小さく笑う。
「それでしたら、ヴィオレッタ様の練習にもなりそうですね」
「アリアまで……」
「私も、セレスティア様が姫君を演じるところを見てみたいです」
リリアーナまで楽しそうに言うものだから、セレスティアはますます張り切ってしまった。
「ほら! みんなもそう言ってる!」
「うーん……じゃあ、今度お願いしようかな」
「やった!」
セレスティアは嬉しそうにヴィオレッタへ抱きついた。
「ちょ、セレス! 食堂だから!」
「いいじゃない、ちょっとくらい!」
頬を寄せてくるセレスティアを何とか宥めながら、ヴィオレッタは苦笑する。
(……なんだか、王子様の練習相手がどんどん増えていくような)
それでも、友人たちがこんなにも楽しみにしてくれているのは嬉しかった。
ヴィオレッタは鞄の中の台本に目を落とす。
学院祭まで、まだ少し時間がある。
王子様らしい振る舞いも、台詞も、これから少しずつ覚えていけばいい。
(よし。せっかく主役になったんだし、頑張らないとね!)
そう決意するヴィオレッタの隣で、セレスティアは早くも練習の日取りを考え始めていた。
そしてリリアーナは、そんな二人を見つめながら、そっと胸元に手を添える。
(……ヴィオレッタ様の王子様姿、きっと本番はもっと素敵なのでしょうね)
そう思っただけで、また少し頬が熱くなった。
秋の学院祭に向けて、少女たちの賑やかな日々が始まろうとしていた。




