第91話 新学期と、思いがけない王子様
夏休みが終わり、フィオラ女学院に新学期がやってきた。
朝の校舎には久しぶりに生徒たちの賑やかな声が響き、廊下を行き交う少女たちは、それぞれ夏休みの思い出を楽しそうに語り合っている。
「ヴィオレッタ様、おはようございます!」
「おはよう、リリ!」
教室に入ると、先に登校していたリリアーナが笑顔で迎えてくれた。その隣ではアリアが鞄から教科書を取り出している。
「おはようございます、ヴィオレッタ様。別荘からお戻りになったあと、お変わりありませんでしたか?」
「うん、元気だったよ。剣術の練習で痛くなった腕も、すっかり治ったしね」
「それは何よりです」
アリアがくすりと笑うと、リリアーナも楽しそうに頷いた。
「セレスティア様とカトレア様のご指導、とても熱心でしたものね」
「二人とも優しかったけど、剣って思っていたより難しいんだね。次はもう少し上手にできるといいな」
そんな話をしているうちに、教室の扉が開き、担任の教師が入ってきた。
生徒たちが席に着くと、教師は出席を確認してから、黒板に大きく文字を書いた。
『秋の学院祭』
「皆さん、今年も学院祭の季節が近づいてきました。今日から、各クラスで出し物の準備を始めてもらいます」
その言葉に、教室が一気に賑やかになる。
「学院祭!」
「今年は何をするのかしら?」
「お菓子のお店なんて素敵じゃない?」
ヴィオレッタも思わず顔を上げた。
(学院祭かあ。前世の文化祭みたいなものかな?)
教室で何かを作ったり、みんなで準備をしたり。そういう行事は嫌いではない。むしろ、今の友人たちと一緒なら、きっと楽しいに違いない。
けれど、そこでふと、前世の記憶が頭をよぎった。
(……そういえば、原作ゲームにも学院祭のイベントがあったような)
たしか、主人公と攻略対象の仲が深まる、かなり重要な場面だったはずだ。そして悪役令嬢のヴィオレッタは、そこで何か余計なことをして、周囲からの評判を落としていたような気がする。
(うーん、でも細かいところまでは覚えてないんだよね)
何しろ、もう何年も前の記憶だ。イベントの内容も、どの選択肢で何が起きたのかも、はっきりとは思い出せない。
(それに、あれは本編の学院祭だし。ここはスピンオフの舞台なんだから、同じことが起きるとは限らないよね)
スピンオフについては、前世の友人から話を聞いた程度で、実際に遊んだことはない。
何が起こるかなんて、正直なところ分からないのだ。
(まあ、今の私が誰かに嫌がらせをすることはないし、きっと大丈夫……だよね?)
少しだけ不安は残ったけれど、ヴィオレッタは目の前で楽しそうに話し合うクラスメイトたちを見て、小さく笑った。
せっかくの学院祭だ。
まだ起きてもいないことを心配するより、今はみんなと楽しむことを考えよう。
そう決めて、ヴィオレッタも話し合いに加わった。
「では、まずは希望を出してみましょう」
教師に促され、生徒たちが次々と意見を述べ始める。
喫茶店、展示会、音楽会。どれも楽しそうだったけれど、なかなか一つには決まらなかった。
そんな中、教室の後ろの席から、一人の少女が手を挙げた。
「先生、演劇はいかがでしょうか?」
声を上げたのは、明るい栗色の髪を肩のあたりで揃えた少女だった。
名前はミレーヌ・オルコット。同じクラスの生徒で、普段から読書や物語の話をするのが好きらしい。
「演劇ですか。面白そうですね」
「はい! せっかくの学院祭ですし、みんなで一つのお話を作れたら素敵だと思うんです」
ミレーヌは目を輝かせて続けた。
「衣装を作る方も、舞台を飾る方も、役者をする方も、それぞれ得意なことで参加できますから」
「確かに、それなら全員で取り組めそうですわ」
「私、衣装を考えてみたいです!」
賛成する声が次々と上がる。
ヴィオレッタもリリアーナと顔を見合わせた。
「楽しそうだね、リリ」
「はい! 私、お衣装のお手伝いならできるかもしれません」
「それは心強いですね。リリアーナ様の刺繍はとても素敵ですから」
アリアの言葉に、リリアーナは照れたように微笑んだ。
やがて多数決が行われ、クラスの出し物は演劇に決まった。
◇
「では、演目は『月の姫と銀の王子』にしましょう!」
ミレーヌが持参した物語の本を掲げると、教室から拍手が起こった。
月の国に暮らす姫君と、遠い国から旅をしてきた王子が出会い、困難を乗り越えて再会するという、古くから親しまれている恋物語らしい。
「ただ、一つ問題があるんです」
ミレーヌが少し困った顔をする。
「王子様の役を、どなたにお願いするかということで……」
フィオラ女学院は女子学院だ。もちろん男役を演じるのも女子生徒になる。
「背の高い方がいいのでは?」
「でも、台詞もたくさんありますわ」
「堂々とした雰囲気の方が素敵よね」
あちこちで相談が始まった。
ヴィオレッタはというと、配られた台本の最初のページを眺めていた。
(へえ、こういうお話なんだ。王子様、結構優しい人だね)
特に深く考えず、隣のリリアーナに小さな声で話しかける。
「ねえ、リリ。ここ、ちょっと読んでみてもいい?」
「え? はい、もちろんです」
「じゃあ、リリが姫様の台詞を読んでくれる?」
「わ、私がですか?」
「うん。ちょうど隣にいるし」
リリアーナは少し緊張した様子で台本を持ち直した。
「ええと……『あなたは、どうして私を助けてくださったのですか?』」
ヴィオレッタはその問いに続く台詞へ目を落とす。
そして、ほんの少しだけ声を低くして、リリアーナに向き直った。
「『君が困っていたから。それだけじゃ、理由にならないかな?』」
「……っ」
リリアーナがぴたりと動きを止めた。
「リリ?」
「い、いえ! 何でもありません!」
「そう? じゃあ、次ね」
ヴィオレッタは台本をめくると、今度は少しだけ微笑んだ。
「『そんなに不安そうな顔をしないで。僕は、君を一人にはしないよ』」
「…………」
「リリ?」
返事がない。
不思議に思って顔を覗き込むと、リリアーナは耳まで真っ赤になっていた。
「だ、大丈夫?」
「だ、大丈夫です! その……少し、びっくりしてしまって」
「びっくり?」
「ヴィオレッタ様が、あまりにも……」
「あまりにも?」
「……な、何でもありません!」
リリアーナは慌てて台本で顔を隠した。
(ええ? 私、そんなに変な読み方したかな?)
ヴィオレッタが首を傾げた、その時だった。
「ちょっと待ってください!」
教室の前方から声が上がる。
いつの間にか近くまで来ていたミレーヌが、目を輝かせてヴィオレッタを見つめていた。
「今の台詞、もう一度お願いできますか?」
「え? 私?」
「はい! ぜひ!」
周囲の生徒たちも、いつの間にかこちらに注目している。
ヴィオレッタは少し戸惑いながらも、台本を持ち直した。
「ええと……『そんなに不安そうな顔をしないで。僕は、君を一人にはしないよ』」
できるだけ自然に、目の前に相手がいるつもりで微笑んでみる。
すると、なぜか教室がしんと静まり返った。
「……素敵」
誰かがぽつりと呟く。
「ヴィオレッタ様って、こんなに王子様らしい方でしたの?」
「いつもはもっと柔らかい雰囲気なのに……」
「その違いが素敵ですわ!」
ざわめきが一気に広がった。
「え? え?」
ヴィオレッタが困惑している間に、ミレーヌは勢いよく両手を合わせた。
「決まりです! 王子様役はヴィオレッタ様にお願いしましょう!」
「ええっ!?」
思わず立ち上がってしまう。
「ま、待って! 私、演劇なんてやったことないよ!?」
「大丈夫です! 今の台詞、とても素敵でした!」
「でも、ほかにも向いている人が……」
「ヴィオレッタ様なら、きっと素敵な王子様になりますわ!」
あちこちから賛成の声が上がる。
助けを求めるようにリリアーナを見ると、彼女はまだ頬を赤くしたまま、小さく頷いた。
「……私も、ヴィオレッタ様にぴったりだと思います」
「リリまで!?」
アリアも口元に手を当て、楽しそうに笑っている。
「ふふ。先ほどのヴィオレッタ様、とても堂々としていらっしゃいましたよ」
「アリアまで……!」
結局、教師からも勧められ、ヴィオレッタは王子役を引き受けることになった。
(どうしてこうなったの!?)
そんな心の叫びとは裏腹に、教室では早くも衣装や舞台装置の相談が始まっている。
ミレーヌは嬉しそうに台本へ名前を書き込んでいた。
◇
昼休み。
ヴィオレッタはリリアーナ、アリアとともに食堂へ向かった。
「はあ……まさか私が王子様役になるなんて」
「でも、楽しみですね」
「リリはそう言うけど、私、台詞を覚えられるかなあ」
「ヴィオレッタ様なら大丈夫です。私も練習をお手伝いしますから」
「ありがとう、リリ。すごく助かるよ」
そう言って笑いかけると、リリアーナはなぜかまた視線を逸らした。
(……今日はリリ、よく顔が赤くなるなあ)
首を傾げながら食堂に入ると、窓際の席から大きく手を振る姿が見えた。
「ヴィオレッタ! こっちこっち!」
「セレス!」
別のクラスのセレスティアが、いつものように席を確保してくれていた。
三人が席に着くなり、セレスは身を乗り出してくる。
「ねえ、聞いて! うちのクラス、学院祭でお菓子のお店をやることになったんだ!」
「へえ、楽しそう!」
「でしょ? 私も手伝うんだけど、ヴィオレッタたちは?」
「私たちは演劇になったよ」
「演劇!? いいじゃない! 何の役をやるの?」
ヴィオレッタは少しだけ目を逸らした。
「……王子様」
「……え?」
「だから、王子様役」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、セレスティアは勢いよく立ち上がった。
「ヴィオレッタが王子様!?」
「ちょ、セレス、声が大きいよ!」
「だって、絶対似合うじゃない! ちょっと、今ここで何か台詞言ってみて!」
「ええ!? 食堂で!?」
「お願い! 一回だけ!」
目を輝かせて迫ってくるセレスティアに、ヴィオレッタは困り果てた。
するとアリアが、どこか面白がるように口を開く。
「セレスティア様、実は教室でも大変だったんですよ」
「大変?」
「ヴィオレッタ様が台詞を読まれたら、皆さん、すっかり見惚れてしまって」
「ちょっと、アリア!」
「へえ……?」
セレスティアがゆっくりとヴィオレッタに顔を近づける。
「それは、私も聞かないといけないね?」
「な、何でそうなるの!?」
隣ではリリアーナが小さく笑い、アリアも楽しそうに目を細めている。
ヴィオレッタは台本の入った鞄を抱えながら、心の中でため息をついた。
(新学期初日から、なんだか大変なことになっちゃったなあ)
けれど、目の前で楽しそうに笑う友人たちを見ていると、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
学院祭までは、まだ少し時間がある。
慣れない王子様役も、みんなと一緒なら何とかなるかもしれない。
そう思いかけた、その時。
「ねえ、ヴィオレッタ」
「ん?」
セレスティアがにっこりと笑った。
「今度、私にも王子様の台詞、聞かせてね?」
「……できれば、練習してからにしてほしいな」
ヴィオレッタの小さなお願いは、楽しそうな笑い声の中に消えていった。




