第90話 夏の終わりに
翌朝、ヴィオレッタは寝台から起き上がろうとして、思わず顔をしかめた。両腕が重い。肩も少し痛いし、なぜか太ももまで張っている。
(……剣術って、こんなところまで筋肉痛になるんだ)
昨日は木剣を振るのが楽しくて、つい夢中になってしまった。カトレアに無理をしないよう言われていたのに、もう少しだけと練習を続けた結果がこれである。
「……いたたた」
「おはようございます、お嬢様。よくお休みになれましたか?」
カーテンを開けたエマが振り返り、寝台の上で固まっているヴィオレッタを見て小さく笑った。
「……エマ、腕が上がらない」
「まあ。やはり筋肉痛でございますね」
「カトレアの言ったとおりだった……」
「本日は無理をなさらず、ゆっくりお過ごしくださいませ」
「うん。そうする」
そう答えたものの、着替えを手伝ってもらう時にも腕が痛み、ヴィオレッタは何度か情けない声を上げることになった。
◇
「おはよう、ヴィオレッタ!」
朝食の席へ向かうと、すでにセレスティアたちが集まっていた。
「おはよう、みんな」
ヴィオレッタがゆっくり椅子に座ると、セレスティアが不思議そうに首を傾げる。
「……どうしたの? 動きが妙に慎重だけど」
「筋肉痛」
「ああ!」
セレスティアは納得したように頷き、それから楽しそうに笑った。
「やっぱり来たのね」
「セレス、笑い事じゃないよ。腕を上げるだけでも痛いんだから」
「ごめんごめん。でも、昨日あれだけ頑張ってたものね」
カトレアが紅茶を置き、穏やかに口を開いた。
「今日は湖畔を散歩する予定だったね。歩くのは大丈夫そうかい?」
「うん。ゆっくりなら平気だと思う」
「それならよかった。無理をする必要はないから、疲れたらすぐに休もう」
「ありがとう、カトレア」
ヴィオレッタがほっとすると、隣にいたリリアーナが心配そうに尋ねた。
「ヴィオレッタ様、お食事は大丈夫ですか? 何かお手伝いしましょうか?」
「大丈夫だよ、リリ。そこまでひどくないから」
そう言ってパンに手を伸ばした瞬間、肩に痛みが走った。
「……いたっ」
「ヴィオレッタ様!」
「……やっぱり、ちょっとだけ取ってもらってもいい?」
「はい、もちろんです!」
リリアーナが慌ててパンを取り分けると、アリアが口元を押さえて笑った。
「ふふ、昨日のヴィオレッタ様、とても張り切っていらっしゃいましたものね」
「……みんな、笑わないでよ」
「笑ってないわよ?」
セレスティアがにこにこと答える。
「絶対笑ってる!」
朝食の席に、楽しげな笑い声が広がった。
◇
昼前、一行は湖畔へ向かった。
別荘から続く小道を下ると、木々の間から青い湖が見えてくる。水辺には白い小石が広がり、岸辺の草花が風に揺れていた。
「わあ……近くで見ると、ますます綺麗ですね」
リリアーナが目を輝かせる。
「水が透き通ってるわね。魚も見えるかしら?」
セレスティアが湖を覗き込もうとすると、カトレアが軽く声をかけた。
「セレス、あまり身を乗り出すと危ないよ」
「分かってるわよ。子どもじゃないんだから」
「昨日のヴィオレッタへの振る舞いを見ていると、少し心配になるけれどね」
「それは関係ないでしょ!」
ヴィオレッタは二人のやり取りを聞きながら、思わず笑ってしまった。
「……何の話?」
「ヴィオレッタは気にしなくていいよ」
カトレアが微笑む。
「ちょっと、カトレア!」
セレスティアが抗議する横で、アリアが湖岸に咲く小さな花を見つけた。
「皆さん、こちらのお花も綺麗ですよ」
淡い紫色の花が、風に揺れながら咲いている。
「本当ですね。可愛らしい……」
リリアーナがしゃがみ込み、そっと花を眺めた。
「リリ、こういう花の刺繍もできるの?」
ヴィオレッタが尋ねると、リリアーナは嬉しそうに頷いた。
「はい。花びらの形が少し難しそうですけれど、できると思います」
「すごいなあ。そういえば、今度作る熊のぬいぐるみに、こんなお花の刺繍を入れたら可愛くない?」
「まあ、それは素敵ですね!」
リリアーナが顔を輝かせた。
「小さなお花でしたら、胸元やお洋服に入れても可愛いと思います」
「いいね! 僕もやってみたいな」
カトレアが楽しそうに頷いた。
「兎の時は、ワンピースのレースを付けるだけでもずいぶん苦労したけれど、今度は刺繍にも挑戦してみたいね」
「あっ、あの青いワンピース! すっごく可愛かったよね」
ヴィオレッタが言うと、カトレアは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。君の白い兎も、曲がった耳が可愛かったよ」
「ふふ、あれは直そうか迷ったんだけどね」
「僕は、あのままでよかったと思うよ」
二人が顔を見合わせて笑っていると、セレスティアが横から口を挟んだ。
「ねえ、二人とも。今度は私たちも一緒に作るんだからね?」
「あはは、分かってるよ!」
「展示会の時に約束したじゃない。私、楽しみにしてるんだから」
「もちろん覚えてるよ」
ヴィオレッタは笑顔で頷いた。
「今度はみんなで熊を作ろうって話したもんね」
「私も楽しみです」
リリアーナが微笑む。
「皆さんと一緒に作れるなら、きっと賑やかになりますね」
「そうね。私はどんな熊にしようかしら」
セレスティアが考え込む。
「やっぱり、元気そうな顔の熊がいいかな」
「セレスらしいね」
ヴィオレッタが笑うと、セレスティアも楽しそうに笑った。
「ヴィオレッタは?」
「私は……今度こそ耳をまっすぐにしたいかな」
「ふふ。それは熊でも難しいかもしれないね」
カトレアが笑う。
「ちょっと、カトレア!」
「冗談だよ。でも、君の作る熊も楽しみにしているよ」
ヴィオレッタは少し頬を膨らませたものの、すぐに笑顔になった。
「……じゃあ、カトレアも今度は糸を絡ませないようにね!」
「おや、それを言われると弱いな」
カトレアが苦笑すると、みんなが声を上げて笑った。
◇
昼食は、湖を見渡せる小高い丘で取ることになった。
使用人たちが用意してくれた敷物の上には、サンドイッチや果物、小さな焼き菓子が並べられている。
「……これ、全部食べきれるかな」
ヴィオレッタが目を丸くすると、アリアが嬉しそうに笑った。
「昨日持ってきたお菓子も、少し入れていただいたんです」
「ああ、あの大きな箱の!」
「はい。父が皆さんによろしくと申しておりました」
「ありがとう、アリア。あとでお父様にもお礼を伝えてね」
「もちろんです」
五人は敷物に腰を下ろし、湖を眺めながら昼食を楽しんだ。
セレスティアはサンドイッチを手に取り、満足そうに頷く。
「こういうところで食べると、いつもより美味しく感じるわね」
「分かる。外で食べるだけで、ちょっと特別な感じがするよね」
ヴィオレッタが答えると、カトレアが微笑んだ。
「学院の食堂とは、また違った楽しさがあるね」
「学院といえば……」
アリアがふと顔を上げた。
「もうすぐ夏休みも終わりですね」
その言葉に、みんなの手が少し止まった。
「……そうだった」
ヴィオレッタは空を見上げた。
夏休みが始まった頃は、まだまだ先だと思っていた新学期が、もうすぐそこまで来ている。
「なんだか、あっという間だったね」
「ええ。でも、こうして最後に皆さんと旅行できてよかったです」
リリアーナが微笑む。
「私も。夏休みの間、みんなに会えなくて少し寂しかったから」
ヴィオレッタがそう言うと、セレスティアがすかさず隣へ寄ってきた。
「それなら、学院に戻ったら毎日会えるわね!」
「うん、そうだね」
「剣術の練習も続けるんでしょ?」
「……筋肉痛が治ってからね」
「もちろん!」
セレスティアが笑う。
カトレアも穏やかに頷いた。
「僕も時間が合えば付き合うよ。無理のない範囲で続けるといい」
「ありがとう、カトレア」
ヴィオレッタは嬉しそうに微笑んだ。
湖を渡る風が、敷物の端をふわりと揺らした。
◇
その日の夜、五人は別荘の談話室に集まっていた。
大きな窓の向こうには星空が広がり、湖面には月の光が細く伸びている。
テーブルには温かい紅茶と焼き菓子が用意され、みんな思い思いの場所に腰を下ろしていた。
「……こうして集まってると、学院の談話室みたいだね」
ヴィオレッタが言うと、リリアーナが頷いた。
「はい。でも、少し違う気もします」
「違う?」
「ええ。明日の授業を気にしなくてもいいですし、何より皆さんと一緒に旅行しているというのが……」
リリアーナは少し照れたように微笑んだ。
「なんだか、特別で」
「……分かるなあ」
ヴィオレッタも笑った。
その時、セレスティアが思い出したように手を叩いた。
「そうだ! せっかくだから、みんなで夏休みの一番楽しかったことを話さない?」
「一番、ですか?」
アリアが首を傾げる。
「そう。一人ずつ発表するの。どう?」
「面白そうだね」
カトレアが頷いた。
「じゃあ、言い出したセレスからどうぞ」
「えっ、私から?」
「もちろん」
カトレアが楽しそうに笑う。
セレスティアは少し考え、それから満面の笑みを浮かべた。
「私は、この旅行!」
「……早いね」
ヴィオレッタが思わず笑う。
「だって、みんなで集まれて、剣術もできて、湖も綺麗だったし。楽しかったもの!」
「それは僕も同じかな」
カトレアが頷く。
「夏休みはいろいろあったけれど、こうして友人たちとゆっくり過ごせたのは嬉しかったよ」
「カトレア様は、ほかにどんなことをなさったんですか?」
リリアーナが尋ねると、カトレアは少し考えた。
「家族と過ごす時間が多かったかな。兄と剣の稽古をしたり、母と買い物に出かけたりね」
「お買い物ですか?」
「うん。可愛い布や飾り紐をいくつか見つけたんだ。今度の熊のぬいぐるみにも使えそうだと思ってね」
「わあ、見たい!」
ヴィオレッタが身を乗り出す。
「ふふ、じゃあ新学期に持っていこう。みんなにも好きなものを選んでもらえると嬉しいな」
「楽しみにしてるね!」
みんなが笑う中、今度はアリアが口を開いた。
「私は、家族と一緒に商会の仕事を少しお手伝いしました」
「へえ、どんなこと?」
ヴィオレッタが尋ねる。
「帳簿の整理や、取引先へのお手紙を書くお手伝いです。まだ難しいことも多いですけれど、父から少しずつ教えてもらっているんです」
「すごいね。私、そういうの全然分からないや」
「ふふ、私もまだ勉強中です」
アリアは照れくさそうに笑った。
「でも、いつか父の仕事をもっと手伝えるようになりたいと思っています」
「素敵だね」
リリアーナが微笑む。
「私も、夏休みは刺繍をたくさん練習しました。新しい模様にも挑戦したんです」
「それ、今度見せてほしいな」
ヴィオレッタが言うと、リリアーナは嬉しそうに頷いた。
「はい! ぜひ。熊のぬいぐるみに使えそうな模様もあるんです」
「それなら、ますます楽しみだね」
カトレアが笑った。
やがて、みんなの視線がヴィオレッタに集まった。
「……え、私?」
「そうよ。最後はヴィオレッタの番!」
セレスティアが笑う。
ヴィオレッタは少し考えた。
夏休みの間には、いろいろなことがあった。
家族と過ごした時間も、夏の夜会も、幼い頃の自分と向き合ったことも。
楽しいことばかりではなかったし、今でも考えると胸が痛む出来事もある。
けれど、そのすべてをここで話す必要はないのだと思った。
「……私も、この旅行かな」
ヴィオレッタは微笑んだ。
「みんなと一緒に過ごせて、本当に嬉しかったから」
「ふふ、セレスと同じ答えだね」
カトレアが笑う。
「いいじゃない。同じくらい楽しかったってことでしょ?」
セレスティアは満足そうに頷いた。
「そうだね」
ヴィオレッタも笑った。
その後も話は尽きず、学院での思い出や新学期にやりたいこと、最近読んだ本の話などで盛り上がった。
気づけば、時計の針はすっかり遅い時間を指していた。
「……そろそろ、お休みになられた方がよろしいかと」
様子を見に来たエマが、少し困ったように微笑む。
「あっ、もうこんな時間?」
ヴィオレッタが時計を見て驚くと、セレスティアも目を丸くした。
「本当だ。全然気づかなかったわ」
「お話が楽しくて、つい……」
リリアーナが申し訳なさそうに笑う。
「明日は帰る日だからね。そろそろ休もうか」
カトレアの言葉に、みんなも頷いた。
談話室を出る前、ヴィオレッタはふと振り返った。
窓の向こうには、静かな湖と満天の星が広がっている。
(……また、みんなで来たいな)
そう思いながら、ヴィオレッタは友人たちと一緒に廊下へ出た。
◇
翌朝、別荘を出発する時間がやってきた。
使用人たちに見送られながら、五人は馬車に乗り込む。
「……もう帰るのね」
セレスティアが少し名残惜しそうに呟いた。
「楽しい時間は、あっという間だね」
ヴィオレッタが答えると、アリアも頷いた。
「本当に。二泊なんて、すぐに過ぎてしまいました」
「でも、また来られるかもしれないよ」
ヴィオレッタは笑顔で言った。
「今度は、もう少し長く泊まるのもいいかも」
「それ、いいわね!」
セレスティアがすぐに顔を輝かせる。
「次はもっと剣術の練習をしましょう!」
「……それは、ほどほどにお願いします」
ヴィオレッタが真剣な顔で答えると、みんなが笑った。
馬車がゆっくりと動き出す。窓の外では、白い壁と青い屋根の別荘が少しずつ遠ざかっていった。
ヴィオレッタは最後にもう一度、湖を振り返った。
水面は朝日を受けてきらきらと輝き、昨日までの賑やかな時間を思い出させる。
(……楽しかったな)
胸元には、銀色のロケットペンダントが揺れていた。
幼い頃の自分が大切にしていた宝物。
そして今、自分には新しく大切にしたいものがたくさんある。
友人たちと過ごす時間も、これから始まる学院生活も、その一つだった。
「ヴィオレッタ様、何をご覧になっているんですか?」
隣からリリアーナが声をかける。
「ううん。ちょっと、名残惜しいなって」
「……私もです。本当に楽しかったですね」
「うん。またみんなで来たいね」
「はい! ぜひ」
リリアーナは嬉しそうに微笑んだ。
「でも、学院に戻ったら、また毎日お会いできますね」
「……そうだね」
ヴィオレッタは笑顔で頷いた。
夏休みは、もうすぐ終わる。
けれど、それは寂しい別れではなく、新しい日々の始まりでもあった。
馬車の中には、友人たちの楽しそうな声が響いている。
ヴィオレッタはその輪に加わりながら、心の中でそっと呟いた。
(……次の学期も、楽しくなりそう)
青い空の下、馬車はフィオラ女学院へと続く道を進んでいった。




