第89話 湖畔の剣術教室
別荘に到着してから一時間ほどが過ぎ、ヴィオレッタたちは庭園に面したテラスでお茶を楽しんでいた。
湖から吹く風は思っていたよりも涼しく、夏の日差しの下でも心地よく過ごせる。目の前には青い湖が広がり、その向こうには緑の山々が連なっていた。
「……本当に綺麗なところですね」
リリアーナがカップを置き、うっとりとした様子で湖を眺める。
「そうだね。私も、こんなに景色がいいとは思わなかった」
ヴィオレッタが答えると、アリアが楽しそうに笑った。
「ヴィオレッタ様のお屋敷なのに、初めて来たみたいですね」
「実際、ほとんど覚えてないからね。私もみんなと一緒に楽しんでるよ」
「それなら、あとで湖の近くまで歩いてみませんか?」
「いいね!」
ヴィオレッタが頷いたところで、セレスティアがふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、ヴィオレッタ。夏休み前に約束したこと、覚えてる?」
「……約束?」
「剣術よ。今度はあなたも参加するって言ってたじゃない」
「あっ!」
ヴィオレッタは思わず声を上げた。
学院でセレスティアとカトレアの稽古を見学していた時、いつか自分もやってみたいと話したことがあった。
「もちろん覚えてるよ。ただ、まさか旅行先でやるとは思ってなかったけど」
「せっかく広い庭があるんだもの。ちょっとくらい体を動かしたくない?」
セレスティアは期待に満ちた目でこちらを見ている。
「セレス、君は昨日の手紙でも剣術の話をしていたね」
カトレアが呆れたように笑った。
「でも、ヴィオレッタが興味を持ってくれたのは嬉しいな。無理のない範囲で、基本から教えてあげよう」
「本当? それならやってみたい!」
「決まりね!」
セレスティアが嬉しそうに手を叩く。
その隣で、リリアーナが少し心配そうに尋ねた。
「あの、剣術って危なくないのでしょうか?」
「今日は木剣を使うし、最初は素振りと足運びだけだよ」
カトレアが穏やかに答える。
「僕たちもついているから、心配しなくて大丈夫」
「それなら安心です」
「リリも一緒にやってみる?」
ヴィオレッタが尋ねると、リリアーナは慌てて首を振った。
「わ、私は見学させていただきます!」
「ふふ、じゃあ応援よろしくね」
アリアも笑顔で頷いた。
「私も見学します。皆さんの勇姿、楽しみにしていますね」
◇
午後、ヴィオレッタたちは別荘の裏手にある広い芝生へ移動した。
使用人たちが用意してくれた木剣を受け取り、ヴィオレッタはその重さを確かめる。
「……思ってたより重いね」
「そう? 木剣なら軽い方だけど」
セレスティアが不思議そうに首を傾げる。
「セレス、それは君の感覚だよ」
カトレアが苦笑した。
「初めて持つ人には、これでも十分重く感じるものさ」
「そういうものなの?」
「そういうものだよ」
カトレアはヴィオレッタの前に立ち、木剣を軽く構えてみせた。
「まずは持ち方から。力を入れすぎると腕が疲れるから、握りすぎないようにね」
「うん、こうかな?」
ヴィオレッタが真似をすると、カトレアは少し首を傾げた。
「悪くないけれど、右手が少し前すぎるかな。もう少しだけ下げてみよう」
「……こう?」
「そう、それでいい」
ヴィオレッタは木剣を構え直した。
たったそれだけなのに、腕にじわじわと負担がかかる。
(……これ、思ってたより大変かも)
「じゃあ、次は足の位置ね」
セレスティアが隣に立った。
「右足を少し前に出して、左足は後ろ。体を正面に向けすぎないようにして……」
「ちょ、ちょっと待って。足と手を同時に考えるの難しい!」
ヴィオレッタが慌てると、セレスティアは楽しそうに笑った。
「大丈夫、最初はみんなそうよ」
「セレスも?」
「……私は、もう少しできたかな」
「そこは嘘でも同じだったって言ってほしかった!」
ヴィオレッタが抗議すると、セレスティアは声を上げて笑った。
カトレアも微笑みながら口を挟む。
「セレスは昔から運動が得意だったからね。でも、剣術は慣れが大切なんだ。焦らなくていいよ」
「……うん、頑張る」
ヴィオレッタは気を取り直し、もう一度構えた。
◇
しばらく基本の姿勢を練習した後、カトレアが木剣を持ち上げた。
「じゃあ、今度は軽く振ってみようか」
「はい、先生!」
ヴィオレッタが元気よく返事をすると、カトレアは少し驚いたように瞬きをした。
「……先生?」
「だって、教えてもらってるし」
「ふふ、それなら厳しくしないといけないかな」
「えっ、優しくお願いします!」
カトレアが笑い、セレスティアも楽しそうに肩を揺らした。
「じゃあ、私が見本を見せるわね」
セレスティアは木剣を構えると、軽やかな動きで一歩踏み込み、まっすぐ振り下ろした。
無駄のない動きに、ヴィオレッタは思わず目を輝かせる。
「……かっこいい!」
「でしょ?」
セレスティアが得意げに笑う。
「ただし、最初から速く振ろうとしなくていいよ」
カトレアが補足した。
「まずは正しい動きを覚えること。ゆっくりで構わないから、やってみよう」
「うん!」
ヴィオレッタは木剣を構え、慎重に振り下ろした。
ところが、途中で腕に力が入りすぎてしまい、剣先が少し横へ流れてしまう。
「……あれ?」
「惜しい。もう少し肩の力を抜いてみよう」
「肩の力……」
もう一度振る。
今度は少しだけまっすぐになった。
「そうそう、今の方がいいわよ!」
セレスティアが褒めてくれる。
「本当?」
「うん。最初にしては悪くないわ」
ヴィオレッタは嬉しくなり、もう一度木剣を振った。
しかし、三回目で腕が疲れ始め、四回目には息が上がってしまった。
「……ちょっと待って。これ、何回くらいやるの?」
「普段の稽古なら、もっとたくさんかな」
セレスティアが何気なく答える。
「……もっと?」
「でも、今日は初めてだから、無理しなくていいよ」
カトレアが笑顔で助け舟を出した。
「休憩を挟みながら、少しずつやろう」
「……カトレア様が天使に見える」
「それは光栄だね」
カトレアは楽しそうに笑った。
◇
芝生の端では、リリアーナとアリアが日傘の下で見学していた。
「ヴィオレッタ様、頑張っていらっしゃいますね」
リリアーナが微笑む。
「ええ。普段はあまり運動をなさらない印象でしたけれど、楽しそうです」
アリアも頷いた。
「それにしても、セレスティア様とカトレア様は本当にお上手ですね」
「はい。学院でもお二人の稽古を拝見したことがありますが、いつ見ても素敵です」
そんな二人の視線に気づいたヴィオレッタが、少し離れた場所から手を振った。
「リリ、アリア! 見ててね!」
「はい!」
「応援しています!」
ヴィオレッタは嬉しそうに笑い、もう一度木剣を構えた。
ところが、今度は足の位置を意識しすぎてしまい、振り下ろす前に体勢を崩してしまう。
「わっ!」
「おっと、危ない!」
すぐそばにいたセレスティアが素早く腕を伸ばし、倒れかけたヴィオレッタを抱きとめた。
「大丈夫? 怪我してない?」
「う、うん。ありがとう、セレス」
「よかった!」
セレスティアは安心したように笑うと、なぜかそのままヴィオレッタをぎゅっと抱き寄せた。
「……セレス?」
「ふふ、捕まえた!」
「いや、捕まえたって……わっ!」
セレスティアが楽しそうに頬を寄せ、すりすりと擦り合わせてくる。
「ちょっと、くすぐったいってば!」
「いいじゃない、ちょっとくらい」
「今、剣術の練習中なんだけど!?」
「そうだったわね」
そう言いながらも、セレスティアはもう一度だけ頬をすり寄せ、満足そうに腕を離した。
「はい、おしまい!」
「……もう、セレスは本当に自由だね」
「ヴィオレッタだって、嫌そうじゃなかったわよ?」
「びっくりしただけだよ!」
ヴィオレッタが頬を押さえて抗議すると、セレスティアは楽しそうに笑った。
その様子を見ていたカトレアが、呆れ半分に口を開く。
「セレス、君はヴィオレッタを助けたかったのか、じゃれつきたかったのか、どっちなんだい?」
「もちろん、両方!」
「……即答なんだね」
「もう、二人とも!」
ヴィオレッタの抗議もむなしく、セレスティアとカトレアは顔を見合わせて笑うのだった。
◇
その後、カトレアがふと提案した。
「せっかくだし、最後に僕とセレスで軽く型を合わせてみようか」
「えっ、いいの?」
ヴィオレッタが目を輝かせる。
「もちろん。ただし、本格的な勝負ではなく、動きの見本としてね」
「いいわね。ヴィオレッタにも、剣術の楽しさが伝わると思う」
セレスティアは嬉しそうに木剣を構えた。
二人が向かい合うと、先ほどまでの和やかな空気が少し変わった。
セレスティアは軽やかに足を動かし、カトレアは落ち着いた姿勢で相手を見つめている。
「……なんか、急に雰囲気が変わったね」
ヴィオレッタが小声で呟くと、リリアーナが頷いた。
「お二人とも、真剣なお顔ですね」
次の瞬間、セレスティアが一歩踏み込んだ。
木剣が軽い音を立てて交わり、カトレアが自然な動きで受け流す。
セレスティアはすぐに体勢を整え、今度は反対側から剣を振ったが、カトレアは無理なくそれをかわした。
「……すごい」
ヴィオレッタは思わず息を呑んだ。
自分が先ほど苦労していた動きを、二人はまるで呼吸するように繰り返している。
しばらくして、カトレアが一歩踏み込み、セレスティアの木剣を軽く押さえた。
「……ここまでかな」
カトレアが微笑む。
「うーん、やっぱりカトレアは上手いわね」
セレスティアは悔しそうに笑いながら、木剣を下ろした。
「君も前より動きがよくなっているよ」
「そう言ってもらえると嬉しいけど、次はもう少し頑張りたいわ」
二人が笑い合うと、ヴィオレッタは思わず拍手を送った。
「すごかった! 二人とも本当にかっこいい!」
「ありがとう、ヴィオレッタ」
カトレアが微笑む。
「どう? 剣術、少しは楽しいと思ってもらえたかな?」
「うん! 思ってたよりずっと難しいけど、楽しい!」
ヴィオレッタは木剣を持ち直した。
「私も、もう少し練習してみたいな」
その言葉に、セレスティアが嬉しそうに笑った。
「いいじゃない! 学院に戻ったら、また一緒にやりましょうよ」
「えっ、学院でも?」
「もちろん。せっかく始めたんだもの」
ヴィオレッタは少し考え、それから笑顔で頷いた。
「……うん。よろしくね!」
◇
稽古を終える頃には、日差しも少し和らいでいた。
ヴィオレッタは芝生の上に腰を下ろし、エマが用意してくれた冷たい飲み物を受け取った。
「……腕が、もう動かないかも」
「お嬢様、少し張り切りすぎましたね」
エマが微笑む。
「でも、楽しかったよ」
「それは何よりでございます」
ヴィオレッタが飲み物を口にすると、隣にセレスティアが腰を下ろした。
「ねえ、ヴィオレッタ」
「ん?」
「今日、思ってたより頑張ってたじゃない」
「……褒めてる?」
「もちろん!」
セレスティアは笑った。
「最初はすぐに飽きちゃうかなって思ってたけど、何度も練習してたでしょ」
「だって、二人が楽しそうだったから。私も少しくらいできるようになりたいなって」
ヴィオレッタが答えると、セレスティアは嬉しそうに目を細めた。
「……そっか」
その時、カトレアが二人のそばにやってきた。
「明日は腕が痛くなるかもしれないね」
「……えっ」
「普段使わない筋肉を使ったからね」
「……今からちょっと怖いんだけど」
ヴィオレッタが真剣な顔をすると、カトレアは楽しそうに笑った。
「大丈夫。今日はゆっくり休めばいいよ」
そこへ、リリアーナとアリアも合流した。
「ヴィオレッタ様、お疲れさまでした」
「とても頑張っていらっしゃいましたね」
「ありがとう、二人とも」
ヴィオレッタは笑顔で答えた。
湖の向こうでは、夕日がゆっくりと山の稜線へ沈み始めていた。
夏休み最後の旅行は、まだ始まったばかり。
ヴィオレッタは友人たちの顔を見回し、満足そうに微笑んだ。
(……明日は、何をしようかな)
そんなことを考えているだけで、自然と笑顔になってしまうのだった。




