第83話 知らなかった私
手帳を読み終えた後も、ヴィオレッタはしばらく机の前から動けなかった。
八歳の誕生日の前日に書かれた、不思議な言葉。
『あした、わたしがわたしじゃなくなったら、どうしよう』
その一文を何度読み返しても、意味は分からない。
けれど、今のヴィオレッタには、どうしても偶然とは思えなかった。
(……あの子は、何か知ってたのかな)
鏡の中に現れた、幼い自分によく似た少女。
あの子が何者なのかは分からないけれど、手帳を読んだことで、少しだけ近づけたような気がした。
ヴィオレッタはそっと手帳を閉じた。
そこに書かれていたのは、ただ我儘な公爵令嬢の日常ではなかった。
周囲を振り回し、身分を盾にして人を従わせようとする一方で、父や母に褒めてもらいたがり、誰かに嫌われることを怖がっていた。
そんな幼い少女の姿だった。
(……でも、これだけじゃ分からないよね)
手帳には、自分の気持ちしか書かれていない。
周りの人たちがどう感じていたのか、何が起きていたのかまでは分からない。
ヴィオレッタは椅子から立ち上がり、手帳を胸に抱えた。
「……ちゃんと、聞いてみよう」
◇
最初に向かったのは、母イザベラの部屋だった。
扉を叩くと、すぐに返事があり、ヴィオレッタは中へ入った。
「お母様、少しいい?」
「ええ、もちろんよ。手帳は見つかったの?」
「うん。セバスティアンが持ってきてくれた」
「そう、よかったわ」
イザベラは微笑んだが、娘が手帳を抱えたまま立っていることに気づくと、少し表情を改めた。
「……何か気になることがあったのね?」
「うん」
ヴィオレッタは頷いた。
「お母様、私が小さい頃って、どんな子だった?」
イザベラは一瞬驚いたように目を見開いた。
「どんな子、ですって?」
「うん。手帳を読んだら、思ってた以上に我儘だったみたいで……」
ヴィオレッタは苦笑した。
「でも、自分で書いたことだけじゃ分からないから、お母様にも聞きたいなって」
イザベラはしばらく娘を見つめ、それから向かいの椅子を勧めた。
「そうね。少し長い話になるかもしれないわ」
「うん、大丈夫」
ヴィオレッタが腰を下ろすと、イザベラは静かに話し始めた。
「あなたは、小さい頃からとても気の強い子だったわ。欲しいものがあれば必ず手に入れようとしたし、自分の思い通りにならないことがあると、すぐに怒っていた」
「……うん」
「ドレスが気に入らないと言って着替えを何度も要求したり、お茶会の席で出されたお菓子を作り直させようとしたり……」
「……手帳に書いてあった」
「まあ、そんなことまで?」
イザベラは少し驚いたように笑った。
「ええ。あの頃のあなたは、自分の気持ちを抑えるのが本当に苦手だったわね」
ヴィオレッタは俯いた。
「……ごめんなさい」
「今のあなたが謝る必要はない、と言いたいところだけれど」
イザベラは少し考えてから続けた。
「昔のあなたがしたことは、確かに褒められることではなかったわ。だから、あの頃も何度も叱ったのよ」
「……うん」
「でもね、ヴィオレッタ。あなたが我儘だったのは、単に人を困らせるのが楽しかったからではなかったと思うの」
ヴィオレッタは顔を上げた。
「……どういうこと?」
「あなたは、誰かに自分を見ていてほしかったのよ」
イザベラは穏やかに言った。
「アルフォンスは公爵として忙しかったし、私も社交や領地のことに時間を取られることがあった。もちろん、あなたを愛していなかったわけではないけれど……」
そこで一度、言葉を切った。
「小さなあなたには、寂しい思いをさせていたのかもしれないわ」
「……お母様」
「でも、それを理由に他人を傷つけていいわけではないのよ」
イザベラの声は、少しだけ厳しくなった。
「寂しいからといって、使用人を困らせたり、他の令嬢を泣かせたりしていいはずがない。私はそう教えてきたつもりだったけれど、十分に伝えられていなかったのかもしれないわね」
ヴィオレッタは静かに頷いた。
「……うん」
イザベラは娘の手元にある手帳へ視線を落とした。
「何か、思い出したいことがあるの?」
「……うん。昨日、エレオノーラ・ベルフォード様に会ったの」
その名前を聞いた瞬間、イザベラの表情が変わった。
「……ベルフォード子爵家の?」
「うん。私の顔を見たら、すごく怖がってて……」
ヴィオレッタは昨日の出来事を説明した。
イザベラは最後まで黙って聞いていたが、話が終わると小さく息を吐いた。
「……そうだったのね」
「お母様、何があったか知ってる?」
イザベラはすぐには答えなかった。
「……詳しいことは、私もすべてを知っているわけではないの」
「そうなの?」
「ええ。ただ、あの頃、ベルフォード子爵家のご令嬢が、あなたとのお茶会の後にひどく泣いて帰ったことは覚えているわ」
ヴィオレッタは胸が痛んだ。
「……やっぱり」
「後日、子爵夫人からお話を伺って、あなたにも事情を尋ねたのだけれど……」
「私、何て言ったの?」
「『エレオノーラが私の言うことを聞かなかったから悪い』と」
ヴィオレッタは思わず目を閉じた。
手帳に書かれていた言葉と、ほとんど同じだった。
「……ひどいね」
「ええ。あの時は、あなたを厳しく叱ったわ」
イザベラは静かに頷いた。
「ただ、何があったのかを正確に知るには、エレオノーラ様のお話を聞く必要があるでしょうね」
「……うん」
ヴィオレッタは手帳を抱きしめた。
母の話を聞いて、昔の自分がどんな子だったのか、少しだけ分かった気がした。
けれど、まだ知らないことがたくさんある。
◇
次にヴィオレッタが話を聞いたのは、エマだった。
部屋に戻ると、エマはちょうど衣装の整理をしていた。
「エマ、ちょっといい?」
「はい、お嬢様」
「昔の私のこと、聞いてもいいかな?」
エマは少し驚いたように瞬きをした。
「昔のお嬢様、でございますか?」
「うん。手帳を読んだら、すごく我儘だったみたいで……」
ヴィオレッタは困ったように笑った。
「エマにも、いっぱい迷惑かけたんだよね」
エマは少し考えてから、柔らかく微笑んだ。
「……そうでございますね」
「否定しないんだ!?」
「お嬢様が正直にお尋ねになったので、私も正直にお答えしようかと」
「……うう、お願いします」
エマはくすりと笑った。
「昔のお嬢様は、確かに我儘でいらっしゃいました。お気に入りのリボンが見つからなければ、屋敷中を探すようにお命じになりましたし、髪型が気に入らなければ何度でも結い直しを求められました」
「……うん」
「一度など、私が別の仕事で少し席を外しただけで、『エマはもう私のことが嫌いになったのね』とおっしゃって、大変でございました」
「……そんなことまで」
ヴィオレッタは顔を覆った。
「でも、不思議なことに」
エマが続けた。
「お嬢様は、私が本当に困っている時には、少しだけ態度が変わることがあったのです」
「……え?」
「ある日、私が体調を崩してしまったことがございました。その日は別の侍女がお世話を担当することになったのですが……」
エマは懐かしそうに微笑んだ。
「お嬢様は最初、とてもお怒りになりました。『エマじゃなきゃ嫌』とおっしゃって」
「……ああ、言いそう」
「けれど、私が熱を出しているとお知りになると、急に静かになられて」
「……それで?」
「翌朝、私の部屋の前に小さな花束が置かれていたのです」
ヴィオレッタは目を丸くした。
「……花束?」
「はい。庭で摘んだ花を、リボンで束ねたものでございました」
「……私が?」
「ええ。もちろん、後でお尋ねしても『知らない』とおっしゃっていましたが」
エマは楽しそうに笑った。
「リボンの結び方が、お嬢様のものとそっくりでしたので」
ヴィオレッタは思わず微笑んだ。
(……そんなことも、あったんだ)
けれど、エマはそこで少し表情を改めた。
「ただ、お嬢様」
「うん?」
「そのような優しい一面があったからといって、昔のお嬢様の我儘が許されるわけではございません」
ヴィオレッタは静かに頷いた。
「……うん、分かってる」
「私も、あの頃は何度も困らされました。でも、今のお嬢様が私たちを大切にしてくださっていることも、よく存じております」
エマは穏やかに微笑んだ。
「だからこそ、昔のお嬢様のことも、少しずつ知っていただければと思います」
「……ありがとう、エマ」
ヴィオレッタは小さく笑った。
エマの言葉が、胸に温かく残った。
◇
最後にヴィオレッタが訪ねたのは、セバスティアンだった。
執務室の隣にある控えの間で、セバスティアンは書類を整理していた。
「セバスティアン、今少しいい?」
「もちろんでございます、お嬢様」
「昔の私のこと、聞きたいんだけど」
セバスティアンは少し驚いたように目を細めた。
「……昔のお嬢様でございますか」
「うん。お母様とエマにも聞いたんだけど、セバスティアンから見た私は、どんな子だった?」
セバスティアンはしばらく考え、それから静かに答えた。
「……大変、誇り高いお嬢様でございました」
「……誇り高い?」
「はい。ご自身がアルバレス公爵家の令嬢であることを、幼い頃から強く意識していらっしゃいました」
「……うん」
「その誇りが、時に他者を見下すような態度につながることもございました」
ヴィオレッタは俯いた。
「……そうだよね」
「ですが、私は一度だけ、お嬢様がご自身の行いを悔やんでいらっしゃるように見えたことがございます」
「……え?」
セバスティアンは、遠い記憶を辿るように目を細めた。
「ある日、屋敷の庭で、小さな使用人の子が転んでしまったことがございました」
「使用人の子?」
「はい。まだ幼い、庭師の見習いでございました。お嬢様はその子が泥だらけになったのをご覧になり、最初は『みっともない』とお叱りになりました」
「……うん」
「ですが、その子が泣きながら立ち上がろうとした時、お嬢様はしばらく黙っていらっしゃいました」
「……それで?」
「その後、誰にも見られないように、ハンカチを置いていかれたのです」
ヴィオレッタは目を瞬かせた。
「……ハンカチ?」
「はい。ご自身の刺繍入りのものを」
「……そんなことしたんだ」
「ええ。ただ、その子に直接渡すことはなさいませんでした」
セバスティアンは穏やかに微笑んだ。
「おそらく、どう接すればよいのか分からなかったのでしょう」
ヴィオレッタはしばらく考え込んだ。
幼い頃の自分は、誰かを傷つけることもあった。
けれど、傷ついた相手を見て、何も感じなかったわけではないのかもしれない。
「……セバスティアン」
「はい」
「昔の私は、悪い子だったと思う?」
その問いに、セバスティアンはすぐには答えなかった。
やがて、静かに口を開いた。
「……お嬢様。私は、幼い子どもを一言で善い子、悪い子と決めつけることは難しいと考えております」
「……うん」
「ですが、昔のお嬢様の行いの中には、確かに改めるべきものがございました。それは、今のお嬢様もご存じのことでしょう」
ヴィオレッタは頷いた。
「……うん」
「それでも、私は昔のお嬢様を、ただ悪い子だったとは思っておりません」
セバスティアンは静かに微笑んだ。
「今のお嬢様がこうしてご自身の過去を知ろうとなさっていることも、あの頃から続く、お嬢様ご自身の歩みなのだと思います」
ヴィオレッタは胸が熱くなるのを感じた。
「……ありがとう、セバスティアン」
「とんでもございません」
◇
その日の夕方、ヴィオレッタは自室に戻り、再び手帳を開いた。
母の言葉。
エマの思い出。
セバスティアンの記憶。
それぞれが語る幼い自分の姿は、少しずつ違っていた。
けれど、どれも嘘ではないのだろう。
(……私、いろんな顔をしてたんだね)
我儘で、誇り高くて、寂しがり屋で。
時には誰かを傷つけ、時には不器用に優しさを見せていた。
それが、八歳になる前のヴィオレッタ・アルバレスだった。
ヴィオレッタは手帳の最後のページを開いた。
『あした、わたしがわたしじゃなくなったら、どうしよう』
その言葉を、もう一度見つめる。
(……もしかして)
ふと、母の言葉が頭に浮かんだ。
幼い頃の自分は、公爵令嬢としての振る舞いを厳しく教えられていた。
八歳の誕生日を迎えれば、さらに多くのことを求められるようになる。
だから、変わってしまうことが怖かったのかもしれない。
(……でも、どうして「忘れないで」って書いたんだろう)
そこだけは、まだ分からなかった。
ヴィオレッタは手帳を閉じ、窓の外を見つめた。
夕暮れの庭園には、柔らかな光が差し込んでいる。
昨日までと何も変わらない景色。
けれど、ヴィオレッタの中では、何かが少しずつ変わり始めていた。
(……エレオノーラ様)
昨日、怯えた表情で自分を見つめていた少女。
彼女が何を経験し、どんな思いを抱えているのか。
それを知ることから、逃げてはいけない。
ヴィオレッタは静かに決意した。
(……ちゃんと、話を聞こう)
手帳を机の引き出しにしまい、ヴィオレッタはそっと立ち上がった。
鏡の中の少女が何者なのかは、まだ分からない。
けれど、過去の自分が残したものと向き合う覚悟は、少しずつできてきた気がした。




