第82話 八歳の手帳
母の部屋へ向かう途中、ヴィオレッタは何度も足を止めそうになった。
鏡の中に現れた少女のことを、母に話すべきだろうか。エマには話したけれど、あまりにも奇妙な出来事だったし、昨夜の夜会が終わったばかりの母を余計に心配させたくはない。
(でも、昔のことを聞くだけなら変じゃないよね)
そう考えて、ヴィオレッタは母の部屋の扉を叩いた。
「お母様、ヴィオレッタです。今、少しいい?」
「ええ、どうぞ」
中へ入ると、イザベラは窓際の机で書類に目を通していた。夜会の翌日だというのに、もう次の予定の確認をしているらしい。
「どうしたの、ヴィオレッタ。昨夜は疲れたでしょう? もう少し休んでいてもよかったのよ」
「うん。でも、ちょっと聞きたいことがあって」
「まあ、何かしら」
イザベラが書類を置くと、ヴィオレッタは向かいの椅子に腰を下ろした。
「あのね、私が小さい頃に使ってた手帳って、まだ残ってるかな?」
「手帳?」
「うん。青い表紙で、銀色のお花の模様が入ってるものなんだけど」
イザベラは少し考え、それから懐かしそうに微笑んだ。
「ああ、あの手帳ね。もちろん覚えているわ。あなたが七歳の頃、誕生日に贈ったものでしょう?」
「そう、それ!」
「随分と気に入っていたわね。毎日のように何かを書いていたから」
「……毎日?」
ヴィオレッタは目を瞬かせた。
手帳をもらったことは覚えているけれど、何を書いていたのかまでは思い出せない。
「ええ。誰にも見せたがらなかったから、中身は私も知らないのだけれど」
「そっか……」
「どうして急に?」
イザベラが不思議そうに尋ねる。
ヴィオレッタは少し迷ってから答えた。
「昨日、昔の知り合いに会ったの。それで、子どもの頃のことを思い出したくなって」
「……そう」
母の表情が、ほんの少しだけ変わった。
「その方とは、何かあったの?」
「うん。昔、私が嫌なことをしちゃったみたいで……」
ヴィオレッタは膝の上で指を組んだ。
「でも、何をしたのか、ちゃんと思い出せないんだ」
イザベラはしばらく娘を見つめていたが、やがて静かに頷いた。
「分かったわ。手帳は昔のおもちゃや絵本と一緒にしまってあるはずよ。セバスティアンに確認してもらいましょう」
「ありがとう、お母様!」
「ただし、ヴィオレッタ」
立ち上がろうとした娘を、イザベラが呼び止めた。
「昔のことを知ろうとするのは悪いことではないわ。でも、何か気になることがあったら、一人で抱え込まないでちょうだい」
その声は優しかった。
ヴィオレッタは少し驚いてから、笑顔で頷いた。
「うん、分かった」
◇
手帳が見つかったのは、それから一時間ほど経った頃だった。
セバスティアンが運んできた小さな木箱の中には、幼い頃のリボンや手袋、色褪せた絵本などが丁寧に収められていた。
「懐かしい……」
ヴィオレッタは思わず声を漏らした。
母が昔の持ち物を大切に保管していることは知っていたけれど、こうして目にすると少し照れくさい。
「お嬢様、こちらでございます」
セバスティアンが差し出したのは、淡い青色の小さな手帳だった。
表紙には銀糸で花の模様が刺繍され、角の部分が少し擦れている。
「あった!」
ヴィオレッタは両手で受け取った。
手にすると、不思議と懐かしい感覚があった。
表紙の柔らかな手触りも、少し重たい金具の留め具も、どこか覚えている。
「ありがとうございます、セバスティアン」
「とんでもございません。お嬢様が大切になさっていたものでございますから」
セバスティアンは穏やかに微笑んだ。
「……そうだったんだ」
「はい。お部屋を移られる際にも、こちらだけは必ずご自身でお持ちになっておりました」
ヴィオレッタは手帳を見つめた。
(そんなに大切にしてたんだ……)
けれど、どうして大切だったのかは思い出せない。
セバスティアンが退室すると、ヴィオレッタは机に向かい、そっと留め具を外した。
◇
最初のページには、幼い文字で名前が書かれていた。
『ヴィオレッタ・アルバレス』
少し右上がりで、ところどころ文字の大きさが揃っていない。
その下には、小さな花の絵が描かれていた。
「……ふふ、下手だなあ」
思わず笑みがこぼれる。
ページをめくると、短い文章がいくつも並んでいた。
『きょうはお母さまとおちゃをのんだ。おかしがおいしかった』
『お父さまがおしごとでいなかった。はやくかえってきてほしい』
『エマがかみをきれいにしてくれた。あしたもおねがいする』
どれも他愛のない日常の記録だった。
けれど、少し読み進めたところで、ヴィオレッタは思わず眉を寄せた。
『きょうのドレスはきらい。お母さまがきれいだといっても、わたしがきらいなんだからきらい』
『エマにべつのをもってこさせた。三かいもきがえたから、エマがおそいといった。エマがもっとはやくすればいいのに』
「……うわあ」
思わず声が漏れた。
さらにページをめくる。
『おちゃのじかんに、わたしのすきなおかしがなかった』
『つくりなおしてっていったのに、りょうりちょうがすぐにはできないって』
『わたしがたべたいんだから、つくればいいのに』
(……なかなかひどいな、私)
ヴィオレッタは苦笑した。
幼い頃の自分が我儘だったことは知っていたけれど、こうして本人の言葉で読むと、想像以上だった。
次のページには、さらに大きな文字が並んでいた。
『きょうはお父さまがかえってこなかった』
『おしごとだからしかたないっていわれたけど、わたしよりおしごとがだいじなの?』
『かえってくるまでおへやからでないっていったら、エマがこまってた』
『でも、わたしだってこまってる』
ヴィオレッタはそこで手を止めた。
自分の寂しさを、周りの人にぶつけていたのだろう。
エマが困っていることは分かっていたのに、それでも自分の気持ちを優先していた。
(……エマ、大変だっただろうな)
その一方で、次のページには少し小さな文字が書かれていた。
『お父さまがかえってきた』
『おこってたのに、かおをみたらうれしくなっちゃった』
『お父さまは、わたしがいい子にしていたらほめてくれるかな』
ヴィオレッタはしばらく、その文章を見つめた。
我儘で、周囲を困らせて、それでも父に褒めてほしかった。
幼い頃の自分の姿が、少しずつ見えてくるようだった。
さらにページをめくると、見覚えのある名前が目に飛び込んできた。
『きょうはエレオノーラがきた』
ヴィオレッタの指が止まった。
「……エレオノーラ」
昨日の少女の顔が浮かぶ。
淡い藤色のドレスをまとい、自分を見るなり青ざめた少女。
ヴィオレッタは続きを読んだ。
『エレオノーラはきれいなはなをもってきた』
『じぶんでそだてたんだって。わたしもほしかったから、ちょうだいっていった』
『でも、くれなかった』
『わたしはこうしゃくれいじょうなのに』
ヴィオレッタは思わず息を止めた。
(……そんな理由で?)
さらに次のページには、強く書き込まれた文字が並んでいた。
『エレオノーラは、わたしがこわいんだって』
『わたしがちょっとおこっただけなのに、ないちゃった』
『みんなのまえでないたから、わたしがわるいみたいになった』
『わたしはわるくない。だって、エレオノーラがわたしのいうことをきかなかったんだもの』
ヴィオレッタは、しばらくページを見つめていた。
幼い頃の自分は、相手が泣いたことに腹を立てている。
エレオノーラがどんな気持ちだったのか、考えようともしていない。
(……私、何をしたんだろう)
花を欲しがって、断られて、怒った。
手帳にはそう書かれているけれど、それだけで昨日のように怯えるだろうか。
きっと、ここに書かれていないことがある。
あるいは、幼い自分には書くほどのことだと思えなかったのかもしれない。
ヴィオレッタは小さく息を吐き、次のページをめくった。
『きょうはエレオノーラがいなかった』
『べつにいい。あの子はすぐなくから、いっしょにいてもつまらない』
『でも、ほかの子たちまでわたしのことをこわがってた』
『どうして?』
そこから少し先のページには、こんな文章もあった。
『みんな、わたしのいうことをきいてくれる』
『でも、わたしがいないところでは、なにをはなしてるんだろう』
『わたしがいっしょにあそぼうっていうと、みんなはいってくれる』
『なのに、だれもわたしをさそいにこない』
ヴィオレッタはページをめくる手を止めた。
幼い頃の自分は、自分が周囲を怖がらせていることに気づいていなかった。
けれど、誰も自分から近づいてこないことには、気づいていたのだろう。
(……そりゃ、怖い相手を遊びに誘えないよね)
今なら分かる。
けれど、当時の自分には分からなかった。
あるいは、分かりたくなかったのかもしれない。
◇
手帳の後半には、少しずつ文章が短くなっていた。
『きょうはお母さまにおこられた』
『わたしはわるくないっていったけど、ちゃんとあやまりなさいって』
『お母さまは、わたしのことがきらいなのかな』
その次のページには、少し乱れた文字が書かれていた。
『わたしは、わるい子なのかな』
『でも、みんなだってわるい』
『わたしのいうことをきかないから、わたしがおこるんだもの』
ヴィオレッタは苦い顔をした。
(……反省してるようで、全然してない)
けれど、その下には別の言葉が続いていた。
『お父さまとお母さまは、わたしのことがすきっていってくれる』
『エマも、やさしい』
『だから、だいじょうぶ』
ヴィオレッタはしばらく、その文字を見つめていた。
幼い頃の自分は、確かに我儘で、身勝手だった。
相手を傷つけても、自分が悪いとは思わず、周囲が自分の思い通りにならないことに腹を立てていた。
けれど、その一方で、誰かに嫌われることを怖がり、父や母に愛されていることを何度も確かめようとしていた。
(……私、何も知らなかったんだ)
鏡の中の少女の言葉が蘇る。
『あなたは、わたしのことを何も知らない』
確かに、今のヴィオレッタは昔の自分のことを、ほとんど知らなかった。
我儘だったことも、意地悪だったことも知っている。
でも、何を考えて、どうしてそんなことをしたのかまでは、知らなかった。
それを知ったからといって、過去の行いが許されるわけではない。
ただ、昔の自分を単純に悪い子だったと片づけてしまうのも、どこか違う気がした。
◇
手帳の最後のページには、日付が書かれていた。
八歳の誕生日の、前の日。
ヴィオレッタはその日付を見て、思わず息を止めた。
(……この次の日)
自分が前世の記憶を取り戻した日だ。
ページの上には、いつもと同じ幼い文字が並んでいる。
『あしたは、わたしのたんじょうび』
『お父さまとお母さまが、おいわいしてくれる』
『エマもいっしょ』
そこまでは、何の変哲もない文章だった。
けれど、その下に書かれた一文を見た瞬間、ヴィオレッタの指先が冷たくなった。
『あした、わたしがわたしじゃなくなったら、どうしよう』
「……え?」
思わず声が漏れた。
ヴィオレッタはもう一度、その文章を読み返した。
間違いない。
確かに、そう書かれている。
(……どういうこと?)
八歳の誕生日の前日。
まだ前世の記憶を取り戻していないはずの自分が、どうしてこんなことを書いたのだろう。
偶然だろうか。
それとも、何かを予感していたのだろうか。
ヴィオレッタは手帳を持つ手に力を込めた。
その時、ページの端に小さな文字が書かれていることに気づいた。
他の文章よりもずっと小さく、まるで誰かに見つからないように書かれた文字だった。
『わたしのこと、わすれないで』
ヴィオレッタは、しばらく動けなかった。
鏡の中の少女が、もう一度頭の中に浮かぶ。
銀色の髪。
淡い水色の瞳。
そして、少し寂しそうな笑顔。
『ねえ。あなたは、わたしのことを覚えている?』
その問いに、今のヴィオレッタはまだ答えられなかった。
ただ、手帳を胸に抱きしめることしかできなかった。
窓の外では、夏の風が木々を揺らしていた。
いつもと変わらない穏やかな午後。
けれど、ヴィオレッタの胸の中では、今まで当たり前だと思っていた何かが、静かに揺らぎ始めていた。




