第85話 小さな宝物
翌朝、ヴィオレッタは鏡の前で腕を組み、じっと自分の姿を見つめていた。
「……やっぱり、何もないよね」
首元から胸元にかけて何度も確かめてみるものの、特に変わったところはない。今日のドレスには小さなリボンがついているだけで、普段から身につけている装飾品といえば、父から贈られた髪飾りくらいだった。
(あの子、何を探してたんだろう)
鏡の少女は、これまで二度もヴィオレッタの胸元を見つめていた。
『……やっぱり、ないんだね』
あの言葉を思い出すたびに、何か大切なことを忘れているような気がする。
「お嬢様、朝食のお時間でございますよ」
扉の向こうからエマの声が聞こえ、ヴィオレッタは慌てて振り返った。
「はーい! 今行く!」
返事をしてから、もう一度だけ鏡を見る。
そこには、十五歳の自分が映っているだけだった。
◇
朝食の席で、ヴィオレッタは父アルフォンスに一つのお願いをした。
「お父様、私が小さい頃の肖像画って、まだ残ってる?」
「もちろんだよ。何枚か描かせたものがあるはずだが、どうしたんだい?」
アルフォンスは穏やかに微笑み、手にしていたカップを置いた。
「ちょっと昔の自分がどんな服を着てたのか、気になって」
「そうか。それなら、食事の後に見に行こうか。西棟の絵画室に何枚か飾ってあるはずだ」
「本当? ありがとう、お父様!」
ヴィオレッタが笑顔を見せると、アルフォンスの表情も自然と和らいだ。
「あなた、今日は午前中にお仕事があるのではなくて?」
イザベラが尋ねると、アルフォンスは少し考えてから答えた。
「急ぎの用件は済ませてあるよ。少しの時間なら問題ない」
「そうですか。それなら、ヴィオレッタとゆっくり見ていらしてくださいな」
「ああ、そうしよう」
アルフォンスは娘へ視線を戻し、穏やかに微笑んだ。
「久しぶりに、昔の話をするのもいいかもしれないね」
その様子を見て、ヴィオレッタも嬉しそうに笑った。
けれど、その胸の奥では、鏡の少女の言葉がずっと引っかかっていた。
◇
食事を終えると、ヴィオレッタは父とともに西棟の絵画室へ向かった。
壁にはアルバレス家の歴代当主や家族の肖像画が並び、その一角に幼いヴィオレッタの絵が飾られている。
「わあ……こんなにあったんだ」
「お前の成長を残しておきたかったからね」
アルフォンスは少し照れくさそうに微笑んだ。
最初に目に入ったのは、五歳の頃に描かれた肖像画だった。
淡い桃色のドレスをまとい、大きなリボンをつけた幼い少女が、少し得意げに微笑んでいる。
「……なんか、すごく偉そう」
ヴィオレッタが呟くと、アルフォンスは小さく笑った。
「この時は、画家に何度か描き直しを頼んでいたな」
「えっ、どうして?」
「もっと可愛く描いてほしいと言ってね。画家が少し困っていたのを覚えているよ」
「……うわあ」
ヴィオレッタは思わず顔を覆った。
「お父様、それ止めなかったの?」
「もちろん、わがままを言ってはいけないと注意したよ。ただ、あの頃は私も少し甘かったかもしれないね」
アルフォンスは苦笑した。
「……今さらだけど、画家の人に謝りたいな」
「その気持ちがあるだけでも、今のお前らしいと思うよ」
アルフォンスは穏やかに答えた。
次の肖像画は、もう少し成長した頃のものだった。
白いドレスをまとい、椅子に座った幼いヴィオレッタが描かれている。
その首元を見た瞬間、ヴィオレッタは足を止めた。
「……あれ?」
「どうしたんだい?」
「お父様、これ……」
ヴィオレッタが指さしたのは、少女の胸元にある小さな装飾品だった。
銀色の鎖の先に、花の形をした小さなロケットが下がっている。
「……ペンダント?」
「ああ、それか」
アルフォンスは懐かしそうに目を細めた。
「確か、六歳くらいの頃だったかな。イザベラから贈られたものだよ」
「お母様から?」
「そうだ。お前がとても気に入って、しばらくは毎日のように身につけていたのを覚えている」
ヴィオレッタは絵に近づいた。
小さなロケットには、青い石が一粒埋め込まれている。
どこか見覚えのある形だった。
(……これ、知ってる)
そう思った瞬間、胸の奥が小さくざわめいた。
けれど、いつ、どこで見たのかまでは思い出せない。
「このペンダント、今はどこにあるの?」
ヴィオレッタが尋ねると、アルフォンスは少し考え込んだ。
「そういえば、最近は見かけないな。昔はよく身につけていたのだが……」
「……そうなんだ」
「気になるなら、イザベラに聞いてみるといい。あれを贈ったのは彼女だからね」
「うん、そうする」
ヴィオレッタはもう一度、肖像画を見つめた。
銀色のロケット。
青い石。
鏡の少女が見つめていた胸元。
(……もしかして、これのこと?)
胸の奥で、何かがつながり始めていた。
◇
午後、ヴィオレッタは母の部屋を訪れた。
「お母様、ちょっと聞いてもいい?」
「ええ、どうしたの?」
「私が六歳くらいの頃にもらった、銀色のペンダントって覚えてる?」
イザベラはすぐに頷いた。
「もちろん覚えているわ。小さな花の形をしたロケットでしょう?」
「そう、それ!」
「あなた、とても気に入っていたわね。お風呂に入る時まで外したがらなくて、エマが困っていたのを覚えているわ」
「……またエマを困らせてたんだ」
ヴィオレッタが苦笑すると、イザベラも少し笑った。
「ええ。でも、あのペンダントだけは特別だったようね」
「……どうして?」
「それは、あなたが私にお願いしたものだったからよ」
「私が?」
ヴィオレッタは目を丸くした。
「確か六歳くらいの頃だったかしら。あなたが突然『お母様と同じものが欲しい』と言い出したの」
「……お母様と同じもの?」
「ええ。私が若い頃から身につけているロケットを見て、どうしても同じものが欲しいと」
イザベラは胸元に手を添えた。
そこには、細い金の鎖につながれた小さなロケットが下がっていた。
「これよ」
「……あ」
ヴィオレッタは思わず身を乗り出した。
形は少し違うけれど、花の模様がよく似ている。
「あなたは『お母様とおそろいがいい』と言って、ほかの贈り物では納得しなかったのよ」
「……いかにも昔の私らしいね」
「そうね。職人が仕上げるまで何度も催促して、私も少し困ったわ」
イザベラは懐かしそうに微笑んだ。
「でも、出来上がったものを渡した時のあなたは、本当に嬉しそうだった」
ヴィオレッタは母の胸元にあるロケットを見つめた。
(……お母様と、おそろい)
それだけで、幼い自分にとっては特別な宝物だったのかもしれない。
「……それで、そのペンダントって今はどこにあるの?」
イザベラの表情が、少しだけ曇った。
「……それが、分からないの」
「え?」
「あなたが八歳になる少し前から、見かけなくなったのよ」
ヴィオレッタは息を呑んだ。
「……八歳になる前?」
「ええ。いつも身につけていたのに、ある日突然外してしまって。それから、どこにしまったのか尋ねても教えてくれなかったわ」
「……私が?」
「『もういらない』とおっしゃったの」
ヴィオレッタは目を見開いた。
(……もういらない?)
あれほど大切にしていたはずのものを、どうして突然手放したのだろう。
「その時、お母様は何か言った?」
「もちろん、どうしたのか尋ねたわ。でも、あなたは答えなかったの」
イザベラは少し寂しそうに微笑んだ。
「ただ、私が悲しそうな顔をしたら、あなたも泣きそうな顔になって……それでも、最後まで何も言わなかった」
ヴィオレッタは俯いた。
鏡の少女の言葉が、頭の中に蘇る。
『……やっぱり、ないんだね』
『わたしが大切にしてたものも、覚えてる?』
(……あのペンダントのことだったんだ)
けれど、なぜ手放したのかは分からない。
それを知るには、もう少し調べる必要がありそうだった。
◇
母の部屋を出たヴィオレッタは、そのままエマを探した。
エマは自室で衣装の整理をしていたが、ヴィオレッタの話を聞くと、すぐに頷いた。
「銀色のロケットでございますね。もちろん覚えております」
「エマも知ってるんだ」
「はい。お嬢様が幼い頃から、ほとんど毎日身につけていらっしゃいましたので」
「……そんなに?」
「ええ。お着替えの際にも、必ず最後につけるようにとお命じになっておりました」
エマは少し懐かしそうに笑った。
「一度、私がつけ忘れたことがございまして、その日は大変なお叱りを受けました」
「……ごめん」
「ふふ、昔のことでございますよ」
ヴィオレッタは苦笑したが、すぐに表情を改めた。
「でも、そのペンダント、八歳になる前になくなったんだよね?」
「……はい」
エマの表情が少し曇った。
「正確には、お嬢様が身につけなくなったのでございます」
「……どういうこと?」
「ある朝、いつものようにペンダントをおつけしようとしたところ、お嬢様が『今日はつけない』とおっしゃったのです」
「……それで?」
「私が理由をお尋ねすると、『もういらないから、どこかにしまって』と」
ヴィオレッタは眉を寄せた。
「……エマがしまったの?」
「いいえ。お嬢様はその後、やはりご自身でしまうとおっしゃって、私には触らせてくださいませんでした」
「……そっか」
「それ以来、あのペンダントを見かけることはなくなりました」
ヴィオレッタはしばらく考え込んだ。
幼い自分は、何かを隠していたのだろうか。それとも、何かをきっかけにペンダントを嫌いになってしまったのだろうか。
「……エマ、その頃の私、何か変わったことはなかった?」
エマは少し考えてから、静かに答えた。
「八歳のお誕生日が近づく頃、お嬢様は少し落ち着かないご様子でございました」
「……落ち着かない?」
「はい。普段よりも怒りっぽくなられたり、急にお部屋へ閉じこもられたり……」
ヴィオレッタは小さく息を呑んだ。
「……それって、いつ頃から?」
「正確な時期は覚えておりませんが、お誕生日の少し前だったかと」
エマは少し困ったように微笑んだ。
「当時は、お誕生日が近づいて気持ちが高ぶっていらっしゃるのだと思っておりましたが……」
「……そうだったんだ」
ヴィオレッタは胸の奥がざわめくのを感じた。
八歳の誕生日。
前世の記憶を取り戻した日。
そして、その直前に姿を消したペンダント。
(……何か、関係があるのかな)
◇
その日の夜、ヴィオレッタは再び青い手帳を開いた。
六歳くらいの頃の記録を読み返してみると、確かにペンダントについて書かれたページがあった。
『お母さまとおそろいのペンダントをもらった』
『とってもきれい。ぜったいにまいにちつける』
『エマがわすれたら、ちゃんとおこる』
「……そこは怒らなくていいのに」
思わず苦笑する。
けれど、ページをめくるうちに、少しずつ文章の雰囲気が変わっていった。
『きょうもペンダントをつけた』
『お母さまが、よくにあうっていってくれた』
『うれしかった』
さらに先には、こんな文章もあった。
『お母さまは、わたしがいい子になったらもっとすきになってくれるかな』
ヴィオレッタはそこで手を止めた。
(……いい子になったら、か)
幼い自分は、母に愛されていることを知っていたはずだ。それでも、もっと褒めてもらいたかったのだろう。
最後の方のページを開くと、八歳の誕生日の少し前の日付が目に入った。
『きょう、お母さまにおこられた』
『もうすぐ八さいなんだから、もっとちゃんとしなさいって』
『わたしはちゃんとしてるのに』
その次のページには、少し乱れた文字が並んでいた。
『お母さまは、いい子のわたしがすきなのかな』
『わるい子だったら、きらいになるのかな』
ヴィオレッタは息を呑んだ。
そして、その下に書かれた一文を見つけた。
『ペンダントを、しまった』
それだけだった。
理由は書かれていない。けれど、文字はいつもより強く、紙に深く刻まれていた。
(……どうして?)
母とおそろいのペンダント。あれほど大切にしていた宝物を、どうして突然しまってしまったのだろう。
ふと、鏡の中の少女の言葉が蘇る。
『わたしが大切にしてたものも、覚えてる?』
ヴィオレッタはそっと手帳を閉じた。
「……探してみよう。あなたが大切にしてたもの、ちゃんと見つけたいから」
机の上の手鏡には、いつもの自分が映っている。
けれど、その表情がほんの少しだけ柔らかく見えたのは、気のせいだろうか。
ヴィオレッタはしばらく鏡を見つめていたが、やがて静かに微笑んだ。
「……もう少しだけ、待っててね」
鏡は何も答えず、窓から差し込む月明かりを受けて静かに輝いていた。




