第80話 夜会に現れた過去
アルバレス公爵家の大広間には、今夜のために用意された花々が飾られ、シャンデリアの柔らかな光が磨き上げられた床に降り注いでいた。楽団の奏でる音楽に合わせて客人たちが談笑し、窓の向こうでは夕闇に包まれた庭園の灯りが揺れている。
「お嬢様、少しだけこちらを向いてくださいませ」
「こう?」
「はい。……できました」
エマが最後の髪飾りを留めると、ヴィオレッタは鏡の中の自分を眺めた。
淡い青色のドレスには銀糸の刺繍が施され、結い上げた銀髪には父から贈られた花の髪飾りが輝いている。
「わあ、綺麗……。エマ、ありがとう!」
「お嬢様が綺麗なのでございますよ」
「もう、そういうことをさらっと言うんだから」
ヴィオレッタは照れくさそうに笑い、椅子から立ち上がった。
今夜はアルバレス公爵家が主催する夏の夜会。父と母が大切にしている催しであり、ヴィオレッタにとっても、学院の友人たちを迎える楽しみな一夜だった。
(原作でも、この夜会でアリアに嫌味を言ってたんだよね……)
夏休みに入る前から気にかけていた出来事を思い出し、ヴィオレッタは小さく息を吐いた。
けれど、ここは自分の知る物語とは違う世界だ。何が起こるか分からないからこそ、目の前の人たちを大切にしたい。
「お嬢様?」
「あ、ううん。何でもないよ。行こうか、エマ」
「はい。……その前に、扇をお忘れでございます」
「あっ、危なかった!」
エマが差し出した扇を受け取り、ヴィオレッタは苦笑した。
「お母様に見つかる前でよかった……」
「ふふ、そうでございますね」
二人は顔を見合わせて笑い、部屋を後にした。
◇
「まあ、ヴィオレッタ! とっても素敵よ!」
大広間の入口で娘を迎えたイザベラは、ぱっと顔を輝かせた。
「ありがとう、お母様」
「髪飾りもよく似合っているわ。ねえ、あなた?」
隣に立つアルフォンスが、娘を見つめて穏やかに微笑む。
「ああ。贈った甲斐があったよ」
「お父様もありがとう。すごく気に入ってるの!」
「それなら何よりだ」
アルフォンスは嬉しそうに頷き、それから少しだけ真面目な表情になった。
「今夜は客人も多い。お前も公爵家の一員として挨拶をすることになるが、無理をする必要はない。何か困ったことがあれば、私たちを頼りなさい」
「うん、分かってる!」
「本当に?」
「もう、お父様ってば」
ヴィオレッタが頬を膨らませると、イザベラが楽しそうに笑った。
そこへセバスティアンが近づき、最初の客人が到着したことを告げた。
「それでは、始めましょうか」
イザベラの言葉に、ヴィオレッタは背筋を伸ばした。
◇
夜会が始まってしばらくすると、ヴィオレッタのもとへ見慣れた顔が集まり始めた。
「ヴィオレッタ!」
「セレス!」
淡い金色のドレスをまとったセレスティアが、明るい笑顔で歩み寄ってくる。
「久しぶり! 元気だった?」
「うん! セレスも元気そうだね」
「もちろん。今日は一緒に楽しもうね!」
続いて現れたのは、白と淡い紫のドレスに身を包んだカトレアだった。
「こんばんは、ヴィオレッタ」
「カトレア! そのドレス、すっごく可愛い!」
「……ありがとう。君にそう言ってもらえると嬉しいよ」
カトレアは少し照れたように微笑んだ。
「リリアーナはまだかな?」
セレスが入口を見やると、ちょうど淡い桃色のドレスをまとったリリアーナが姿を見せた。
「ヴィオレッタ様!」
「リリ、来てくれてありがとう!」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
リリアーナは嬉しそうに微笑んだが、周囲の華やかさに少し緊張しているようだった。
「そんなにかしこまらなくていいよ。今日はみんなで楽しもう?」
「はい!」
友人たちが揃うと、ヴィオレッタの胸も自然と弾んだ。
学院では当たり前のように顔を合わせていたのに、夏休みの間はそれぞれの家で過ごしている。こうして再会できるだけで、何だか特別な気分だった。
しばらく四人で話していると、セバスティアンが静かに近づいてきた。
「お嬢様。フォスター男爵家の皆様がお見えになりました」
「えっ、アリアが?」
ヴィオレッタは思わず声を弾ませた。
入口の方を見ると、栗色の髪を上品にまとめた少女が、両親と並んで挨拶を交わしている。
「アリア!」
呼びかけると、アリアは驚いたように目を丸くし、それから柔らかく微笑んだ。
「ヴィオレッタ様。こんばんは」
「来てくれて嬉しい! 家のお仕事は大丈夫だった?」
「はい。今夜は父の商いの関係で、お招きいただきまして」
アリアによると、フォスター男爵家は以前からアルバレス公爵家と商取引があり、今夜も家同士の付き合いで招待されたのだという。
「そうだったんだ。じゃあ、あとでみんなのところに来られる?」
「ええ、父と母への挨拶が済めば、ぜひ」
「よかった!」
ヴィオレッタは嬉しそうに笑った。
それからしばらくの間、友人たちと楽しい時間を過ごした。
セレスは夏休みに剣の稽古を続けているらしく、カトレアと次に会った時には手合わせをしたいと張り切っていた。
「今度こそ一本取るからね!」
「ふふ、楽しみにしているよ」
カトレアが余裕のある笑みを浮かべると、セレスは悔しそうに頬を膨らませた。
「もう、その顔! 絶対に油断させてやるんだから!」
「セレス、それは先に言ったら駄目なんじゃない?」
ヴィオレッタが笑うと、みんなもつられて笑った。
そんな穏やかな時間が、しばらく続いた。
◇
夜会も半ばを過ぎた頃、ヴィオレッタは少しだけ大広間を離れた。
友人たちはそれぞれ家族に呼ばれており、エマも飲み物を取りに行っている。
(ちょっとだけ、静かなところに行こうかな)
大広間の隣には、小さな休憩室がいくつか用意されていた。
ヴィオレッタはその一つへ向かい、扉が少し開いていることに気づいた。
中からは、誰かの小さな声が聞こえる。
(……誰かいるのかな?)
ヴィオレッタはそっと扉を覗いた。
そこは、庭園に面した小さな談話室だった。
窓際には一人の少女が立っている。
淡い藤色のドレスをまとい、金茶色の髪を肩のあたりでまとめた、華奢な令嬢だった。
「あの、こんばんは」
ヴィオレッタが声をかけると、少女はびくりと肩を震わせた。
「……っ!」
驚いたように振り返った少女は、ヴィオレッタの顔を見た瞬間、さっと血の気を失った。
「……ヴィ、ヴィオレッタ様……」
「え?」
ヴィオレッタは目を瞬かせた。
少女の顔には、はっきりとした怯えが浮かんでいた。
「あっ、ごめんなさい! 驚かせちゃった?」
「い、いえ……その……」
少女は慌てて頭を下げた。
「ご、ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ございません……!」
「えっ、そんな、謝らなくていいよ」
ヴィオレッタが一歩近づくと、少女は反射的に後ずさった。
その仕草に、ヴィオレッタは足を止めた。
(……あれ?)
何だろう。
ただ驚いているというより、まるで自分を怖がっているように見える。
「あの……」
ヴィオレッタはできるだけ優しく声をかけた。
「私、何か失礼なことをしたかな?」
「い、いいえ! そんなことは……!」
少女は慌てて首を振った。
けれど、その声は震えていた。
「……その、私、失礼いたします」
少女は深く頭を下げると、ヴィオレッタの横を通り過ぎようとした。
「あっ、待って」
思わず声をかけた瞬間、少女の足がぴたりと止まった。
その背中が、目に見えて強張る。
「……は、はい」
ヴィオレッタは息を呑んだ。
(……私、そんなに怖いの?)
少女は振り返らないまま、小さな声で答えを待っている。
ヴィオレッタは少し迷ってから、静かに尋ねた。
「……お名前を、聞いてもいい?」
少女はゆっくりと振り返った。
「……エレオノーラ・ベルフォードと申します。ベルフォード子爵家の娘でございます」
「エレオノーラ……」
その名前を聞いた瞬間、ヴィオレッタの胸が小さく跳ねた。
どこかで聞いたことがある。
いや、確かに知っている名前だった。
(……あ)
幼い頃の記憶が、ぼんやりと浮かんだ。
小さなお茶会。
色とりどりの菓子。
そして、何人もの令嬢たちの笑い声。
その中心にいたのは――自分だった。
「……エレオノーラ様」
ヴィオレッタが名前を呼ぶと、少女はびくりと肩を震わせた。
「は、はい……」
その様子を見て、ヴィオレッタは言葉を失った。
以前の自分が、彼女に何かをしたのだろう。
けれど、何をしたのか、はっきりとは思い出せない。
「……ごめんなさい」
思わず口にすると、エレオノーラは驚いたように顔を上げた。
「……え?」
「昔、私が何かひどいことをしたんだよね」
ヴィオレッタは静かに言った。
「ちゃんとは思い出せないんだけど……あなたがそんなに怖がっているのは、きっと私のせいだから」
エレオノーラは何も答えなかった。
ただ、震える指先でドレスの裾を握りしめている。
しばらくして、か細い声が返ってきた。
「……お、覚えて……いらっしゃらないのですか……?」
ヴィオレッタは胸が痛んだ。
「……うん。ごめんね」
エレオノーラは俯いた。
その表情は見えなかったが、握りしめた指先がさらに強くなった。
「……そう、なのですね」
それだけを呟くと、彼女は小さく頭を下げた。
「……失礼、いたします」
今度こそ、ヴィオレッタは引き止めなかった。
エレオノーラは足早に部屋を出ていき、廊下の向こうへ姿を消した。
ヴィオレッタは、その場に立ち尽くした。
(……私、何をしたんだろう)
彼女の怯えた顔が、頭から離れなかった。
◇
夜会が終わりに近づく頃、ヴィオレッタは一人で廊下を歩いていた。
大広間では客人たちが帰り支度を始めている。
けれど、ヴィオレッタの心は晴れなかった。
(……エレオノーラ様、すごく怖がってた)
ただ名前を呼んだだけで、肩を震わせるほどに。
それが、かつての自分のせいだとしたら。
(……私、あの子に何をしたのかな)
考えても、はっきりとは思い出せない。
八歳の時に前世の記憶を取り戻してから、ヴィオレッタは自分を変えようと努力してきた。
けれど、それ以前の自分が何を考え、誰を傷つけたのか、すべてを覚えているわけではない。
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか見覚えのない廊下に出ていた。
「……あれ?」
ヴィオレッタは足を止めた。
(……いや、ちょっと待って。ここ、私の家だよね?)
学院ではよく道を間違えるけれど、ここは生まれ育った屋敷。それも、大広間からほんの少し歩いただけだ。
(いくら私でも、こんなところで迷うわけが……)
そう思って振り返ると、今通ってきたはずの廊下が妙に長く感じられた。
いつもなら見えるはずの階段も、どこにもない。
「……こんな場所、あったっけ?」
ヴィオレッタは小さく呟いた。
その時、廊下の奥に大きな鏡があることに気づいた。
古い木枠に細かな花の彫刻が施された、背の高い姿見だった。
(こんな鏡も、見たことない……)
何となく気になり、ヴィオレッタは近づいた。
鏡には、淡い青色のドレスをまとった自分の姿が映っている。
父から贈られた髪飾りも、手にした扇も、何もおかしなところはない。
「……うん?」
けれど、次の瞬間。
鏡の中の自分が、笑った。
ヴィオレッタは笑っていない。
驚いて目を見開くと、鏡の中の少女も同じように目を見開いた。
ただ、その表情はどこか違っていた。
見慣れたはずの顔なのに、知らない誰かを見ているような、不思議な感覚。
「……え?」
ヴィオレッタが小さく声を漏らすと、鏡の中の少女がゆっくりと口を開いた。
『……やっと、見つけた』
聞こえたのは、自分と同じ声だった。
ヴィオレッタは息を呑んだ。
鏡の中の少女は、もう一度微笑んだ。
『ねえ。あなたは、わたしのことを覚えている?』
その瞬間、廊下の向こうから声がした。
「お嬢様? こちらにいらっしゃいますか?」
「……エマ?」
振り返ると、エマが廊下の角から姿を現した。
「まあ、お嬢様。こんなところにいらしたのですね」
「エマ、あの……!」
ヴィオレッタは慌てて鏡を指さした。
けれど、そこに映っていたのは、いつもの自分だった。
何もおかしなところはない。
それだけではなかった。
(……え?)
ヴィオレッタは周囲を見回した。
先ほどまで奥へと続いていた薄暗い廊下は、いつの間にか見慣れた明るい廊下に変わっていた。
壁にはいつもの風景画が掛けられ、少し先には大広間へ続く扉が見える。
そして、目の前にある鏡も、よく知っているものだった。
(これ……大広間の隣にある鏡だよね?)
夜会の客人が身だしなみを整えるために使う、昔から置かれている姿見。
先ほど見た古い木枠の鏡とは、形も飾りもまるで違っていた。
(……さっきまで、あんな鏡じゃなかったのに)
「お嬢様?」
エマが不思議そうに首を傾げる。
「どうかなさいましたか?」
「……エマ。私、ずっとここにいた?」
「はい。こちらの廊下で鏡をご覧になっていらっしゃいましたが……」
「……そっか」
ヴィオレッタはもう一度、鏡を見つめた。
そこには、少し青ざめた自分の顔が映っている。
その後ろには、心配そうにこちらを見るエマの姿もあった。
(……じゃあ、あの廊下は何だったの?)
確かに見たはずの薄暗い廊下。
古い木枠の鏡。
そして、自分と同じ顔をした少女。
どれも、夢だったとは思えないほど鮮明に覚えている。
「……ううん。何でもない」
ヴィオレッタはようやくそう答えた。
「ちょっと、ぼんやりしてただけ」
「お疲れなのですね。そろそろお部屋に戻りましょう」
「……うん」
エマに促され、ヴィオレッタは歩き出した。
けれど、廊下の角を曲がる直前、もう一度だけ振り返る。
そこには、見慣れた鏡が静かに佇んでいた。
(……わたしのことを覚えている?)
その問いが、いつまでも頭から離れなかった。
華やかな夏の夜会は、こうして幕を閉じた。
けれどヴィオレッタにとって、本当に不思議な夏は、まだ始まったばかりだった。




