第88話 別荘に行こう
八月も終わりに近づいたある朝、ヴィオレッタは自室の机に向かい、友人たちから届いた手紙を並べていた。
「……みんな、予定は大丈夫そうだね」
セレスティアからは『もちろん行く! 今から楽しみ!』という勢いのある返事が届き、リリアーナからは丁寧な文字で参加の知らせが届いている。カトレアも予定を調整してくれたらしく、アリアからは旅行に持っていきたいお菓子についての相談まで書かれていた。
学院が夏休みに入る前、みんなで最後に集まろうと約束したことを思い出す。
その時は、どこかでお茶でも飲めればいいと思っていたのだけれど、話が弾むうちに小旅行の計画へと変わっていた。
「お嬢様、ずいぶん楽しそうでございますね」
旅行用の衣装を選んでいたエマが、微笑みながら声をかける。
「うん。みんなと会うの、久しぶりだから」
「学院では毎日のようにご一緒でしたものね」
「そうなんだよね。夏休みって、始まる前は長いと思ってたのに」
ヴィオレッタは窓の外を見た。庭園の木々は青々と茂り、夏の日差しを受けて輝いている。
「もう終わっちゃうんだなあ」
「ですが、最後に楽しいご予定ができましたね」
「うん!」
ヴィオレッタは笑顔で頷き、机の上に置いた案内状を手に取った。
行き先は、アルバレス家が所有する湖畔の別荘。
父に相談したところ、友人たちを招くことを快く許してくれたのだった。
◇
「湖のそばの別荘か。しばらく行っていなかったね」
数日前、ヴィオレッタから相談を受けたアルフォンスは、懐かしそうにそう答えた。
「お友達を招いてもいい?」
「もちろん構わないよ。あそこは景色もいいし、今の季節なら過ごしやすいだろう」
「本当? ありがとう、お父様!」
「ただし、湖に近づく時や乗馬をする時は、必ず付き添いをつけること。それだけは約束してほしい」
「うん、分かった!」
アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
「せっかくの夏休みだ。みんなで楽しい思い出を作っておいで」
隣で話を聞いていたイザベラも頷く。
「お招きする以上、皆様に不自由がないように準備しなくてはいけませんね。セバスティアンにも伝えておきましょう」
「ありがとう、お母様」
「それから、ヴィオレッタ」
「うん?」
「お友達と過ごす時間は大切だけれど、夜更かしのしすぎには気をつけるのよ」
「……まだ何もしてないのに」
「あなたたちなら、きっと話が尽きないでしょうから」
イザベラが微笑むと、ヴィオレッタも思わず笑ってしまった。
◇
そして、約束の日。
アルバレス家の屋敷には、朝から友人たちが次々と到着していた。
「ヴィオレッタ! 久しぶり!」
最初に姿を見せたのはセレスティアだった。馬車から降りるなり、軽やかな足取りで近づいてくる。
「セレス! 来てくれてありがとう」
「当然でしょ。こんな楽しそうな誘い、断るわけないじゃない」
セレスティアは嬉しそうに笑い、屋敷の方を見上げた。
「それにしても、ここへ来るのも久しぶりね。夏の夜会以来かな」
「そうだね。あの時はゆっくり話せなかったし、今日はいっぱいおしゃべりしよう」
「もちろん!」
二人が笑い合っていると、次の馬車が到着した。
「ヴィオレッタ様!」
「リリ!」
リリアーナは淡い黄色のワンピースをまとい、少し緊張した様子で馬車から降りてきた。
「お招きいただき、ありがとうございます。こんな素敵な旅行にご一緒できるなんて……」
「そんなにかしこまらなくていいよ。みんなで楽しむための旅行なんだから」
「はい!」
リリアーナが嬉しそうに微笑んだところで、セレスティアが横から顔を覗かせた。
「リリ、荷物はそれだけ?」
「ええ。二泊分ですから、あまり多くならないようにと思いまして」
「偉いわね。私なんて、何を持っていくか迷っちゃって」
「セレスは何をそんなに持ってきたの?」
ヴィオレッタが尋ねると、セレスティアは少し得意げに笑った。
「動きやすい服でしょ、湖畔を歩く時の靴でしょ、それから乗馬用の服も!」
「……旅行というより、合宿みたいだね」
「だって、せっかくなんだから色々やりたいじゃない!」
三人で笑っていると、背後から落ち着いた声が聞こえた。
「おや、ずいぶん楽しそうだね」
振り返ると、カトレアが微笑みながら立っていた。
「カトレア様!」
「やあ、ヴィオレッタ。招待してくれてありがとう」
カトレアはいつものようにすっきりとした装いで、片手には小さな旅行鞄を持っている。
「カトレア、今回は剣を持ってこなかったの?」
セレスティアが尋ねると、カトレアは肩をすくめた。
「さすがに友人との旅行にまで持ってこないよ。君と違ってね」
「ちょっと、私だって持ってきてないわよ!」
「それは意外だ」
「もう、カトレア!」
セレスティアが頬を膨らませると、カトレアは楽しそうに笑った。
ヴィオレッタは二人のやり取りを見ながら、思わず微笑んだ。
(……やっぱり、みんなといると楽しいな)
その時、最後の馬車が門をくぐってきた。
「皆さん、お待たせしました!」
降りてきたのはアリアだった。
「アリア! 待ってたよ」
「遅くなってしまってごめんなさい。出発前に父から荷物を追加されてしまって」
「荷物?」
「ええ。皆さんで召し上がっていただきたいお菓子があるそうで……」
アリアが振り返ると、従者が大きな箱を抱えて馬車から降りてきた。
「……結構あるね」
ヴィオレッタが驚くと、アリアは少し困ったように笑った。
「私も、こんなに持っていく必要があるのかと思ったんですけれど」
「いいじゃない! お菓子がたくさんあるなら、夜のおしゃべりも盛り上がりそう!」
セレスティアが嬉しそうに言う。
「それは確かに楽しみですね」
リリアーナも頷いた。
「ふふ、では父にもそう伝えておきます」
アリアが笑うと、ヴィオレッタも嬉しくなった。
こうして五人が揃うのは、夏休みに入ってから初めてだった。
◇
出発の準備が整うと、一行は馬車に乗り込んだ。
アルバレス家の別荘までは、途中で休憩を挟みながら半日ほどの道のりになる。
馬車の中では、早速おしゃべりが始まった。
「それで、ヴィオレッタ。別荘では何をする予定なの?」
セレスティアが身を乗り出して尋ねる。
「えっと、湖の周りを散歩したり、乗馬をしたり、あとは庭でピクニックもできるみたい」
「いいわね! 乗馬なら私も楽しみ」
「セレスは、きっと馬に乗っても速いんでしょうね」
リリアーナが感心したように言うと、セレスティアは少し得意げに笑った。
「まあ、それなりにはね。でも、カトレアには負けるかも」
「乗馬まで勝負するつもりかい?」
カトレアが苦笑する。
「せっかくだから、少しくらい競争してもいいじゃない」
「それなら、まずは安全な場所があるか確認してからだね」
「分かってるわよ」
そんな二人のやり取りを聞きながら、アリアが楽しそうに笑った。
「私は、湖畔でのお茶会が楽しみです。景色のいい場所でゆっくりお菓子をいただくなんて、素敵ですよね」
「私も楽しみです」
リリアーナが頷く。
「それに、皆さんとこうして旅行するのは初めてですから」
「そうだね」
ヴィオレッタは窓の外を眺めた。
馬車は屋敷の門を抜け、緑の多い道を進んでいる。
少し前まで、自分は鏡の中の少女のことで頭がいっぱいだった。
幼い頃の自分が何をして、何を考えていたのか。知らなかった過去を知るたびに、胸が苦しくなることもあった。
けれど、今はこうして友人たちと笑い合っている。
(……なんだか、不思議だな)
昔の自分には、こんな時間があったのだろうか。
手帳には、誰も遊びに誘ってくれないと書かれていた。
その寂しさを思い出すと、胸の奥が少しだけ痛む。
「……ヴィオレッタ?」
隣に座っていたリリアーナが、心配そうに顔を覗き込んだ。
「どうかなさいましたか?」
「ううん、何でもないよ」
ヴィオレッタは微笑んだ。
「ただ、みんなと旅行できて嬉しいなって思ってたの」
リリアーナは一瞬驚いたように目を丸くし、それから柔らかく微笑んだ。
「……私もです」
「私も!」
セレスティアがすかさず口を挟む。
「せっかくの夏休み最後の旅行なんだから、思いっきり楽しみましょう!」
「そうだね」
カトレアが頷き、アリアも笑顔を見せた。
「きっと、素敵な思い出になりますね」
ヴィオレッタはみんなの顔を見回した。
「うん。そうしよう!」
◇
昼過ぎ、一行を乗せた馬車は緩やかな丘を越えた。
窓の外に広がっていた森が途切れ、突然、青く輝く湖が姿を現す。
「……わあ!」
最初に声を上げたのはリリアーナだった。
湖は夏の日差しを受けてきらきらと輝き、その向こうには緑の山々が連なっている。
「すごい……!」
セレスティアも窓に顔を近づけた。
「想像してたより、ずっと大きい湖ね」
「本当に綺麗ですね」
アリアが感嘆の声を漏らす。
カトレアも窓の外を眺め、満足そうに微笑んだ。
「これは、散策が楽しみだ」
ヴィオレッタも湖を見つめた。
水面を渡る風が木々を揺らし、遠くには白い屋根の建物が見える。
「あれが、うちの別荘みたい」
「……みたい?」
セレスティアが振り返る。
「ヴィオレッタ、来たことないの?」
「小さい頃にはあるみたいなんだけど、あんまり覚えてなくて」
「ふふ、じゃあヴィオレッタも一緒に探検できるわね」
「そうだね」
ヴィオレッタは笑った。
馬車が坂道を下り、湖畔の別荘へ近づいていく。
白い壁と淡い青色の屋根を持つ建物は、周囲の緑に囲まれ、静かに佇んでいた。
玄関前には、別荘を管理する使用人たちが並んでいる。
馬車が止まると、ヴィオレッタは最初に降り、振り返って友人たちへ手を差し出した。
「みんな、ようこそ!」
セレスティアが笑い、リリアーナが嬉しそうに頷く。
カトレアは軽く会釈し、アリアは湖を見上げながら目を輝かせていた。
「アルバレス家の別荘へ!」
ヴィオレッタが笑顔でそう告げると、湖から吹く涼しい風が、五人の髪を優しく揺らした。
夏休み最後の小旅行が、今、始まろうとしていた。




