第77話 公爵家の小さな夏模様
夏休みが始まって三日目。
アルバレス公爵家の屋敷では、いつもと変わらない朝が訪れていた。
ただ一つ違うのは、学院へ通っているはずのお嬢様が、朝から屋敷のあちこちに姿を見せることだった。
◇
**厨房の小さな騒動**
「エマ、ちょっと聞いてもいい?」
朝食を終えたヴィオレッタは、自室へ戻る途中でふと足を止めた。
「何でございましょう?」
「今日のお昼のお菓子って、何が出るのかな?」
「本日は果物のタルトと伺っております」
「タルト! いいね!」
ヴィオレッタは嬉しそうに笑ったが、すぐに何かを思いついたように手を打った。
「そうだ! せっかくだし、作ってるところを見に行ってもいいかな?」
「厨房でございますか?」
「うん。いつも美味しいお菓子を作ってくれるし、ちょっと見てみたいなって」
エマは少し考えてから頷いた。
「お仕事の邪魔にならないようでしたら、よろしいかと」
「やった!」
そうして二人は厨房へ向かった。
扉を開けると、焼き菓子の甘い香りがふわりと漂ってきた。
「わあ、いい匂い!」
「お、お嬢様!?」
調理台の前にいた料理長が、驚いて振り返った。
「どうかなさいましたか? 何かお食事に不都合でも……」
「ううん! 今日のお菓子を作ってるところ、見てみたくて」
「お菓子を、でございますか?」
「うん。邪魔しないから、少しだけ見せてもらってもいい?」
料理長は一瞬戸惑ったものの、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「もちろんでございます。ちょうど生地を焼き上げたところですので」
調理台には、綺麗に焼き上がったタルト生地が並んでいた。
その隣には、色とりどりの果物が丁寧に切り分けられている。
「すごい! これ全部、今日のお菓子になるの?」
「はい。お嬢様のお帰りを祝って、少し華やかに仕上げようかと」
「えっ、私のために?」
「もちろんでございます」
ヴィオレッタは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう! すっごく楽しみ!」
料理長は照れくさそうに頭を下げた。
その時、ヴィオレッタの目が果物の並んだ皿に留まった。
「……ねえ、これって、私にもできるかな?」
「飾り付けでございますか?」
「うん。ちょっとだけやってみたい」
料理長はエマと顔を見合わせた。
エマは微笑みながら頷く。
「お仕事に差し支えなければ、少しだけお願いできますか?」
「かしこまりました」
ヴィオレッタは手を洗い、料理長に教わりながら果物を並べ始めた。
最初は順調だった。
赤い苺を外側に並べ、その内側に薄く切った桃を重ねる。
けれど、最後に小さな葡萄を置こうとしたところで、指先が滑った。
「あっ!」
ころん、と葡萄が転がる。
慌てて手を伸ばしたヴィオレッタの袖が、今度は隣の皿に触れそうになった。
「お嬢様!」
エマが素早く皿を支えた。
「……あ、危なかった」
「お怪我はございませんか?」
「うん、大丈夫! ごめんね、料理長」
「いいえ。何事もなくて何よりでございます」
ヴィオレッタは少し恥ずかしそうに笑った。
「やっぱり、料理って難しいんだね」
「慣れでございますよ。最初から上手にできる方ばかりではありません」
料理長はそう言って、ヴィオレッタが飾ったタルトを眺めた。
「ですが、こちらはとても可愛らしく仕上がっております」
「本当?」
「はい。お嬢様らしい、明るい飾り付けでございます」
ヴィオレッタはぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、お母様にも見せたいな!」
「もちろんでございます。お茶の時間にお出しいたしましょう」
その日の午後、イザベラは娘が飾り付けたタルトを見て大喜びし、食べる前にしばらく眺め続けていたという。
◇
**庭師と迷子のお嬢様**
午後の庭園は、夏の日差しに包まれていた。
ヴィオレッタはエマと一緒に、花壇の間をゆっくり歩いていた。
「ねえ、エマ。あっちに咲いてる青い花、前からあったっけ?」
「新しく植えられたものかもしれませんね」
「ちょっと近くで見てみたいな」
二人は小道を進み、青い花の咲く花壇へ向かった。
そこでは、庭師が花の手入れをしていた。
「こんにちは!」
「おや、お嬢様。こんにちは」
庭師は作業の手を止め、丁寧に頭を下げた。
「この花、すごく綺麗だね。何ていう名前なの?」
「デルフィニウムでございます。夏の庭を彩る花として、今年から植えております」
「デルフィニウム……」
ヴィオレッタは小さく繰り返した。
「なんだか、魔法みたいな名前だね」
「はは、そうかもしれませんな」
庭師は嬉しそうに笑った。
しばらく花の話を聞いていたヴィオレッタだったが、ふと奥に続く小道が目に入った。
「あれ? あっちにも道があるんだ」
「はい。奥の温室へ続く道でございます」
「へえ! ちょっと行ってみたいな」
「お嬢様、そちらは……」
エマが声をかけた時には、ヴィオレッタはすでに数歩先へ進んでいた。
「大丈夫! すぐ戻るから!」
そう言って角を曲がった。
そして、数分後。
「……あれ?」
ヴィオレッタは見覚えのない分かれ道の前で立ち止まっていた。
「こっちから来たんだっけ……?」
右にも左にも、よく似た花壇が続いている。
どちらも綺麗に手入れされていて、目印になりそうなものが見当たらない。
(……おかしいな。屋敷の庭なのに)
自分の家の庭で迷子になるなんて、さすがに恥ずかしい。
ヴィオレッタは少し考え、右の道へ進もうとした。
「お嬢様」
「ひゃっ!?」
背後から声をかけられ、思わず飛び上がった。
振り返ると、そこにはエマが立っていた。
「……エマ!」
「やはり、こちらにいらっしゃいましたか」
「えへへ……」
「お嬢様、今どちらへ向かわれるおつもりでした?」
「……温室?」
「そちらは反対方向でございます」
「えっ!?」
ヴィオレッタは驚いて振り返った。
「じゃあ、こっちの道は?」
「使用人用の裏庭へ続いております」
「……全然違った」
エマは小さく息をつきながらも、どこか楽しそうだった。
「お嬢様、次からはお一人で先へ進まないようお願いいたします」
「はーい……」
ヴィオレッタは素直に頷いた。
その後、庭師に案内してもらいながら、無事に温室へたどり着くことができた。
帰り道、ヴィオレッタはエマの袖をそっと掴んでいた。
「……お嬢様?」
「念のため!」
「ふふ、かしこまりました」
◇
**お母様の秘密の宝箱**
夕方。
ヴィオレッタはイザベラに呼ばれ、母の私室を訪れていた。
「お母様、入ってもいい?」
「ええ、どうぞ」
部屋に入ると、イザベラは小さな木箱を前にして座っていた。
「何してるの?」
「少し昔のものを整理していたのよ」
「昔のもの?」
「ええ。あなたが小さかった頃のものもあるわ」
その言葉に、ヴィオレッタは興味津々で近づいた。
「えっ、見たい!」
「ふふ、いいわよ」
イザベラは木箱の蓋を開けた。
中には、色褪せたリボンや小さな髪飾り、古い手紙などが丁寧にしまわれていた。
「これ、私の?」
「ええ。あなたが幼い頃に使っていたリボンよ」
「わあ……こんなの使ってたんだ」
ヴィオレッタは小さなリボンを手に取った。
淡い桃色の布地には、小さな花の刺繍が施されている。
「このリボン、あなたがとても気に入っていたの。毎朝、これを結んでほしいって言っていたわ」
「へえ……全然覚えてないなあ」
「ふふ。まだ小さかったものね」
イザベラは懐かしそうに微笑んだ。
ヴィオレッタは木箱の中を眺めながら、ふと一枚の紙に目を留めた。
「……これ、何?」
「それは……」
イザベラが少し笑った。
「あなたが初めて書いた、私へのお手紙よ」
「えっ!?」
ヴィオレッタは驚いて紙を広げた。
そこには、少し歪んだ文字で短い言葉が書かれていた。
『おかあさま だいすき』
「……わあ」
ヴィオレッタは思わず頬を赤くした。
「これ、取ってあったの?」
「もちろんよ。私の宝物だもの」
「……そんなに大事?」
「ええ。何よりも大切なものの一つよ」
イザベラは微笑みながら、紙をそっと撫でた。
「あなたが小さな手で、一生懸命書いてくれたの。嬉しくて、何度も読み返したわ」
「……そうなんだ」
ヴィオレッタは照れくさそうに笑った。
前世の記憶を取り戻す前の自分が書いた手紙。
今の自分には、その時の気持ちをはっきり思い出すことはできない。
けれど、母が大切にしてくれていたことは、十分に伝わってきた。
「……お母様」
「なあに?」
「今度、また手紙を書こうかな」
「まあ!」
イザベラはぱっと顔を輝かせた。
「本当に?」
「うん。学院からも書いてるけど、こういうのもいいかなって」
「もちろんよ!楽しみにしているわ」
その嬉しそうな表情に、ヴィオレッタも自然と笑顔になった。
イザベラは木箱を閉じると、娘の手をそっと握った。
「……ヴィオレッタ」
「うん?」
「こうして一緒に過ごせる時間が、本当に幸せだわ」
「……私もだよ、お母様」
ヴィオレッタは微笑み、母の手を握り返した。
窓の外では、夕陽が庭園を柔らかく照らしている。
夏休みは、まだ始まったばかり。
学院では味わえない、家族や屋敷の人々との穏やかな時間が、これからも続いていくのだった。




