第78話 お嬢様のいる夏
アルバレス公爵家の屋敷では、夏休みに入ってから少しだけ変わったことがある。
朝の廊下に明るい声が響くようになったこと。庭園を歩けば、花の名前を尋ねる声が聞こえてくること。そして、使用人たちが仕事の合間に、以前より楽しそうに笑うようになったことだ。
その理由を、屋敷の者たちはよく知っていた。
学院から、ヴィオレッタお嬢様が帰ってきたのである。
◇
**侍女たちの午後**
「エマさん、少しよろしいでしょうか」
午後の洗濯物を片づけていたエマに、若い侍女が声をかけた。
「どうしました?」
「お嬢様のお部屋にお届けする衣装なのですが、こちらでよろしいでしょうか」
差し出されたのは、淡い水色の夏用ドレスだった。薄い生地に控えめな刺繍が施され、袖口には小さな白いリボンが結ばれている。
「ええ、こちらで大丈夫です。お嬢様も気に入られると思いますよ」
「よかった……実は、少し心配だったんです」
「心配?」
若い侍女は、周囲を確かめるようにしてから声を落とした。
「私、お嬢様が学院へ入られる少し前にこちらへ参りましたので、まだお好みをよく知らなくて」
「そうでしたね」
「以前は、衣装の色や飾りにも厳しい方だったと伺っていたものですから」
エマは一瞬だけ目を瞬かせ、それから穏やかに微笑んだ。
「今のお嬢様は、よほどのことがなければ怒ったりなさいませんよ。むしろ、選んでくれたことを喜ばれると思います」
「そうでしょうか」
「ええ。少しお話ししてみれば、すぐに分かります」
その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
「あっ、エマ! ここにいたんだ!」
「お嬢様。どうなさいました?」
「さっき部屋に戻ったらいなかったから、探してたの。……あれ、そのドレス?」
ヴィオレッタは侍女の腕に掛けられた衣装を見つけ、ぱっと顔を輝かせた。
「わあ、可愛い! 袖のリボン、すごくいいね」
「あ、ありがとうございます、お嬢様」
「これ、誰が選んでくれたの?」
「わ、私でございます」
「そうなんだ! ありがとう。こういう色、好きなんだ」
若い侍女の表情が、目に見えて明るくなった。
「お気に召していただけて、何よりでございます」
「うん! 今度のお茶の時間に着ようかな」
ヴィオレッタはそう言ってから、ふと思い出したようにエマへ向き直った。
「そうだ、エマ。予定表に書いた読書の時間って、今日だったっけ?」
「明日でございます」
「あれ、そうだった? じゃあ今日は何の日?」
「本日は特に予定を入れておりませんよ」
「……そっか! じゃあ、のんびりできるね」
嬉しそうに笑って去っていくヴィオレッタを、若い侍女はしばらく見送っていた。
「……本当に、お優しい方なんですね」
「ええ」
エマは微笑んだ。
「少しばかり、うっかりされることはございますけれど」
その言葉に、若い侍女も思わず笑った。
◇
**料理長の新作**
厨房では、料理長が一枚の紙を前にして難しい顔をしていた。
そこには、新しい夏の菓子の試作案がいくつも書き込まれている。
「うーむ……」
「料理長、どうかなさったんです?」
若い料理人が尋ねると、料理長は腕を組んだ。
「お嬢様がお帰りになったことだし、何か新しい菓子をお出ししたいと思ってな」
「それなら、先日の果物のタルトも随分と喜んでいらっしゃいましたよ」
「ああ。だが、せっかくの夏休みだ。いつもと違うものも召し上がっていただきたい」
料理長は真剣だった。
長年この屋敷に仕えてきた彼にとって、ヴィオレッタは幼い頃から知っている大切なお嬢様である。
昔は好き嫌いが多く、料理を残してしまうこともあった。
けれど今では、食事のたびに感想を伝え、厨房の者たちにまで礼を言ってくれる。
その変化が、料理長には何より嬉しかった。
「……よし。冷たい菓子にしよう」
「冷たい菓子、ですか?」
「ああ。果実を使った、夏らしいものだ」
そうして試作が始まった。
果汁を使ったゼリーに、柔らかなクリームを重ね、上には小さく切った果物を飾る。
見た目にも涼しげな一品が完成した頃、厨房の扉が控えめに開いた。
「こんにちはー!」
「お、お嬢様!?」
料理長は思わず背筋を伸ばした。
「また来ちゃった。邪魔だった?」
「いいえ、とんでもございません!」
「よかった。なんだか甘い匂いがしたから、つい」
ヴィオレッタは調理台に並んだ器を見つけ、興味津々で覗き込んだ。
「わあ、綺麗! これ、新しいお菓子?」
「はい。ちょうど試作していたところでございます」
「へえ……美味しそう」
料理長は少し考え、まだ仕上げていない小さな器を一つ取り出した。
「もしよろしければ、お味を見ていただけますか?」
「えっ、いいの?」
「もちろんでございます」
ヴィオレッタは嬉しそうにスプーンを受け取り、一口食べた。
ひんやりとした甘さが口の中に広がり、果物の爽やかな香りが鼻を抜ける。
「……美味しい!」
その一言に、料理長の表情がほころんだ。
「ありがとうございます」
「でも、ちょっとだけ酸っぱいかも」
「酸味が強すぎますか?」
「ううん、私は好きだよ。ただ、お母様はもう少し甘い方が好きかもしれないなって」
料理長は目を丸くした。
「なるほど……奥様のお好みも考えてくださったのですね」
「だって、せっかくなら一緒に食べたいもん」
ヴィオレッタは何でもないことのように笑った。
料理長はしばらくその顔を見つめ、それから深く頷いた。
「かしこまりました。では、奥様にも喜んでいただけるよう、少し工夫してみましょう」
「うん! 楽しみにしてるね」
ヴィオレッタが去った後、若い料理人が小さく笑った。
「料理長、ずいぶん嬉しそうですね」
「……そう見えるか?」
「はい」
料理長は咳払いをして、再び試作案へ向き直った。
「ならば、なおさら良いものを作らねばな」
その日の厨房は、いつもより少しだけ活気に満ちていた。
◇
**執事の小さな心配**
夕方の書斎では、アルバレス家に長く仕える執事長セバスティアンが、翌日の予定を確認していた。
夏の夜会に向けた準備も少しずつ始まっており、屋敷の中は普段より忙しくなりつつある。
そこへ、控えめなノックが響いた。
「どうぞ」
「失礼します!」
扉を開けたのは、ヴィオレッタだった。
「お嬢様。いかがなさいましたか?」
「セバスティアンー、ちょっと聞きたいことがあって」
「何でございましょう」
ヴィオレッタは一枚の紙を差し出した。
「夏休みの予定表を作ったんだけど、夜会の準備って、私にも手伝えることあるかな?」
紙には、丁寧な文字で夏休みの予定が書き込まれている。
ただし、ところどころに可愛らしい花や兎の絵が描かれていた。
「……これは、お嬢様がお作りに?」
「うん! エマに手伝ってもらったけどね」
「大変よくまとまっておりますね」
「えへへ、ありがとう」
予定表を眺めながら、静かに微笑んだ。
幼い頃のヴィオレッタは、屋敷の仕事に興味を示すことなどほとんどなかった。
それが今では、自分から手伝えることを探している。
「そうでございますね……では、招待客をお迎えするお部屋の確認をお願いしてはいかがでしょう」
「お部屋の確認?」
「はい。お客様に気持ちよくお過ごしいただくため、花の飾り方や家具の配置などを、奥様とご相談いただければと思います」
「それなら、私にもできそう!」
「もちろん、難しい判断は私どもがいたしますので」
「うん。じゃあ、明日お母様にも聞いてみるね」
ヴィオレッタは嬉しそうに頷いた。
ふと、予定表の隅に書かれた小さな文字に気づいた。
『おやつの時間』
「……お嬢様」
「ん?」
「こちらの予定は、毎日必要なのでしょうか?」
ヴィオレッタは一瞬きょとんとした後、真剣な顔で頷いた。
「もちろん! 大事な予定だよ」
「……さようでございますか」
「だって、お母様とお茶する時間もあるし、エマと休憩する時間も必要でしょ?」
その答えに、思わず目を細めた。
「……なるほど。それは確かに、大切な時間でございますね」
「でしょ?」
ヴィオレッタは満足そうに笑った。
その後、予定表を返し、翌日の確認事項を簡単に説明した。
「ありがとう! じゃあ、また明日ね」
「はい。お待ちしております」
ヴィオレッタが部屋を出ていくと、しばらく扉を見つめていた。
昔は、あの小さな背中を見送るたびに、何か問題が起きないかと気を揉んでいたものだ。
けれど今は、少し違う。
もちろん、心配がなくなったわけではない。屋敷の庭で迷子になったという話も、すでに耳に入っている。
それでも、こうして自分から誰かのために動こうとする姿を見ると、嬉しくなる。
「……本当に、ご立派になられましたな」
小さく呟き、再び書類へ視線を戻した。
窓の外では、夕陽が屋敷の庭を柔らかく染めている。
お嬢様が帰ってきた夏。
アルバレス公爵家では、今日も穏やかで、少しだけ賑やかな時間が流れていた。




