第75話 夏休み前の約束
夏休みを翌日に控えたフィオラ女学院は、朝からどこか落ち着かない雰囲気に包まれていた。
廊下では帰省の予定を話し合う生徒たちが行き交い、教室のあちらこちらからも休暇を楽しみにする声が聞こえてくる。普段なら授業が始まる前に教科書を開いている生徒まで、今日は友人とのおしゃべりに夢中になっていた。
「ヴィオレッタ様、もう荷造りは終わりましたか?」
隣の席から声をかけてきたアリアに、ヴィオレッタは胸を張って頷いた。
「もちろん! 昨日のうちに全部終わったよ」
「それは素晴らしいですね」
「……まあ、ほとんどエマがやってくれたんだけど」
「でしょうね」
「ちょっと、そこは驚いてよ!」
アリアは口元を押さえて笑った。
「失礼しました。でも、ヴィオレッタ様がお一人で荷造りを終えたと聞いたら、少し心配になりますので」
「どうして!?」
「必要なものまで全部置いていきそうですから」
「……否定できないのが悔しい」
「ふふ。でも、エマさんがご一緒なら安心ですね」
後ろの席からリリアーナが声をかけてきた。
「リリまで!」
「い、いえ、そういう意味では……!」
慌てて弁解しようとするリリアーナを見て、ヴィオレッタは思わず笑ってしまった。
「冗談だよ。私もエマがいてくれて助かってるし」
「それならよかったです」
リリアーナもほっとしたように微笑んだ。
そこへ担任教師が入ってきたため、三人は会話を切り上げ、それぞれの席へ戻った。
◇
午前の授業が終わると、ヴィオレッタはアリアとリリアーナを誘って食堂へ向かった。
「夏休みの課題、思ったより多かったね」
ヴィオレッタがぼやくと、リリアーナが頷いた。
「そうですね。でも、少しずつ進めれば大丈夫だと思います」
「リリはもう計画立ててる?」
「はい。帰省して最初の数日は家族と過ごしたいので、その後から始めようかと」
「……もう考えてるんだ」
「ヴィオレッタ様は?」
「えーっと、これから考えます」
アリアが隣で小さくため息をついた。
「ヴィオレッタ様、昨日いただいた課題の一覧表は確認されましたか?」
「……もちろん!」
「では、歴史の課題は何でした?」
「……歴史?」
「はい」
「……アリア、意地悪!」
「確認しただけですよ」
アリアが涼しい顔で答えると、リリアーナがくすくすと笑った。
そんなやり取りをしながら食堂に入ると、窓際の席からセレスが手を振っていた。
「あ、来た来た! こっちだよ!」
「セレス! 席取っててくれたんだ」
「うん。今日は混みそうだったからね」
「ありがとう!」
三人はセレスの待つ席へ向かい、昼食を取り始めた。
「そういえば、ヴィオレッタ」
セレスが声をかけた。
「お屋敷への招待、日程は決まりそう?」
「まだなんだ。母様からは大歓迎って返事が来たんだけど、みんなの予定を聞いてから決めようと思って」
「そっか。私は休暇の後半なら大丈夫だと思うよ」
「私も、後半でしたら都合がつきそうです」
リリアーナが答える。
「アリアは?」
ヴィオレッタが尋ねると、アリアは少し考えた。
「家の仕事次第ですが、数日でしたらお休みをいただけると思います」
「ほんと? じゃあ、ぜひ来てね!」
「ありがとうございます」
「カトレアにも後半なら大丈夫そうって言われたし、ちょうどいいかも」
ヴィオレッタは嬉しそうに笑った。
その時、セレスがふと思い出したように言った。
「そういえば、夏休み中に剣術の稽古をするって話、どうなったの?」
「ああ、カトレアとセレスの試合を見たいってやつ?」
「そうそう」
「もちろん覚えてるよ! 楽しみにしてるんだから」
「じゃあ、ヴィオレッタも少しは練習しない?」
「……えっ?」
ヴィオレッタは固まった。
「ほら、せっかくだし。基本だけでも覚えておけば、見てる時にもっと楽しめると思うよ」
「……見学だけじゃ駄目?」
「駄目とは言わないけど」
セレスは、にやりと笑った。
「カトレアに教えてもらえるかもしれないよ?」
「……うーん」
ヴィオレッタは少し考えた。
確かに、カトレアの剣術は見ていて格好いい。
それに、せっかくの夏休みだし、普段やらないことに挑戦するのも悪くないかもしれない。
「……じゃあ、ちょっとだけなら」
「本当!?」
セレスが目を輝かせた。
「やった! じゃあ楽しみにしてるね」
「……なんか、すごく嬉しそうだね」
「だって、ヴィオレッタが自分から稽古するなんて珍しいから」
「……そういうこと言わないでよ」
リリアーナがくすくすと笑った。
「私も、皆さんの稽古を見学したいです」
「リリも一緒にやろうよ!」
ヴィオレッタが言うと、リリアーナは慌てて首を振った。
「わ、私は見学で十分です!」
「ええ、リリまで!?」
「ふふ。申し訳ありません」
そんなやり取りをしながら、四人はしばらく昼食を楽しんだ。
◇
昼食を終えて教室に戻る途中、ヴィオレッタは鞄の中から一枚の紙を取り出した。
「そういえば、課題のことなんだけど」
「はい?」
アリアが振り返る。
「アリアって、もう計画立ててるんだよね?」
「ええ。一応、予定表は作りましたよ」
「……見せてもらってもいい?」
「もちろん構いませんが、ヴィオレッタ様もご自分の予定に合わせて調整してくださいね」
アリアは鞄から手帳を取り出し、綺麗にまとめられた予定表を見せてくれた。
「すごい……!」
ヴィオレッタは思わず声を上げた。
「これ、何日目に何をやるか全部決めてるの?」
「はい。最初に大まかな予定を立てておくと、後が楽になりますから」
「なるほど……」
ヴィオレッタは真剣な顔で頷いた。
「じゃあ、最初の三日くらいは休んでもいいかな?」
「それは計画ではなく、先延ばしです」
「厳しい!」
アリアが笑い、リリアーナも口元を押さえて微笑んだ。
「でも、こうして予定を立てるのは大切ですよね」
「そうですね」
アリアが頷く。
「最初から無理な計画を立てると、結局続きませんから」
「……分かった。帰ったらちゃんと考える!」
「期待していますよ」
「……なんか、先生みたい」
「私は先生ではありません」
三人は顔を見合わせて笑いながら、教室へ戻った。
◇
放課後。
ヴィオレッタは寮へ戻る途中、廊下でカトレアと出会った。
「やあ、ヴィオレッタ。帰るところかい?」
「うん! カトレアは?」
「僕もこれから寮に戻るところだよ。明日には実家へ帰るから、荷物をまとめておかないとね」
「そっか。カトレアも明日なんだ」
二人は並んで廊下を歩き始めた。
「そういえば、夏休みの招待のことなんだけど」
「うん?」
「みんなの予定を聞いたら、休暇の後半がよさそうなんだ」
「それなら、僕も都合がつくと思うよ」
「よかった!」
ヴィオレッタは嬉しそうに笑った。
「あとね、セレスが夏休みに剣術の稽古をしようって言ってて」
「へえ、いいね」
「それで、私もちょっとだけ参加することになっちゃった」
「……なっちゃった?」
カトレアが不思議そうに首を傾げる。
「いや、嫌ってわけじゃないんだけどね。セレスがすごく嬉しそうだったから、断れなくて」
「ふふ。セレスらしいね」
カトレアは柔らかく笑った。
「でも、ヴィオレッタが興味を持ってくれたなら、僕も嬉しいな」
「ほんと?」
「もちろん。無理のない範囲で、一緒にやってみようか」
「……うん! よろしくね」
「こちらこそ」
カトレアは微笑んだ。
その笑顔を見ていると、ヴィオレッタも少し楽しみになってきた。
剣術は得意ではないけれど、友人たちと一緒なら、きっと面白い経験になるだろう。
◇
夕方、寮の自室に戻ると、エマが最後の荷物をまとめていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま!」
「明日の出発の準備は、ほぼ整いました。あとはお嬢様のお手回り品だけでございます」
「ありがとう、エマ!」
ヴィオレッタは鞄を置き、窓際の椅子に腰を下ろした。
窓の外には、夕暮れに染まる学院の庭が広がっている。
入学してから、あっという間だった。
最初は慣れないことばかりで、授業についていくのも大変だったけれど、今では学院での生活がすっかり日常になっている。
「……なんか、ちょっと寂しいな」
ヴィオレッタが呟くと、エマが振り返った。
「学院を離れるのが、ですか?」
「うん。夏休みは楽しみなんだけど、みんなと毎日会えなくなるのは寂しいなって」
「それだけ、学院での生活が充実していらしたということでしょうね」
「……そうかも」
ヴィオレッタは小さく笑った。
「でも、夏休み中にみんなを招待する予定だから、すぐ会えるんだけどね」
「ふふ。それなら、楽しみが増えましたね」
「うん!」
ヴィオレッタは頷き、窓の外を眺めた。
明日から、夏休み。
久しぶりに帰るアルバレス家。
母イザベラとの再会。
友人たちとの約束。
そして、夏の夜会。
(……そういえば、破滅フラグのこともあったんだよね)
昨日思い出した前世の記憶が、ふと頭をよぎった。
けれど、今の自分は、かつてゲームで見た悪役令嬢とは違う。
アリアに嫌味を言うつもりもないし、誰かを傷つけるようなこともしたくない。
(……うん。きっと大丈夫)
そう自分に言い聞かせ、ヴィオレッタは小さく息を吐いた。
「……よし!」
勢いよく立ち上がると、エマが不思議そうに首を傾げた。
「どうなさいました?」
「夏休み、いっぱい楽しもうと思って!」
「それはようございました」
エマは微笑んだ。
「では、その前に明日の出発時間をご確認くださいませ」
「……あっ、そうだった」
ヴィオレッタが慌てて机に向かうと、エマは楽しそうに笑った。
こうして、フィオラ女学院での初めての学期が終わりを迎えた。
明日から始まる夏休みが、どんな思い出を運んでくるのか。
ヴィオレッタは、まだ何も知らない。
ただ、今はその始まりを心から楽しみにしていた。




