第74話 忘れていた破滅フラグ
夏休みまで、あと三日。
フィオラ女学院の寮では、帰省を控えた生徒たちが少しずつ荷造りを始めていた。
「エマ、この本も持って帰っていいかな?」
ヴィオレッタが机の上から一冊の本を持ち上げると、衣装箱の中身を確認していたエマが振り返った。
「そちらは図書室からお借りになった本ではありませんか?」
「うん。帰ってからゆっくり読もうかなって」
「返却期限は明日だったかと存じますが」
「……あ」
裏表紙の貸出票を確かめると、確かに返却日は明日になっている。ヴィオレッタは本をそっと机に戻し、何事もなかったようにエマへ笑いかけた。
「危なかったね。教えてくれてありがとう!」
「先月も同じことがございましたね」
「……よく覚えてるね」
「お嬢様のことですから」
「それ、どういう意味?」
問いかけてもエマは微笑むばかりで、ヴィオレッタは追及するのを諦めた。
代わりに机の下から小さな木箱を取り出し、蓋を開ける。
中に入っているのは、手芸展示会で作った白い兎の人形だった。ピンクのリボンを結んだ姿は少し不格好だけれど、自分で作ったと思うと不思議と可愛く見えてくる。
「これは絶対に持って帰りたいな。母様にも見せたいし」
「かしこまりました。潰れないよう、別のお箱にお入れしましょう」
「お願い! あ、でもあんまり厳重にしなくてもいいよ。すぐ見せたいから」
「では、お屋敷に到着したら取り出しやすいようにしておきますね」
「さすがエマ!」
ヴィオレッタが親指を立てると、エマは少し困ったように笑った。
帰省の準備は着々と進んでいる。
久しぶりに会う母イザベラや屋敷の使用人たちに、学院であったことを話すのも楽しみだった。友人たちを招待する計画もあるし、夏休みはきっと賑やかになるだろう。
「そういえば、母様からのお返事はまだかな?」
「今朝、お屋敷から使いの者が到着したと伺っています。お手紙があれば、今日中に届くかもしれません」
「ほんと? じゃあ、帰ってきたら確認しようっと」
「その前に、明日の授業のご準備をお願いいたします」
「……はーい」
エマが差し出した教科書を受け取り、ヴィオレッタは大人しく机へ向かった。
◇
翌日の昼休み。
ヴィオレッタは食堂の椅子に腰を下ろすなり、長々と息を吐いた。
「終わったあ……」
「そんなに大変だったの?」
向かいに座るセレスが笑いながら尋ねる。
「最後の問題が全然分からなかったの。あと少しで解けそうだったのに、時間切れになっちゃって」
「最後って、あの計算問題?」
「そう、それ!」
「途中の条件を整理すると、意外と簡単だったよ」
「……セレスまでそんなこと言う」
「えっ、私、何か変なこと言った?」
「アリアにも同じこと言われたんだよね。二人とも簡単そうに言うんだから」
ヴィオレッタが頬を膨らませると、セレスは楽しそうに笑った。
「じゃあ、後で一緒に解いてみようか」
「もう試験終わったんだけど?」
「だからこそ、今度は時間を気にしなくていいでしょ」
「うう……正論だ」
隣に座っていたリリアーナが、くすくすと笑う。
「ヴィオレッタ様、私も最後の問題は少し迷いました。途中で計算を間違えてしまって、やり直したんです」
「リリも? よかった、仲間がいた!」
「仲間って、そういうことじゃないと思うけど」
セレスの言葉に、三人は顔を見合わせて笑った。
そこへ、昼食を持ったアリアがやってくる。
「皆さん、こんにちは。こちら、よろしいですか?」
「もちろん! ちょうどアリアの話をしてたんだ」
「私の?」
「試験の最後の問題、簡単だったって」
「簡単とまでは言っていませんよ。条件を整理すれば解けると申し上げただけです」
「ほら、セレスと同じ!」
アリアは不思議そうにセレスを見て、それから小さく笑った。
「それなら、放課後に解き方を確認してみますか?」
「えっ、二人がかり?」
「ヴィオレッタ様が納得されるまで、お付き合いしますよ」
「……なんか逃げられない雰囲気になってきた」
「いいことじゃない」
セレスが涼しい顔で果実水を飲む。
ヴィオレッタは観念して、目の前の昼食に手を伸ばした。
ひとしきり試験の話をしたところで、リリアーナが鞄から小さな手帳を取り出した。
「そういえば、夏休みの予定なのですが」
「あっ、そうだった!」
ヴィオレッタは顔を上げた。
「母様にみんなを招待したいって手紙を出したんだ。返事はまだだけど、きっと大丈夫だと思う」
「私、今から楽しみ」
セレスが笑う。
「ヴィオレッタのお屋敷に行くの、久しぶりだしね」
「うん! 庭も広いから、みんなで散歩したいな」
「お庭ですか……」
リリアーナが嬉しそうに目を細めた。
「以前伺った時も、お花がとても綺麗でした」
「夏だとまた雰囲気が違うと思うよ。母様が新しい花を植えたって手紙に書いてたし」
「それは楽しみです」
ヴィオレッタは、そこでアリアの方を向いた。
「アリアも、よかったら来ない?」
「私もですか?」
「うん。せっかくだし、みんなで遊びたいなって」
アリアは少し驚いた顔をしたものの、すぐに微笑んだ。
「ありがとうございます。ただ、休暇中は家の仕事を手伝う予定なので、日程によっては難しいかもしれません」
「そっか。じゃあ、予定が合ったらでいいよ!」
「はい。その時はぜひ」
「よし、決まり!」
「まだ日程は決まってないけどね」
セレスに指摘され、ヴィオレッタは笑った。
「細かいことはこれから!」
「そういうところ、変わらないなあ」
「褒め言葉として受け取っておくね」
「褒めてないよ?」
四人の笑い声が、賑やかな食堂に溶けていった。
◇
放課後、ヴィオレッタとセレスは訓練場へ向かっていた。
カトレアにも夏休みの招待について話しておこうと思ったのだ。
「それにしても、今日は本当に暑いね」
ヴィオレッタが手で顔を扇ぐと、セレスが隣で頷いた。
「訓練場はもっと暑いと思うよ。あそこ、日差しを遮るものが少ないから」
「カトレア、よくこんな日に稽古できるなあ」
「好きなんでしょ。私だって、時間があれば剣を振りたいくらいだし」
「セレスも十分すごいと思う」
「ヴィオレッタも一緒にやる?」
「私は見学専門でお願いします」
即答すると、セレスが吹き出した。
訓練場に着くと、ちょうど稽古が終わったところだったらしい。木剣を片付ける生徒たちの中にカトレアの姿を見つけ、ヴィオレッタは大きく手を振った。
「カトレア!」
「やあ、ヴィオレッタ。セレスも来ていたんだね」
カトレアは木剣を棚に戻すと、二人のもとへ歩いてきた。
「今日はどうしたんだい?」
「夏休みのことで相談があるんだ」
「夏休み?」
「うん。休みの途中で、みんなをうちに招待しようと思ってるの。カトレアも来てくれない?」
カトレアは一瞬目を丸くし、それから嬉しそうに微笑んだ。
「もちろん。ぜひ参加させてもらいたいな」
「やった!」
「ただ、休暇の前半は兄たちと稽古をする約束があってね。日程が決まったら教えてもらえるかい?」
「お兄さんたちと?」
「うん。久しぶりに顔を合わせるから、手合わせをしようという話になっているんだ」
「へえ、楽しそう!」
「……僕としては、少し気が重いところもあるけれどね」
カトレアが苦笑する。
「どうして?」
「兄たちは、僕が一本取るまで終わらせてくれないことがあるんだ。昔からそういうところがあってね」
「えっ、カトレアでも大変なの?」
ヴィオレッタが驚くと、セレスが興味深そうに身を乗り出した。
「それ、私も見てみたいな」
「セレスまで?」
「だって、カトレアが苦戦する相手なんて滅多に見られないでしょ」
「……君は本当に剣の話になると楽しそうだね」
「カトレアだってそうじゃない」
二人が顔を見合わせて笑う。
ヴィオレッタは、そんな様子を眺めながら、ふと思いついた。
「じゃあ、みんなが来た時にも稽古する?」
「えっ、ヴィオレッタも参加するの?」
セレスが驚いた顔をした。
「いや、私は見学だけど」
「やっぱり」
「でも、カトレアとセレスの試合は見たいな!」
「それなら、僕も楽しみだよ」
カトレアが微笑む。
しばらく休暇の予定を話していると、カトレアが何かを思い出したように口を開いた。
「そういえば、ヴィオレッタ。アルバレス家では、今年も夏の夜会を開くのかな?」
「夏の夜会?」
「毎年、夏の終わり頃に開かれているだろう? 去年は僕も家族と一緒に招待されたんだ」
「ああ、そういえば……」
ヴィオレッタは何気なく頷きかけて、ふと動きを止めた。
夏の夜会。
アルバレス公爵家で開かれる、貴族たちの集まり。
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥で何かが引っかかった。
(……あれ?)
「ヴィオレッタ?」
セレスが不思議そうに顔を覗き込む。
「あ、うん! たぶん今年もあると思うよ。まだ詳しくは聞いてないけど」
「そうか。もし開催されるなら、また招待状が届くかもしれないね」
「うん、そうだね」
ヴィオレッタは笑って答えたものの、心の中では別のことを考えていた。
(夏の夜会って、もしかして……)
思い当たるものがある。
しかも、かなり重要な何かだった気がする。
けれど、今ここで考え込むわけにもいかない。
「どうかしたのかい?」
カトレアに尋ねられ、ヴィオレッタは慌てて首を振った。
「ううん、なんでもない! ちょっと思い出しかけたことがあって」
「そうかい?」
「うん。大丈夫!」
そう答えて話を続けたものの、胸の奥に残った違和感は、なかなか消えてくれなかった。
◇
その夜、ヴィオレッタは寮の自室で机に向かっていた。
エマは隣の部屋で帰省の荷物を確認している。
机の上には、母イザベラから届いたばかりの手紙が広げられていた。
『ヴィオレッタへ
もうすぐ帰ってくるのね。あなたに会える日を、今から指折り数えて待っています。
お友達を招待したいというお話も、もちろん大歓迎よ。皆さんのご都合が分かったら教えてちょうだい。
それから、今年も夏の夜会を開く予定です。あなたにも少しお手伝いしてもらえたら嬉しいわ。
帰ってきたら、たくさんお話をしましょうね。
母より』
「……やっぱり、夜会かあ」
ヴィオレッタは手紙を置き、椅子の背にもたれた。
昼間からずっと気になっていた言葉を、もう一度頭の中で繰り返してみる。
アルバレス家の夏の夜会。
その響きには、確かに覚えがあった。
(……待って。これ、前世でプレイしたゲームに出てこなかった?)
そう考えた途端、記憶の奥に眠っていた光景が、少しずつ輪郭を取り戻し始めた。
華やかな広間に、きらびやかな衣装をまとった貴族たち。
豪華な料理が並ぶテーブルと、優雅に流れる音楽。
そして、その会場でひときわ目立っていた、気位の高い公爵令嬢。
(……いた。いたよ、悪役令嬢のヴィオレッタ!)
前世でプレイした本編ゲーム。
そこには、アルバレス公爵家が主催する夏の夜会が登場していた。
そして、その夜会で悪役令嬢ヴィオレッタが嫌味を言っていた相手は、アリア・フォスターだった。
(……そうだ、アリアだ!)
今では同じ学院に通い、昼食を一緒に食べることもある友人。
そのアリアに対して、ゲームのヴィオレッタは平民出身であることを持ち出し、貴族の集まる場にふさわしくないと嫌味を言っていた。
前世でその場面を見た時は、なんて嫌な令嬢なんだろうと思ったものだ。
(……いや、今の私じゃん!)
ヴィオレッタは、思わず両手で顔を覆った。
八歳の頃に前世の記憶を取り戻して以来、破滅を避けるために自分の振る舞いを改めてきた。
使用人たちとの関係を見直し、周囲の人々と少しずつ信頼を築いてきた。
学院に入学してからは、毎日が驚くほど楽しくて、気づけば自分が悪役令嬢だったことすら意識しなくなっていたのだ。
(平和すぎて完全に忘れてた……!)
けれど、そこで別の疑問が浮かんだ。
(……でも、ちょっと待って)
自分が知っているのは、あくまで前世でプレイした本編ゲームの内容だ。
今いる世界は、その本編から派生した、女の子たちを攻略するスピンオフ作品。
本編とは登場人物も違い、そもそも物語の中心になる人物や関係性からして異なっている。
肝心のスピンオフのシナリオについては、ヴィオレッタはほとんど知識がなかった。
(本編にあった夜会が、こっちでも同じように進むとは限らないんだよね)
それに、今の自分はゲームに登場したヴィオレッタとは随分違う。
アリアに嫌味を言うつもりなんてないし、むしろ夏休みには屋敷に招待したいと考えているくらいだ。
(……うん。そう考えれば、あのイベントはもう起きないんじゃないかな)
少し安心しかけたところで、ヴィオレッタは眉を寄せた。
(でも、スピンオフの方で別のイベントが用意されてたら?)
知らないということは、何が起こるか分からないということでもある。
しかも、前世のゲームでは自分は悪役令嬢だった。
この世界でも、何らかの役割を与えられている可能性は十分にある。
(……あれ? 結局、何に気をつければいいの?)
ヴィオレッタは、机に突っ伏した。
「……難易度高すぎない?」
「何の難易度ですか?」
「ひゃっ!?」
顔を上げると、いつの間にかエマが扉のところに立っていた。
「お、おかえり、エマ」
「ただいま戻りました。お嬢様、何かお困りですか?」
「ううん、ちょっと考え事してただけ」
「そうでしたか。お茶をお持ちしましたので、少し休憩なさってはいかがでしょう」
「ありがとう。ちょうど喉が渇いてたんだ」
エマは温かいお茶を机に置くと、広げられた手紙に目を向けた。
「奥様からのお返事ですね」
「うん。友達を招待してもいいって!」
「それはようございました。お嬢様が皆様とお過ごしになるのを、奥様も楽しみにしていらっしゃるでしょうね」
「そうだといいな」
ヴィオレッタはカップを手に取り、ゆっくりとお茶を飲んだ。
優しい香りが広がり、少しだけ気持ちが落ち着いてくる。
「……エマ」
「はい」
「夏の夜会って、今年もやるんだよね」
「そのようですね。奥様から、準備についてのお話も伺っております」
「そっかあ」
ヴィオレッタは、カップを置いた。
「私も何か手伝えるかな?」
「もちろんでございます。お嬢様がご協力くだされば、奥様もお喜びになると思いますよ」
「じゃあ、帰ったら聞いてみようかな」
「はい」
エマは微笑み、空になった荷物箱を片付け始めた。
ヴィオレッタは、もう一度母の手紙に目を落とす。
夏の夜会。
本編ゲームにも登場した、あの華やかな催し。
自分が知っている展開が再現されるのか、それとも全く違う出来事が待っているのかは分からない。
けれど、ひとつだけ決めたことがあった。
(……とりあえず、アリアには絶対に嫌味を言わないようにしよう)
そう決意したところで、ヴィオレッタは思わず苦笑した。
(……いや、そもそも言うつもりなんてないんだけどね)
それなら、今の自分にもできるはずだ。
そう思うと、不思議と少し気が楽になった。
「よし!」
ヴィオレッタは勢いよく立ち上がった。
「まずは夏休みを楽しもう!」
「お嬢様?」
「いや、こっちの話!」
エマが不思議そうに首を傾げる。
ヴィオレッタは笑ってごまかしながら、窓の外へ目を向けた。
学院の庭には夕闇が降り始め、木々の間を涼しい風が吹き抜けている。
帰省まで、あと少し。
久しぶりに会う家族も、友人たちとの約束も、今から楽しみで仕方がない。
そこに少しだけ、前世の記憶から生まれた不安が加わった。
けれど、ヴィオレッタはまだ知らなかった。
今年の夏の夜会が、かつてプレイした本編ゲームとは違う形で、思いがけない出会いを運んでくることを。




