第73話 夏休みまで、あと少し
フィオラ女学院の夏は、思っていたよりも暑かった。
高い天井に大きな窓。風通しのよい造りのおかげで、教室の中は比較的涼しい。それでも、午後の日差しが差し込む時間になると、窓際の席にはじんわりと熱がこもる。
ヴィオレッタは教科書の端を押さえながら、窓の外を眺めていた。
中庭の木々は青々と茂り、噴水の水面が太陽の光を受けてきらきらと輝いている。
(……暑そう)
窓の外を眺めるだけで、なんだか喉が渇いてくる。
「アルバレスさん」
「はいっ!」
突然名前を呼ばれ、ヴィオレッタは慌てて背筋を伸ばした。
教壇に立つ教師が、こちらを見ている。
「今説明した箇所を、もう一度読んでもらえますか?」
「……ええと」
ヴィオレッタは教科書に視線を落とした。
どこだろう。
少なくとも、今開いているページではない気がする。
隣の席から、小さな紙片がすっと差し出された。
『四十二頁、三段落目』
アリアの整った文字だった。
「四十二頁の三段落目ですね!」
ヴィオレッタが勢いよく答えると、教師は少しだけ眉を上げた。
「……そうです。では、お願いします」
何とか読み終えたところで、授業終了の鐘が鳴った。
ヴィオレッタは、ほっと息を吐いた。
「……助かったあ」
「窓の外ばかり見ているからですよ」
アリアが教科書を閉じながら言った。
「だって、暑そうだったんだもん」
「暑そうなのは分かりますけど、授業とは関係ありませんよね」
「……はい」
ヴィオレッタが素直に頷くと、アリアは小さく笑った。
「まあ、今日はいつもより暑いですからね」
「でしょ?」
「だからといって、次も助けられるとは限りませんよ」
「うっ……気をつけます」
アリアは満足そうに頷いた。
その時、教室の後ろから楽しそうな声が聞こえてきた。
「あと五日ですわね!」
「ええ、待ち遠しいですわ!」
ヴィオレッタは、そちらへ顔を向けた。
「……あと五日?」
「夏休みですよ」
アリアが答えた。
「来週から、長期休暇に入ります」
「あっ、そっか!」
ヴィオレッタは、ぱっと顔を輝かせた。
「もうそんな時期なんだね!」
「……今さらですか?」
「いや、知ってたよ? 知ってたけど、改めて聞くと嬉しくて!」
アリアは、何か言いたそうにヴィオレッタを見た。
けれど、結局何も言わずに微笑んだ。
◇
昼休み。
食堂へ向かう途中、ヴィオレッタは廊下の向こうに見慣れた金髪を見つけた。
「あ、セレス!」
声をかけると、セレスティアが振り返った。
「ヴィオレッタ! ちょうどよかった」
「どうしたの?」
「昼、一緒に食べない?」
「もちろん!」
セレスティアは、隣にいたリリアーナにも声をかけた。
「リリも一緒でいいよね?」
「はい。ありがとうございます」
三人は食堂へ向かった。
昼食を受け取り、窓際の席に腰を下ろす。
ヴィオレッタは、目の前の冷たい果実水を一口飲んで、満足そうに息を吐いた。
「はあ、生き返る……」
「大げさだなあ」
セレスティアが笑った。
「だって、今日暑くない?」
「まあ、暑いけどね」
「さっきなんて、授業中に窓の外見てたら先生に当てられちゃって」
「……何してるの?」
「いやあ、ちょっと考え事を」
「絶対違うでしょ」
セレスティアは呆れたように笑った。
リリアーナも口元を押さえてくすくすと笑っている。
「そういえば、もうすぐ夏休みですね」
リリアーナが話題を変えた。
「皆さんは、もうご予定を決められましたか?」
「私は帰省するよ」
ヴィオレッタが答えた。
「久しぶりに家に帰れるの、楽しみなんだ」
「アルバレス家のお屋敷ですか?」
「うん! お母様、お父様にも会いたいし、屋敷の皆にも会いたいし」
「ふふ。きっと皆さん、お喜びになりますね」
「そうだといいな」
ヴィオレッタは笑った。
もっとも、母イザベラの反応は容易に想像できる。
きっと、帰ってきた瞬間から抱きしめられるだろう。
場合によっては、しばらく離してもらえないかもしれない。
(……まあ、それも久しぶりだしね)
「セレスは?」
ヴィオレッタが尋ねると、セレスティアは少し考えた。
「私も一度は家に戻るよ。でも、ずっと屋敷にいるつもりはないかな」
「そうなの?」
「うん。剣術の稽古もしたいし、父様から領地の仕事について少し教わる予定もあるんだ」
「へえ、忙しそう」
「まあね。でも、休みなんだから遊ぶ時間も欲しいし」
セレスティアは、にやりと笑った。
「だから、ヴィオレッタにも会いに行こうかなって」
「えっ、来てくれるの?」
「嫌?」
「まさか! 大歓迎だよ!」
ヴィオレッタは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今度ちゃんと予定合わせようね」
「うん!」
「リリはどうするの?」
セレスティアが尋ねると、リリアーナは少し考えた。
「私は、しばらく実家で過ごす予定です」
「そうなんだ」
「はい。家族と過ごしたり、刺繍をしたり……あとは、少し本を読みたいと思っています」
「いいね! のんびりできそう」
「ふふ。そうですね」
リリアーナは微笑んだ。
「でも、皆さんと会えなくなるのは少し寂しいです」
「じゃあ、リリも遊びにおいでよ!」
ヴィオレッタが言うと、リリアーナは目を丸くした。
「えっ、私もですか?」
「もちろん!」
「で、でも……アルバレス家のお屋敷にお邪魔するなんて……」
「そんなに気にしなくていいって!」
ヴィオレッタは笑った。
「母様も、きっと喜ぶと思うし」
「……そうでしょうか」
「うん! 絶対!」
その勢いに、セレスティアがくすっと笑った。
「ヴィオレッタがそこまで言うなら、大丈夫でしょ」
「……ふふ。それなら、ぜひお邪魔したいです」
リリアーナは、嬉しそうに頷いた。
◇
放課後。
ヴィオレッタは、学院の図書室で借りた本を返却しようとしていた。
ところが、返却台の前に立ったところで、ふと気づく。
「……あれ?」
鞄の中を探る。
教科書、筆記具、手帳。
目的の本がない。
「……あれれ?」
もう一度探る。
やっぱりない。
「……忘れた」
ヴィオレッタは、小さく呟いた。
寮の部屋に置いてきたのだろう。
せっかくここまで来たのに。
「……まあ、明日でいっか」
そう思って振り返ると、ちょうど図書室の入口にアリアが立っていた。
「あ、ヴィオレッタ様」
「アリア!」
「本を返しにいらしたんですか?」
「うん。でも、肝心の本を忘れちゃって」
「……そうですか」
アリアは少しだけ目を細めた。
「ヴィオレッタ様らしいですね」
「えっ、それ褒めてる?」
「どうでしょう」
アリアは小さく笑った。
「ところで、アリアは夏休みどうするの?」
ヴィオレッタが尋ねると、アリアは少し考えた。
「私も実家に帰る予定です」
「そっか! 久しぶりに家族に会えるね」
「はい。家の手伝いもありますので」
「お手伝い?」
「ええ。家族が営んでいる仕事を、少し手伝うつもりです」
「へえ!」
ヴィオレッタは興味深そうに頷いた。
「アリアの家って、何のお仕事してるの?」
「小さな商いをしています。大きな店ではありませんけど」
「そうなんだ!」
「はい。休暇中は、帳簿をつけたり、品物の整理をしたりすることになると思います」
「……夏休みなのに、働くんだね」
ヴィオレッタが言うと、アリアは少し驚いたように目を瞬かせた。
「ふふ。家の仕事ですから」
「そっか……」
ヴィオレッタは、少し考えた。
「でも、ちゃんと休む時間も作ってね」
「……ありがとうございます」
アリアは、穏やかに微笑んだ。
「ヴィオレッタ様も、楽しい休暇をお過ごしください」
「うん! アリアもね!」
ヴィオレッタは手を振り、図書室を後にした。
◇
その日の夕方。
寮の自室に戻ったヴィオレッタは、机に向かって手紙を書いていた。
宛先は、母イザベラ。
『お母様、お父様へ
もうすぐ夏休みですね。
久しぶりにお屋敷へ帰れるのを、とても楽しみにしています。
学院では、毎日いろいろなことがありました。
友達もたくさんできて、最近は一緒に人形を作ったりもしました。
帰ったら、ぜひお話を聞いてください。
それから、夏休み中に友達をお屋敷へ招待してもいいでしょうか。
みんなと、ゆっくり過ごせたら嬉しいです。
ヴィオレッタより』
書き終えると、ヴィオレッタは満足そうに頷いた。
「……よし!」
封筒に手紙を入れ、机の上に置く。
窓の外には、夕暮れの空が広がっていた。
学院に入学してから、あっという間に時間が過ぎた気がする。
思い返せば、楽しいことばかりだった。
「……夏休みかあ」
ヴィオレッタは、窓の外を眺めた。
「……楽しみだな」
ヴィオレッタは小さく笑った。フィオラ女学院で迎える、初めての夏休み。
その始まりは、もうすぐそこまで来ていた。




