第69話 ふたりの兎と、小さな勇気
第二手芸室の窓辺には、いつの間にか二つの小さな兎が並ぶようになっていた。
ひとつは、真っ白な布で作られた兎。片方の耳が少し傾いていて、どこか眠たそうな顔をしている。もうひとつは、薄茶色の兎。すらりとした顔立ちに長い耳を持ち、まだ目も付いていないというのに、不思議と上品な雰囲気が漂っていた。
「……うん。いい感じ!」
ヴィオレッタは二つの兎を眺め、満足そうに頷いた。
「最初はどうなることかと思ったけど、ちゃんと兎になってきたね!」
「そうだね。特に君の兎は、ずいぶん愛嬌のある顔になった」
「でしょ? このちょっと曲がった耳が可愛いんだよ」
「ふふ。君に似て、なかなか個性的だ」
「それ、どういう意味?」
「褒め言葉だよ」
「ほんとかなぁ」
ヴィオレッタが疑わしそうに目を細めると、カトレアは涼しい顔で微笑んだ。
こうして二人で手芸室に集まるようになってから、数日が過ぎていた。最初は針に糸を通すだけで苦労していた二人も、今では少しずつ縫い方を覚え、簡単な作業なら本を見ずに進められるようになっている。
もっとも、カトレアは相変わらず細かな作業に苦戦していた。
「……おや」
「どうしたの?」
「また糸が絡まってしまったようだ」
「えっ、また?」
「どうにも、力加減が難しくてね」
カトレアは困ったように笑い、針を置いた。
ヴィオレッタはその手元を覗き込む。
「ほんとだ。結び目ができてる」
「剣を握る時とは、ずいぶん違うものだね」
「そりゃそうだよ。針は剣じゃないもん」
「……もっともだ」
二人は顔を見合わせ、笑い合った。
その時、ヴィオレッタはふと気づいた。カトレアの指先に、小さな赤い点がある。
「あれ、カトレア。指、どうしたの?」
「ん? ああ、さっき少し針を刺してしまってね」
「えっ、大丈夫!?」
「大したことはないよ。もう血も止まっている」
「ちょっと見せて」
ヴィオレッタはカトレアの手を取った。
「……ヴィオレッタ?」
「ほら、ここ。まだ赤くなってる」
カトレアの長い指を両手で包み込み、傷のある指先をじっと見つめる。
ほんの小さな傷だった。剣術の練習でできる擦り傷に比べれば、気にするほどのものではない。
けれど、カトレアは別の意味で落ち着かなくなっていた。
(……近い)
ヴィオレッタの指が、自分の手に触れている。顔を上げれば、すぐそこに銀色の髪が揺れていた。
「痛くない?」
「……ああ。平気だよ」
「ほんと?」
「うん。心配してくれてありがとう」
ヴィオレッタはようやく安心したように微笑んだ。
「よかった。でも、気をつけてね」
「……そうするよ」
手を離されると、カトレアは少しだけ名残惜しさを覚えた。
そのことに自分で気づき、思わず苦笑する。
(……針の扱いより、君の扱いの方が難しいな)
もっとも、そんなことを口にできるはずもなかった。
◇
「よし! 今日は服を作ろう!」
ヴィオレッタは机の上に布を広げた。
白い兎には桃色のリボン、薄茶色の兎には淡い青色のワンピース。それぞれの飾りは、二人で相談しながら決めたものだった。
「カトレア、ワンピースの形はこれでいい?」
「ああ。とても可愛いと思うよ」
「じゃあ、裾にレースを付けようか」
「うん。それから、袖のところにも少し飾りを入れたいんだ」
「袖にも?」
「……やりすぎかな?」
「全然! せっかくだし、好きなだけ可愛くしようよ!」
ヴィオレッタが笑うと、カトレアも嬉しそうに頷いた。
「そうだね。では、遠慮なく」
そう言ってカトレアが取り出したのは、小さな箱だった。
「……何それ?」
「昨日、街で見つけたんだ」
蓋を開けると、中には小さな真珠色の飾りボタンや、細いレースが丁寧に収められていた。
「わあ! 可愛い!」
「この兎に似合うと思ってね」
「カトレア、いつの間にこんなの買ってたの?」
「昨日の帰りに少し寄り道をしてね。気づいたら、いろいろ選んでしまっていたよ」
カトレアは少し照れたように笑った。
「……我ながら、随分と夢中になっているみたいだ」
「いいじゃん! それだけ好きってことでしょ?」
「……そうだね」
カトレアは、小さなボタンを指先でつまんだ。
「こういうものを選ぶ時間が、こんなに楽しいとは思わなかったよ」
「ふふ。じゃあ、今度一緒にお店に行こうよ」
「……一緒に?」
「うん! 私ももっと可愛い布とか見てみたいし」
カトレアは、思わずヴィオレッタを見つめた。
「……それは、ぜひお願いしたいね」
「決まり!」
ヴィオレッタは嬉しそうに笑い、再び針を手に取った。
その横顔を見ながら、カトレアは小さく息を吐く。
(……君は、本当に簡単に誘ってくれるんだね)
自分にとっては特別な約束でも、ヴィオレッタにとっては友人との楽しい予定のひとつなのだろう。
そう分かっていても、嬉しいものは嬉しかった。
◇
それからしばらく、二人は黙々と作業を続けた。
時折、ヴィオレッタが縫い目を間違えて慌てたり、カトレアがレースの向きを逆に付けてしまったりと、小さな失敗はあったものの、作業は少しずつ進んでいった。
「……できた!」
ヴィオレッタが声を上げたのは、夕方近くになってからだった。
「カトレア、見て!」
差し出された白い兎には、桃色のリボンが結ばれていた。少し傾いた耳と、丸い目。口元には小さな笑みが刺繍されている。
「……おお」
カトレアは、思わず目を細めた。
「とても可愛いね」
「でしょ! カトレアのは?」
「僕の方も、あと少しだよ」
カトレアが持ち上げた薄茶色の兎には、淡い青色のワンピースが着せられていた。裾には白いレースが縫い付けられ、耳元には小さなリボンが結ばれている。
「……わあ!」
ヴィオレッタは目を輝かせた。
「すっごく可愛い! カトレア、これ本当に自分で作ったの!?」
「……一応、そのつもりだけれど」
「すごいよ! 最初、糸も通せなかったのに!」
「それは君も同じだったじゃないか」
「あはは、そうだった!」
二人は笑い合った。
ヴィオレッタは、薄茶色の兎をそっと手に取った。
「……ねえ、カトレア」
「何かな?」
「これ、展示会に出してみない?」
カトレアの笑顔が、少しだけ止まった。
「……展示会に?」
「うん! だって、こんなに可愛くできたんだもん。みんなにも見てもらいたいなって」
ヴィオレッタは、二つの兎を机の上に並べた。
「ほら、二つ並べるともっと可愛いでしょ?」
「……そうだね」
カトレアは、しばらく黙って兎を見つめていた。
最初に展示会の話を聞いた時、自分には関係のない催しだと思おうとしていた。
可愛いものが好きだということは、もう隠していない。けれど、自分で作ったものを人前に出すとなれば、話は別だった。
学院の生徒たちが、自分にどんな姿を期待しているかは知っている。
剣を握り、誰かを守り、いつでも堂々としていること。
そんな自分が、手作りの兎を展示したら、どんな顔をされるだろう。
「……ヴィオレッタ」
「うん?」
「……僕が作ったと知ったら、驚かれるかもしれないね」
「そうかな?」
「ああ。僕が人形を好きなのは知っていても、まさか自分で作るとは思っていないだろうから」
「……そっか」
ヴィオレッタは少し考えた。
「でも、驚かれるのって、悪いことじゃないと思うよ」
「……そうかい?」
「うん! 私だって、カトレアがこんなに可愛い人形を作れるなんて知らなかったし」
ヴィオレッタは、薄茶色の兎を持ち上げた。
「それに、最初は苦手だったのに、こんなに頑張って作ったんだよ? すごいことだと思う」
カトレアは、黙ってその言葉を聞いていた。
「……でも」
ヴィオレッタは、少しだけ声を柔らかくした。
「嫌だったら、無理に出さなくてもいいよ」
「……え?」
「だって、カトレアが楽しく作るのが一番だもん。展示会に出さなくても、この兎が可愛いことは変わらないでしょ?」
ヴィオレッタは、にっこりと笑った。
「私は、もう十分可愛いと思ってるよ」
カトレアは、しばらく何も言えなかった。
目の前の少女は、いつだってこうだ。
自分の考えを押し付けることなく、相手が何を大切にしているのかを、自然と考えてくれる。
その優しさが、胸の奥に静かに染み込んでいく。
「……ありがとう、ヴィオレッタ」
「ううん!」
カトレアは、そっと兎を受け取った。
柔らかな布の感触が、指先に伝わる。
何度も縫い直した耳。少し曲がった縫い目。時間をかけて選んだリボン。
決して完璧ではない。
けれど、自分が好きだと思えるものを、初めて自分の手で形にした。
それを、誰かに見てもらうこと。
少し怖いけれど、少しだけ楽しみでもあった。
「……ヴィオレッタ」
「何?」
「……もし、君も一緒に出してくれるなら」
カトレアは、ゆっくりと顔を上げた。
「僕も、挑戦してみようかな」
ヴィオレッタの顔が、ぱっと明るくなった。
「ほんと!?」
「ああ。ただし、ひとつ条件があるんだ」
「条件?」
「……二つの兎を、隣に並べて展示してほしい」
ヴィオレッタは、一瞬きょとんとした。
それから、満面の笑みを浮かべた。
「もちろん! 私もそうしたかった!」
「……そうかい?」
「うん! だって、二人で一緒に作ったんだもん!」
その言葉に、カトレアは柔らかく微笑んだ。
「……そうだね」
ヴィオレッタは嬉しそうに、二つの兎を並べ直した。
「じゃあ、展示会までにもっと綺麗に仕上げようね!」
「ああ。まだ少し手直ししたいところもあるしね」
「私も! こっちの耳、もうちょっと直そうかな」
「……その耳は、今のままでも可愛いと思うよ」
「えっ、ほんと?」
「ああ。君らしくて、僕は好きだな」
ヴィオレッタは、少し照れたように笑った。
「……そっか。じゃあ、このままにしようかな」
カトレアは、そっと目を細めた。
自分の言葉ひとつで、嬉しそうに笑ってくれる。
そのことが、たまらなく愛おしかった。
◇
片付けを終えた頃には、窓の外がすっかり茜色に染まっていた。
「じゃあ、明日アリアに展示会の申し込み方法を聞いてみようかな」
ヴィオレッタが言うと、カトレアは小さく頷いた。
「ああ。僕も先生に確認しておくよ」
「楽しみだね!」
「……そうだね」
カトレアは、机の上に残された二つの兎を見つめた。
数日前までは、針を持つことすらためらっていた。
それが今では、自分の作った人形を展示会に出そうとしている。
思い返せば、すべてはあの日、ヴィオレッタが声をかけてくれたことから始まった。
『一緒に作ろうよ!』
あの何気ない一言が、こんなにも自分を変えるとは思わなかった。
「……ヴィオレッタ」
「ん?」
「……君と一緒に始めて、本当によかったよ」
ヴィオレッタは、少し驚いたように目を瞬かせた。
それから、いつものように明るく笑った。
「私も! カトレアと作れてよかった!」
カトレアは、その笑顔を見つめながら、静かに微笑んだ。
展示会には、きっと多くの生徒が訪れるだろう。
どんな反応をされるかは、まだ分からない。
けれど、今は不思議と前を向ける気がした。
隣には、同じように小さな兎を抱えた少女がいる。
その存在が、何よりも心強かった。
王子様の小さな挑戦は、今、二人だけの秘密から、少しずつ外の世界へと踏み出そうとしていた。




