第68話 王子様のこだわり
カトレア・アイゼンベルクには、最近ひとつ困ったことがあった。
授業中、ふとした瞬間に兎の耳の形が頭に浮かぶのである。
歴史の授業では、教科書の余白に小さな兎を描きかけた。剣術の練習中には、相手の構えを見ながら、なぜか布の裁断方法を考えてしまった。
そして今も、昼休みの二年生の教室で、一冊の手芸本を真剣に読み込んでいる。
「……なるほど。耳の付け根を少し内側に縫えば、自然に立ち上がるのか」
小さく呟きながら、ページをめくる。その様子を、向かいの席に座っていた同級生が不思議そうに眺めていた。
「カトレア様、何を読んでいらっしゃるんですの?」
「ん? ああ、ちょっとした参考書だよ」
「参考書……?」
同級生が首を傾げる。カトレアは本の表紙をさりげなく伏せ、いつもの爽やかな笑みを浮かべた。
「新しいことを学ぶのは、なかなか楽しいものだね」
「まあ……さすがカトレア様!」
同級生は感心したように頷いた。カトレアは穏やかに微笑み返したものの、心の中では少しだけ苦笑していた。
(……まさか、兎の耳の角度について勉強しているとは思わないだろうね)
別に隠す必要はない。そう分かっていても、まだ上手く作れるかどうか分からない以上、大勢に話すのは少し気恥ずかしかった。それに、今はもうひとつ理由がある。
(……ヴィオレッタとの約束だからね)
あの少女と二人で始めた、小さな挑戦。もう少しだけ、この時間を大切にしていたかった。
◇
「カトレア! お待たせ!」
放課後、第二手芸室の扉を開けたヴィオレッタは、元気よく声をかけた。
「やあ、ヴィオレッタ。今日も無事に着けたようだね」
「もう! 毎回それ言うつもり?」
「ふふ。すまない。ついね」
カトレアは楽しそうに笑いながら、机の上に広げていた布を片付けた。ヴィオレッタは、その手元を見て目を丸くする。
「あれ? カトレア、もう作業してたの?」
「ああ。少し早く来られたから、昨日の続きをね」
「ええっ、ずるい!」
「おや、どうして?」
「一緒に作ろうって約束したのに!」
ヴィオレッタが頬を膨らませると、カトレアは一瞬きょとんとした。それから、嬉しそうに目を細めた。
「……そうだったね。すまない。つい夢中になってしまったよ」
「ふふっ。そんなに楽しい?」
「ああ。思っていた以上にね」
カトレアは、机の上に置かれた布を持ち上げた。
「それに、昨日の失敗が少し悔しくてね。今日は上手くできるように、練習していたんだ」
「カトレアらしいね」
「そうかな?」
「うん。剣術でも、できないことがあると練習するでしょ?」
「……確かに」
カトレアは苦笑した。
「どうやら僕は、何事も練習しないと気が済まない性分らしい」
「いいことだと思うよ!」
ヴィオレッタはそう言って、隣の椅子に腰掛けた。
「よし! じゃあ、今日こそ兎らしい形にしよう!」
「頼もしいね」
「任せて!」
もっとも、その自信に十分な根拠があるわけではなかった。
◇
作業を始めてしばらくすると、二人の机の上には少しずつ兎らしい形が現れ始めた。
「……あっ!」
ヴィオレッタが声を上げる。
「見て、カトレア! 耳ができた!」
「おお、本当だ」
ヴィオレッタが掲げた白い布には、二本の長い耳が付いていた。ただし、片方だけ少し横を向いている。
「……可愛いね」
「でしょ!」
「少し首を傾げているようにも見えるよ」
「そうなの! なんだか愛嬌があるよね!」
ヴィオレッタは嬉しそうに笑った。カトレアも、自分の作品を見つめる。
薄茶色の布を縫い合わせた兎の頭には、長い耳が二本付いていた。最初に切りすぎたせいで顔は少し細長いものの、綿を詰めると不思議と柔らかな丸みが生まれている。
「……うん」
カトレアは、そっと指先で耳を整えた。
「なかなか、いい感じになってきたね」
「カトレアの兎、すっごく可愛い!」
「……そうかい?」
「うん! ほら、耳がふわってしてる!」
ヴィオレッタは身を乗り出し、カトレアの手元を覗き込んだ。しかし、反対側の耳まで見ようとしたところで、机の端に置かれた裁縫箱が邪魔になった。
「んー、ちょっと見せて」
そう言うなり、ヴィオレッタはカトレアの腕にそっと手を添え、ぐっと身体を寄せた。
「……っ!」
カトレアの背筋が伸びる。気づけばヴィオレッタの顔はすぐ隣にあり、柔らかな銀髪が頬をかすめていた。腕には彼女の手の温もりが伝わり、近づいた拍子に、ほのかに甘い花の香りまで漂ってくる。
「わあ、やっぱり可愛い! ねえ、カトレア、こっちの耳も上手にできてるよ!」
「……あ、ああ。ありがとう」
「どうしたの? なんか固まってない?」
「……いや。少し、驚いただけだよ」
「えっ、何に?」
「……君の距離の近さに、かな」
「ん?」
ヴィオレッタは不思議そうに首を傾げた。その拍子に、二人の顔がさらに近づく。
「……ヴィオレッタ」
「何?」
「……もう少しだけ、離れてもらえると助かるかな」
「えっ? あ、ごめん! 見えなくて、つい!」
ヴィオレッタは慌てて身体を離した。
「大丈夫だった? 邪魔しちゃった?」
「……いや、大丈夫だよ」
カトレアはいつもの爽やかな笑みを浮かべようとした。けれど、頬に残る熱までは隠せない。
「……カトレア、顔赤くない?」
「……少し、部屋が暖かいのかもしれないね」
「そう? 窓、開けようか?」
「いや! ……その、今のままで大丈夫だよ」
思わず声が大きくなり、カトレアは小さく咳払いをした。ヴィオレッタはきょとんとしたまま、再び兎の耳を見つめている。
一方のカトレアは、針を持ち直すまでに、しばらく時間が必要だった。
(……まったく。君は本当に、無自覚なんだから)
そう心の中で呟きながらも、カトレアの口元には、どうしても笑みが浮かんでしまうのだった。
「ねえ、カトレア。これ、リボン付けたらもっと可愛くなるんじゃない?」
「……ああ。そうだね」
カトレアは少しだけ咳払いをして、平静を装った。
「実は、そのことなんだけど」
「うん?」
「……少し、考えてきたんだ」
そう言って、カトレアは鞄から一枚の紙を取り出した。そこには、兎の人形の絵がいくつも描かれていた。
「わあ!」
ヴィオレッタは目を輝かせた。
「これ、全部カトレアが描いたの?」
「ああ。昨夜、少しね」
「少しって……いっぱいあるじゃん!」
紙には、耳にリボンを付けた兎、首元にレースを巻いた兎、小さな帽子を被った兎など、さまざまな案が描かれていた。
その中でも、ひときわ丁寧に描かれているものがあった。淡い青色のワンピースを着て、耳の付け根に小さなリボンを結んだ兎。
「……これ!」
ヴィオレッタは思わず指を差した。
「これ、すっごく可愛い!」
「……本当かい?」
「うん! 私、これが一番好き!」
カトレアは、少し驚いたように目を瞬かせた。そして、嬉しそうに微笑んだ。
「……実は、僕もなんだ」
「えへへ。気が合うね!」
「……そうだね」
カトレアは、その絵を大切そうに見つめた。最初は、ただ兎の人形を作ってみたかっただけだった。けれど今は、どんな色の服を着せようか、どんなリボンを付けようかと考えるだけで、胸が弾む。しかも、その楽しさを隣で分かち合ってくれる人がいる。
(……本当に、不思議なものだね)
カトレアは、そっと微笑んだ。
◇
「じゃあ、リボンを選ぼう!」
ヴィオレッタが勢いよく立ち上がった。
「棚にいっぱいあったよね?」
「ああ。先生から、余っている材料なら使っていいと許可をいただいているよ」
「よし!」
二人は壁際の棚へ向かった。そこには、色とりどりのリボンやレースが、小さな箱に分けて収められていた。
「わあ……!」
ヴィオレッタは思わず声を上げた。
「すごい! お店みたい!」
「本当だね」
カトレアも、興味深そうに箱を覗き込んだ。
「……これなんて、どうかな」
カトレアが手に取ったのは、淡い水色の細いリボンだった。
「可愛い!」
「耳の付け根に結ぶなら、このくらいの幅がよさそうだ」
「うんうん!」
「それから……」
カトレアは、別の箱へ手を伸ばした。
「……このレースも、合うかもしれない」
白い小花模様のレース。ヴィオレッタは目を輝かせた。
「いいね! ワンピースの裾に付けたら絶対可愛い!」
「……やはり、そう思うかい?」
「うん!」
カトレアは、嬉しそうに微笑んだ。そして、次の箱へ手を伸ばす。
「それなら、こちらの小さな飾りも……」
「カトレア?」
「……ああ、いや。これは少し華やかすぎるかな」
「そんなことないよ! 可愛いと思う!」
「……そうかい?」
「うん!」
気づけば、カトレアの手元にはいくつものリボンとレースが集まっていた。ヴィオレッタは、その様子を見てくすくすと笑った。
「……カトレア」
「何かな?」
「すっごく楽しそうだね」
カトレアは、はっとしたように手元を見た。そして、少し照れたように笑った。
「……そうだね。どうやら、夢中になりすぎてしまったようだ」
「いいじゃん! 好きなものを作るんだもん!」
「……そうだね」
カトレアは、手にしていたリボンをそっと見つめた。その表情は、剣術の試合で勝利した時とも、誰かに褒められた時とも違っていた。ただ純粋に、好きなことを楽しんでいる顔だった。
◇
夕方、二人は机に並んで座り、選んだリボンを兎の耳に当てていた。
「……うーん」
ヴィオレッタが首を傾げる。
「どうしたんだい?」
「私の兎、なんかちょっと寂しい気がする」
白い兎の頭には、片方が少し傾いた耳が付いている。可愛らしいけれど、カトレアの兎と並べると、どこか物足りない。
「……そうだね」
カトレアは少し考えた。そして、手元の箱から小さな桃色のリボンを取り出した。
「これなんて、どうかな?」
「……ピンク?」
「ああ。君の兎には、こういう柔らかな色が似合うと思うんだ」
カトレアは、そっと兎の耳元にリボンを当てた。
「……ほら」
「……わあ!」
ヴィオレッタは目を輝かせた。
「可愛い! すっごく可愛い!」
「ふふ。気に入ってもらえたなら、よかった」
「ありがとう、カトレア!」
ヴィオレッタは嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、カトレアは一瞬だけ言葉を失った。
(……やっぱり)
カトレアは、心の中でそっと呟いた。
(……君には、こういう色がよく似合う)
けれど、その言葉を口にすることはなかった。
「……ねえ、カトレア」
「うん?」
「これ、完成したら並べて飾りたいね」
ヴィオレッタは、二つの兎を机の上に並べた。白い兎と、薄茶色の兎。まだ顔も服も完成していないけれど、並んでいるだけで不思議と可愛らしい。
「……そうだね」
カトレアは、ゆっくりと頷いた。
「二つ並べると、まるで友達同士みたいだ」
「でしょ!」
ヴィオレッタは、にっこりと笑った。
「じゃあ、完成したら一緒に写真……じゃなくて、絵に描いてもらうのもいいかも!」
「絵に?」
「うん! 記念になるでしょ?」
「……それは素敵な考えだね」
カトレアは、柔らかく微笑んだ。そして、二つの兎を見つめながら、ふと思った。
最初は、上手くできるかどうかばかり気にしていた。けれど今は、失敗することも、やり直すことも、少しずつ形になっていくことも、すべてが楽しい。何より、隣にいる少女と過ごす時間が、思っていた以上に大切なものになっていた。
「……ヴィオレッタ」
「何?」
「また、明日も一緒に作ってくれるかい?」
ヴィオレッタは、少し驚いたように目を瞬かせた。それから、満面の笑みを浮かべた。
「もちろん! 完成するまで付き合うよ!」
カトレアは、ほっとしたように笑った。
「……ありがとう」
窓の外では、夕日が学院の屋根を赤く染め始めていた。二つの小さな兎は、まだ完成していない。けれど、王子様の胸には、もうひとつ新しい楽しみが生まれていた。
明日もまた、あの少女と一緒に過ごせる。
その約束だけで、次の日が待ち遠しく思えた。




