第67話 王子様と針と糸
放課後のフィオラ女学院は、昼間とは少し違う賑わいを見せていた。中庭では談笑する生徒たちの声が響き、校舎のあちこちからは課外活動に励む生徒たちの気配が伝わってくる。
そんな中、ヴィオレッタ・アルバレスは、一枚の紙を手に廊下を歩いていた。
「えっと、東棟の二階……階段を上がって、右に曲がって……」
紙には、今日の待ち合わせ場所までの道順が丁寧に書かれている。
書いたのはカトレアだった。
昨日、二人で人形を作る約束をしたあと、カトレアから渡されたものだ。
『君が迷わず来られるようにね』
そう言って微笑んだ顔を思い出し、ヴィオレッタは頬を膨らませた。
「もう、そんなに心配しなくても大丈夫なのに」
もっとも、紙がなければ最初の角をどちらに曲がるかで迷っていた可能性は高い。
その事実については、ひとまず考えないことにした。
「よし、ここ!」
ヴィオレッタは一つの扉の前で立ち止まった。扉の横には、小さな札が掛けられている。
『第二手芸室』
「着いた!」
思わず声を上げた瞬間、扉が内側から開いた。
「おや、ヴィオレッタ。ずいぶん嬉しそうだね」
「カトレア! 見て、ちゃんと着いたよ!」
「うん。予定の時間より少し早いくらいだ」
「でしょ!」
「道順を書いておいてよかった」
「そこは私を褒めるところじゃない?」
カトレアは楽しそうに笑い、扉を大きく開けた。
「もちろん、よく頑張ったね。さあ、どうぞ」
「……なんだか子ども扱いされてる気がする」
「そんなつもりはないよ」
そう言いながら、カトレアの目は明らかに笑っていた。
ヴィオレッタは小さく唇を尖らせたものの、すぐに気を取り直して室内へ足を踏み入れた。
第二手芸室は、思っていたよりも広かった。窓際には大きな作業机が並び、壁際の棚には色とりどりの布や糸、裁縫道具が整然と収められている。窓から差し込む午後の日差しが、木製の机を柔らかく照らしていた。
「わあ……すごい!」
「ここは普段、手芸の課外活動に使われている部屋なんだ。今日は活動がないから、先生にお願いして使わせてもらえることになったよ」
「カトレア、準備がいいね」
「君と約束したからね。せっかくなら、落ち着いて作れる場所がいいと思ったんだ」
カトレアはそう言って、窓際の机を示した。
そこにはすでに、布と糸、それから綿の入った袋が置かれていた。
「これ、全部カトレアが?」
「ああ。昨日、必要そうなものを揃えてみたんだ」
「すごい! もう始められるじゃん!」
「……それが、そう簡単でもなくてね」
「え?」
カトレアは机の上に置かれた一冊の本を手に取った。
表紙には、可愛らしい動物の人形がいくつも描かれている。
「作り方を調べてみたんだけど、思った以上に工程が多いんだ」
「どれどれ?」
ヴィオレッタは隣から本を覗き込んだ。
布に型紙を写し、形に沿って切り取り、裏返して縫い合わせ、綿を詰める。最後に目や鼻を付ければ完成するらしい。
「……なるほど」
「分かるかい?」
「うん。説明は分かる」
「説明は?」
「実際にできるかは、別問題かな」
「……奇遇だね。僕も同じことを考えていたよ」
二人は顔を見合わせ、思わず笑った。
◇
「まずは型紙を写すところからだね」
カトレアが本を開き、真剣な顔で言った。
「うん! じゃあ、私こっちの布を使っていい?」
「もちろん。好きなものを選んで」
ヴィオレッタは白い布を手に取り、カトレアは柔らかな薄茶色の布を選んだ。
「カトレアの兎、茶色なんだ?」
「ああ。白も可愛いけれど、少し温かみのある色にしたくてね」
「いいね。私のは真っ白にしようかな」
「それなら、並べた時に違いが出て楽しそうだ」
二人は向かい合って座り、型紙を布に重ねた。
しばらくの間、部屋には鉛筆が布の上を滑る小さな音だけが響いた。
「……できた!」
先に顔を上げたのはヴィオレッタだった。
「見て、カトレア!」
「どれどれ」
カトレアが覗き込む。
そこには、長い耳を持つ兎の輪郭が描かれていた。
ただし、右耳と左耳の長さが明らかに違う。
「……個性的だね」
「今、言葉を選んだでしょ」
「いや、なかなか愛嬌があると思うよ」
「それ、褒めてる?」
「もちろん」
ヴィオレッタは疑わしそうな目を向けたが、カトレアは涼しい顔をしている。
「じゃあ、カトレアのも見せて!」
「……ああ」
差し出された布を見て、ヴィオレッタは目を瞬かせた。
「……あれ?」
「何かな?」
「カトレアの兎、なんだか……」
「なんだか?」
「……耳が、すっごく長いね」
カトレアの型紙には、顔の二倍ほどもある長い耳が描かれていた。
「……少し長くしすぎたかな」
「ううん! 可愛いよ! でも、これだと歩く時に耳を踏んじゃいそう」
「……人形だから、歩かないと思うけれど」
「あっ、そっか」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に吹き出した。
「ふふっ……君は本当に面白いことを言うね」
「カトレアだって、耳を長くしすぎてるじゃん!」
「それは否定できないな」
笑いながら型紙を描き直し、どうにか二人とも兎らしい形に整えた。
次は、布を切る作業だった。
「ここは任せてくれ」
カトレアが自信ありげに鋏を手に取った。
「おお、頼もしい!」
「刃物の扱いなら、多少は心得があるからね」
その言葉に、ヴィオレッタは期待を込めて見守った。
カトレアは布を机に広げ、鋏を入れる。
しゃきん。
しゃきん。
迷いのない動きで、布が切り進められていく。
「わあ、さすがカトレア!」
「ふふ。これくらいならね」
ところが、切り終えた布を持ち上げた瞬間。
「……あれ?」
ヴィオレッタが首を傾げた。
「カトレア、これ……」
「うん?」
「兎の顔、ちょっと細くない?」
切り取られた布は、確かに滑らかな曲線を描いていた。
ただし、型紙よりもかなり内側を切ってしまったらしく、兎の顔が妙にほっそりしている。
「……おかしいな」
カトレアは真剣に布を見つめた。
「線に沿って切ったつもりだったんだけど」
「剣術みたいに、勢いよく切りすぎたんじゃない?」
「……布は相手が動かないから、少し勝手が違うようだね」
「そこなの!?」
ヴィオレッタは思わず笑った。
カトレアも苦笑しながら、細長い兎の顔を見つめる。
「……これはこれで、凛々しい顔立ちになるかもしれない」
「うん。なんだかカトレアに似てるかも」
「……僕に?」
「そう。すらっとしてて、格好いい感じ!」
カトレアは一瞬、言葉を失った。
それから、少しだけ視線を逸らした。
「……それは、光栄だね」
「えへへ」
ヴィオレッタは気づいていなかったが、カトレアの耳はほんのり赤くなっていた。
◇
「……さて」
布を切り終えたところで、カトレアは針を手に取った。
「いよいよ、ここからが本番だね」
「うん!」
二人は本を開き、縫い方の説明を確認した。
「まずは、布を二枚重ねて……」
「端から少し内側を縫うんだね」
「そうみたいだ」
ヴィオレッタは針に糸を通そうとした。
しかし。
「……あれ?」
糸の先が、針の穴を通らない。
「……もう一回」
慎重に近づける。
通らない。
「……むむむ」
さらに顔を近づける。
やっぱり通らない。
「……カトレア」
「何かな?」
「これ、難しくない?」
「……奇遇だね」
カトレアも針を見つめていた。
「僕も、さっきから同じところで苦戦しているよ」
「ええっ!?」
ヴィオレッタは思わず顔を上げた。
「カトレアも?」
「ああ。剣先なら狙った場所に正確に当てられるんだけどね」
「針の穴は無理なんだ?」
「……どうやら、剣術とは別の才能が必要らしい」
二人はしばらく黙って針を見つめた。
そして、ほとんど同時にため息をついた。
「……難しいね」
「……そうだね」
窓の外では、小鳥がのんびりと鳴いている。
平和な午後だった。
ただし、机の上では小さな戦いが続いていた。
「……あっ!」
先に声を上げたのはヴィオレッタだった。
「通った! カトレア、通ったよ!」
「本当かい?」
「うん! ほら!」
ヴィオレッタは誇らしげに針を掲げた。
糸は確かに、針の穴を通っていた。
「お見事だね」
「えへへ!」
カトレアは素直に拍手した。
その姿に、ヴィオレッタは嬉しくなって笑った。
「カトレアも、あと少しだよ!」
「そう願いたいね」
それから数分後。
「……通った」
カトレアが静かに呟いた。
「えっ、本当!?」
「ああ。ようやくね」
「やったー!」
ヴィオレッタは両手を上げた。
カトレアも、思わず笑みをこぼした。
「……不思議だね」
「何が?」
「剣術の試合で一本取った時より、今の方が嬉しい気がするよ」
「ええっ、それは言いすぎじゃない?」
「ふふ。少し大げさだったかな」
そう言いながらも、カトレアはどこか満足そうだった。
◇
その後、二人はようやく縫い始めた。
もっとも、順調だったとは言い難い。
「……あっ」
ヴィオレッタの針が、布の裏側から思わぬ場所に飛び出した。
「……あれ?」
「どうしたんだい?」
「なんか、縫い目が曲がっちゃった」
「どれどれ」
カトレアが覗き込む。
そこには、まるで蛇が這ったような縫い目ができていた。
「……元気のいい縫い目だね」
「それ、絶対褒めてないよね!?」
「いや、なかなか自由でいいと思うよ」
「もう!」
ヴィオレッタは笑いながら、針を持ち直した。
今度はカトレアの方で、小さな声が上がる。
「……おや」
「どうしたの?」
「……糸が絡まってしまったようだ」
見ると、カトレアの手元には小さな結び目がいくつもできていた。
「わっ、すごいことになってる!」
「……うん。僕も驚いているよ」
「どうしてこうなったの?」
「……それが分かれば、苦労はしないんだけどね」
カトレアは真剣な顔で糸を見つめている。
その姿が、剣術大会の決勝で見せた凛々しい表情とあまりにも違っていて、ヴィオレッタは思わず笑ってしまった。
「……ふふっ」
「ヴィオレッタ?」
「ごめん! でも、カトレアがそんな顔するの、初めて見たかも」
「……そんなに変な顔をしていたかな?」
「ううん。なんだか新鮮で」
ヴィオレッタは、にっこりと笑った。
「でも、ちょっと嬉しいな」
「……嬉しい?」
「うん。カトレアって、いつも何でもできる感じがするから。こうやって一緒に苦戦してると、なんだか親近感が湧くんだ」
カトレアは、少し驚いたように目を瞬かせた。
「……そうかい?」
「うん!」
ヴィオレッタは、絡まった糸をそっと指差した。
「だから、これも一緒にほどこう!」
カトレアは、しばらくヴィオレッタを見つめていた。
それから、柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう」
「どういたしまして!」
二人は顔を寄せ合い、絡まった糸を少しずつほどいていった。
窓から差し込む夕日が、机の上に長い影を落とす。
気づけば、もう随分と時間が経っていた。
「……あ」
ヴィオレッタが時計を見上げる。
「もうこんな時間!」
「本当だね。そろそろ片付けようか」
「うん!」
二人は道具を整理し、途中まで縫った布を並べた。
ヴィオレッタの兎は、まだ片耳しか縫えていない。
カトレアの兎も、顔の輪郭がようやくできたところだった。
「……思ったより進まなかったね」
ヴィオレッタが苦笑すると、カトレアも頷いた。
「そうだね。でも……」
「でも?」
「……とても楽しかったよ」
カトレアは、少し照れたように微笑んだ。
「一人だったら、きっと途中で諦めていたと思う。でも、君が隣にいてくれたから、最後まで楽しく続けられた」
「……カトレア」
「ありがとう、ヴィオレッタ」
ヴィオレッタは、ぱっと笑顔になった。
「私も楽しかった! また一緒にやろうね!」
「ああ。ぜひ」
カトレアは、机の上に置かれた小さな布を見つめた。
まだ人形とは呼べない、不格好な布切れ。
けれど、不思議と愛おしく思えた。
剣術では味わったことのない、小さな達成感。
そして、隣で笑ってくれる少女の存在。
(……なるほど)
カトレアは、そっと微笑んだ。
(……誰かと一緒に作るというのは、こんなにも楽しいものなんだね)
その日、二人の兎はまだ形にならなかった。
けれど、王子様の新しい趣味は、確かに最初の一歩を踏み出していた。




