第66話 王子様の小さな秘密
星花の庭をめぐる一連の出来事も、ひとまず落ち着きを見せていた。旧温室の今後については学院側で検討が続けられているものの、ヴィオレッタたちが調査に追われる日々は終わり、いつもの賑やかな学院生活が戻りつつあった。
「平和だねぇ……」
昼食を終えたヴィオレッタは、談話室の椅子に腰掛けながら、しみじみと呟いた。向かいに座っていたセレスティアが、くすりと笑う。
「何よ、急に」
「だって、最近ずっと調べ物ばっかりだったでしょ? こうやってのんびりするの、久しぶりだなって」
「確かにね。ヴィオレッタ、最近は難しい顔をしてることが多かったし」
「えっ、そんなに?」
「うん。眉間にしわが寄ってた」
「うそ!」
ヴィオレッタは慌てて額に手を当てた。その様子を見て、リリアーナが小さく笑う。
「大丈夫ですよ、ヴィオレッタ様。今はいつもどおりです」
「……よかった」
「でも、少しお疲れだったのは本当だと思います」
アリアが穏やかに言った。
「今日は、ゆっくり過ごされるのがよいかもしれませんね」
「そうする。今日は絶対、難しいこと考えない!」
ヴィオレッタが宣言すると、セレスティアが笑った。
「それ、午後の授業まで続く?」
「……授業は別!」
そんなやり取りをしていると、談話室の扉が開いた。
「やあ、みんな。楽しそうだね」
聞き慣れた、少し低めの澄んだ声。振り返ると、そこにはカトレア・アイゼンベルクが立っていた。艶やかな黒髪を背に流し、いつものように背筋を伸ばしている。その姿に、近くの席にいた下級生たちが小さくざわめいた。
「……カトレア様ですわ」
「今日も素敵……」
「剣術の練習帰りかしら」
カトレアはそんな声に気づいているのかいないのか、いつもの爽やかな笑みを浮かべてこちらへ歩いてきた。
「カトレア!」
ヴィオレッタが手を振ると、カトレアも軽く手を上げた。
「ヴィオレッタ。隣、空いているかな?」
「もちろん!」
「ありがとう」
カトレアは椅子を引いて腰を下ろした。
「二年生の授業はもう終わったの?」
「午前の授業はね。午後は剣術の実技があるけれど、それまで少し時間があるんだ」
「相変わらず忙しいね」
「好きでやっていることだから、苦にはならないよ」
そう言って微笑む姿は、相変わらず絵になる。
(……ほんと、カトレアって格好いいよね)
ヴィオレッタは感心した。剣術大会での姿を思い出しても、カトレアはまさに物語に登場する王子様のようだった。ただし、ヴィオレッタは知っている。この王子様が、可愛い人形に目がないということを。
◇
「そういえば、皆さん」
アリアがふと思い出したように口を開いた。
「来月、学院で手芸作品の展示会が開かれるそうですよ」
「手芸作品?」
ヴィオレッタが首を傾げる。
「はい。刺繍や編み物、布小物など、生徒が制作した作品を展示する催しです。希望者であれば、学年を問わず参加できるそうです」
「へえ、楽しそう!」
ヴィオレッタは目を輝かせた。
「リリ、こういうの得意だよね?」
「えっ、わ、私ですか?」
突然話を振られたリリは、少し驚いたように顔を上げた。
「刺繍なら、少しは……」
「少しどころじゃないでしょ。この前もらったハンカチ、すっごく綺麗だったよ」
「そ、そんな……ありがとうございます」
リリは頬を赤らめた。セレスティアも頷く。
「私も見せてもらったけど、本当に上手だったよ。出してみたら?」
「……そうですね。少し考えてみます」
リリは嬉しそうに微笑んだ。その時だった。
「……手芸作品の展示会、か」
カトレアが、ぽつりと呟いた。ヴィオレッタは隣を見る。
「カトレアも興味ある?」
「……僕かい?」
カトレアは一瞬だけ目を瞬かせた。けれど、すぐにいつもの爽やかな笑みを浮かべる。
「いや、見るのは好きだけど、作る方はどうかな。あまり向いていないと思うよ」
「そうなの?」
「うん。細かい作業は、どうにも苦手でね」
カトレアは軽く肩をすくめた。セレスティアが笑う。
「確かに、カトレアが裁縫してるところって想像できないかも」
「おや、セレス。僕だって針くらい持てるよ」
「持つだけならね」
「なかなか手厳しいな」
二人のやり取りに、ヴィオレッタたちも笑った。けれど、ヴィオレッタはふと気づいた。展示会の話題が出た瞬間、カトレアの表情がほんの少しだけ明るくなっていたことに。そして今も、アリアが説明している展示作品の種類に、時折耳を傾けている。
(……あれ?)
ヴィオレッタは、隣に座るカトレアをちらりと見た。
(……本当に、興味ないのかな?)
けれど、その場では何も言わなかった。
◇
放課後、ヴィオレッタは学院の廊下を歩いていた。午後の授業が終わり、今日は特に予定もない。このまま寮へ戻ろうかと思っていたところで、前方に見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「……あ、カトレア!」
声をかけると、カトレアが振り返った。
「おや、ヴィオレッタ」
「今帰るところ?」
「そうだね。少し寄り道をしていたんだけど、そろそろ戻ろうかと思っていたところだよ」
「寄り道?」
「……ああ、ちょっとね」
カトレアは、なぜか少しだけ言葉を濁した。ヴィオレッタは首を傾げる。そして、ふと気づいた。カトレアが歩いてきた方向。確か、あちらには学院の手芸室があったはずだ。
(……もしかして)
「ねえ、カトレア」
「何かな?」
「本当は、手芸展示会に興味あるんじゃない?」
カトレアの足が、ぴたりと止まった。
「……どうして、そう思うんだい?」
「だって、お昼に展示会の話をしてたとき、ちょっと楽しそうだったから。それに、今も手芸室の方から来たよね?」
カトレアは一瞬、驚いたように目を見開いた。それから、ふっと笑みをこぼす。
「……おや、驚いたな」
「えっ、何が?」
「普段は学院のどこに何があるのか分からなくて、よく道に迷っているのに。こういう時だけは妙に鋭いんだね」
「ちょっと! 私だって手芸室の場所くらい分かるよ!」
「そうかい? 先月は図書室へ行こうとして、なぜか二年生の教室の前にいたじゃないか」
「……あれは、階段を間違えただけ!」
「なるほど。では、階段さえ間違えなければ大丈夫なんだね」
「そうだよ!」
「……ふふ。それは頼もしいな」
「カトレア、絶対からかってるでしょ!」
頬を膨らませるヴィオレッタを見て、カトレアは楽しそうに笑った。
「すまない、すまない。あまりに可愛らしい反応だったものだから」
「もう……!」
ヴィオレッタは不満そうに口を尖らせたものの、すぐに表情を戻した。
「それで、どうなの? 本当は興味あるんでしょ?」
カトレアは、しばらくヴィオレッタを見つめていた。そして、少し困ったように微笑んだ。
「……まったく。君には敵わないな」
「えへへ」
「……実はね」
カトレアは、少しだけ声を落とした。
「前から、一度やってみたいことがあったんだ」
「何?」
ヴィオレッタが尋ねると、カトレアは少し照れたように視線を逸らした。
「……人形を、自分で作ってみたくてね」
「……人形?」
「そう。今までは、気に入ったものを見つけては買っていたんだけど……自分の好きな形に作れたら、もっと楽しいんじゃないかと思っていたんだ」
「……いいじゃん!」
ヴィオレッタは思わず身を乗り出した。
「カトレアが作った人形、見てみたい!」
「……本当かい?」
「うん! どんなのを作りたいの?」
カトレアは、少しだけ目を輝かせた。
「……兎がいいな」
「兎?」
「そう。耳が長くて、ふわふわしていて、抱きしめたくなるような……」
そこまで言って、カトレアはふと口を閉じた。そして、少し照れたように笑った。
「……少し子どもっぽいかな」
「えっ、全然!」
ヴィオレッタは即座に首を振った。
「むしろ、すっごく可愛いと思う!」
「……そうかい?」
「うん! 耳にリボンとか付けたら絶対可愛いよ!」
「……リボン」
カトレアの目が、さらに輝いた。
「それはいいね。淡い青色のリボンなんて、似合うかもしれない」
「いいね! あと、小さい服とか着せても可愛いかも」
「……服も?」
「うん。ちょっとふわっとしたワンピースとか!」
カトレアは、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……ヴィオレッタ」
「何?」
「君は、なかなか素晴らしい発想をするね」
「えっ、そう?」
「うん。ぜひ、もっと聞かせてほしい」
その声があまりにも真剣だったので、ヴィオレッタは思わず笑ってしまった。
「……あはは! カトレア、そんなに人形作りたかったんだ」
「……どうやら、思っていた以上にね」
カトレアも、少し照れたように笑った。
◇
「でも、カトレア」
ヴィオレッタは、ふと思い出したように尋ねた。
「どうして、お昼は興味ないって言ったの?」
カトレアは、少しだけ考え込んだ。そして、苦笑した。
「……少し、恥ずかしかったんだ」
「……恥ずかしい?」
「うん。可愛いものが好きなのは、今さら隠すつもりもないんだけどね」
カトレアは、窓の外に目を向けた。
「ただ、自分で作るとなると話は別さ。僕は裁縫が得意ではないし、きっと不格好なものになってしまうだろう?」
「……うん」
「それを誰かに見せるのは、少し勇気がいるんだ」
カトレアは、少し困ったように笑った。
「剣術なら、多少の失敗をしても次に活かせる。でも、針と糸を前にすると、どうにも自信がなくてね」
ヴィオレッタは、しばらくカトレアを見つめていた。そして、ふっと微笑んだ。
「……じゃあさ」
「うん?」
「一緒に作ろうよ!」
カトレアは、目を瞬かせた。
「……君も?」
「うん! 私も裁縫、そんなに得意じゃないんだ」
「……そうなのかい?」
「そう。だから、一緒に練習したら楽しそうじゃない?」
ヴィオレッタは、にっこりと笑った。
「二人で失敗したら、きっと笑えるし!」
カトレアは、しばらく黙っていた。そして、ふっと笑みをこぼした。
「……ふふ」
「……カトレア?」
「いや、すまない」
カトレアは、少し嬉しそうに微笑んだ。
「……君らしいなと思ってね」
「そう?」
「ああ。僕が悩んでいたことが、急に小さなことのように思えてきたよ」
カトレアは、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとう、ヴィオレッタ」
「えへへ。どういたしまして!」
「……それじゃあ」
カトレアは、少しだけ手を差し出した。
「一緒に、挑戦してみようか」
「うん!」
ヴィオレッタは、その手を取った。こうして、二人だけの小さな約束が生まれた。
◇
翌日、昼休みの談話室では、いつものようにセレスティアたちが集まっていた。
「そういえば、ヴィオレッタ」
セレスティアが尋ねる。
「昨日、放課後どこに行ってたの?」
「えっ?」
「寮に戻るの、少し遅かったでしょ?」
「ああ、昨日はカトレアと話してたんだ」
「……カトレアと?」
「うん!」
ヴィオレッタは嬉しそうに頷いた。
「ちょっとね、約束したの」
「……約束?」
セレスティアが首を傾げる。
「何の?」
ヴィオレッタは、少しだけ考えた。カトレアが人形作りに興味を持っていること。そして、少し恥ずかしがっていること。それを、本人の許可なく話してしまうのはよくない気がした。
「……えっと」
ヴィオレッタは、にっこりと笑った。
「まだ、秘密!」
「……秘密?」
セレスティアの眉が、ぴくりと動いた。
「……ヴィオレッタが、カトレアと?」
「うん!」
「……二人で?」
「そうだよ?」
セレスティアは、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……へえ」
その笑顔を見て、アリアが小さくため息をついた。
「……セレスティア様」
「何?」
「……いえ、何でもありません」
リリも、少しだけ複雑そうな顔をしていた。一方のヴィオレッタは、そんな二人の様子にまったく気づいていない。
(……ふふ、楽しみだな)
頭の中に浮かぶのは、ふわふわした兎の人形。長い耳に、淡い青色のリボン。そして、隣で嬉しそうに笑うカトレアの姿だった。
――その頃、二年生の教室では、カトレアが窓際の席で静かに本を開いていた。けれど、視線は文字を追っていない。
(……ヴィオレッタと、人形作りか)
思い出すだけで、自然と口元が緩む。剣術の試合前とは、まったく違う高揚感。上手く作れるかどうかは分からない。けれど、失敗しても構わないと言ってくれた少女がいる。
(……楽しみだな)
カトレアは、そっと微笑んだ。そして、机の引き出しから小さな紙を取り出した。そこには、昨夜描いたばかりの、不格好な兎の絵があった。耳が少し長すぎて、顔もどこか丸すぎる。
けれど。
(……これを、作ってみたい)
カトレアは、その絵を大切そうに見つめた。
まだ誰も知らない、王子様の小さな挑戦。それは、ヴィオレッタとの約束から、静かに始まろうとしていた。




