第62話 母の知られざる過去
週末の午後。
アルバレス公爵家の屋敷へ向かう馬車の中で、ヴィオレッタは母から届いた手紙をもう一度読み返していた。
『星花の庭について、あなたにお話ししておきたいことがあります。できれば直接会って話したいので、今度のお休みに帰ってきてくれませんか』
丁寧な文字で綴られたその言葉を見つめ、ヴィオレッタは小さく息を吐いた。
(……やっぱり、お母様も何か知ってるんだ)
星花の庭。
かつてフィオラ女学院で行われていた、招待制のお茶会。
今は閉ざされた旧温室。
そして、招待を辞退したにもかかわらず、その意思を認められなかった少女。
エリザベート・ローウェル。
学院の記録には、その少女の名前と並んで、母イザベラの名前も残されていた。
母は、あの場所で何を経験したのだろう。
ヴィオレッタは窓の外へ目を向けた。
見慣れた街並みが、ゆっくりと後ろへ流れていく。
少し緊張している。
けれど、それ以上に、母に会えるのが楽しみでもあった。
学院へ入学してから、屋敷で過ごす時間は以前よりずっと少なくなった。
母は手紙を送るたびに、娘の体調を気遣い、好きなお菓子を用意していると書いてくれる。
(……きっと今日も、すごい量のお菓子が出てくるんだろうなぁ)
そんなことを考えているうちに、馬車は屋敷の門をくぐった。
◇
「ヴィオレッタ!」
馬車を降りた瞬間、聞き慣れた声が響いた。
「お母様?」
玄関の前に立っていたのは、イザベラ・アルバレスだった。
落ち着いた色のドレスを身にまとい、普段と変わらず優雅な姿をしている。
けれど、娘の姿を見つけた途端、その表情がぱっと明るくなった。
「お帰りなさい、私の可愛いヴィオレッタ!」
「ただいま戻りました、お母様」
挨拶を終えるより早く、ヴィオレッタは母に抱きしめられていた。
「……お、お母様!」
「ああ、会いたかったわ! 少し見ない間に、また綺麗になったのではなくて?」
「そんなに変わってないと思うけど……」
「いいえ。お母様には分かります」
イザベラは真剣な顔で言い切った。
ヴィオレッタは思わず笑ってしまう。
(……うん。いつものお母様だ)
母は娘の頬にそっと手を添え、心配そうに顔を覗き込んだ。
「ちゃんと食べている? 夜更かししていない? 学院で困ったことはない?」
「大丈夫だよ。みんなとも仲良くしてるし、ちゃんと食べてるから」
「本当に?」
「本当だってば」
ヴィオレッタが笑うと、イザベラはようやく安心したように微笑んだ。
「それならよかったわ。さあ、中へ入りましょう。あなたの好きなお菓子も用意してあるの」
「……やっぱり」
「何か言ったかしら?」
「ううん。何でもないよ」
ヴィオレッタは笑いながら、母と一緒に屋敷へ入った。
◇
午後のお茶の時間。
母娘は、庭園を望む小さな応接室で向かい合っていた。
テーブルには、色とりどりの焼き菓子が並んでいる。
どう見ても、二人で食べきれる量ではなかった。
「……お母様、これ全部?」
「ええ。あなたが好きなものを選んでいたら、少し多くなってしまったの」
「少し……?」
「残った分は、学院のお友達に持っていってもいいのよ」
「……それなら、みんな喜ぶかも」
ヴィオレッタが微笑むと、イザベラは嬉しそうに頷いた。
しばらくは、学院での出来事や友人たちの話が続いた。
セレスティアのこと。
リリのこと。
カトレアやアリアのこと。
イザベラはどの話にも楽しそうに耳を傾け、ときおり娘の成長を喜ぶように微笑んだ。
けれど、話題が一段落したところで、ヴィオレッタは静かに口を開いた。
「……お母様」
「なあに?」
「星花の庭のこと、聞いてもいい?」
その瞬間、イザベラの手が止まった。
カップを持ち上げようとしていた指が、わずかに震える。
けれど、彼女はすぐにカップを置き、娘をまっすぐに見つめた。
「……ええ」
その声は、先ほどまでより少し低かった。
「あなたには、きちんとお話ししておきたいと思っていたの」
ヴィオレッタは背筋を伸ばした。
イザベラはしばらく窓の外を見つめていた。
そして、ゆっくりと話し始めた。
「星花の庭は、私が学院に通っていた頃、一年生のために開かれていた招待会の会場だったわ」
「……うん。それは聞いたよ」
「新しく入学した生徒たちが、身分や家柄にとらわれず友人を作るための場所。最初は、そういう趣旨だったの」
イザベラは小さく微笑んだ。
「私も、あの場所でたくさんの人と出会ったわ」
「……お母様も?」
「ええ。もちろんよ」
その表情は、どこか懐かしそうだった。
「でも、次第に招待されることが特別な意味を持つようになったの。誰から招待されたか。誰が選ばれたか。誰が選ばれなかったか……そんなことばかりが話題になるようになってしまった」
ヴィオレッタは静かに頷いた。
エレノアから聞いた話と一致している。
「……それで、何かあったんだよね?」
「ええ」
イザベラは目を伏せた。
「ある少女が、招待を辞退したの」
「……エリザベート・ローウェルさん?」
その名前を口にした瞬間、イザベラの表情が変わった。
「……その名前を、どこで?」
「学院の先生が見せてくれた記録にあったの」
ヴィオレッタは慎重に答えた。
「お母様の名前も、一緒に」
「……そう」
イザベラは静かに息をついた。
「そこまで、分かっているのね」
しばらく沈黙が流れた。
やがて、イザベラはゆっくりと口を開いた。
「エリザベートは、私の友人だったわ」
「……友人?」
「ええ。とても優しくて、少し気の弱い子だった。けれど、自分の大切なものについては、驚くほど頑固なところもあったのよ」
イザベラは小さく微笑んだ。
「私は、そんな彼女が好きだった」
ヴィオレッタは黙って聞いていた。
「でも、ある日、エリザベートは招待会への参加を断ったの」
「……どうして?」
「彼女には、すでに大切な友人がいたからよ。招待会に参加することで、その友人が傷つくかもしれないと考えたの」
「……え?」
ヴィオレッタは眉を寄せた。
「招待会って、友達を作るためのものだったんでしょ?」
「そうよ。でも、あの頃にはもう、招待されることが名誉になっていた。選ばれなかった子は、まるで価値がないかのように扱われることもあったの」
「……そんな」
ヴィオレッタは思わず呟いた。
イザベラは静かに頷いた。
「エリザベートは、自分だけが招待されることを嫌がったの。けれど、運営側はそれを認めなかった」
「……どうして?」
「彼女が、招待会の象徴として選ばれていたからよ」
「象徴?」
「ええ。エリザベートは、当時の生徒たちの間でとても評判がよかったの。彼女が参加すれば、招待会の価値がさらに高まると考えた人たちがいた」
ヴィオレッタは黙り込んだ。
友達を作るための行事が、いつの間にか誰かの名誉のための道具になっていた。
それは、あまりにも悲しいことだった。
「……お母様は、どうしたの?」
ヴィオレッタが尋ねると、イザベラは目を伏せた。
「私は、彼女の辞退を認めるべきだと主張したわ」
「……うん」
「けれど、当時の私は、招待会の代表者だったの」
「……代表者?」
「ええ。公爵家の娘という立場もあって、周囲から推されていたのよ」
イザベラは少し苦笑した。
「私は、自分が代表でいれば、少しでも皆が楽しく過ごせると思っていた。でも……甘かったのね」
ヴィオレッタは母を見つめた。
「……何があったの?」
イザベラはしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「私が知らないところで、エリザベートの辞退が却下されていたの」
「……え?」
「しかも、その決定は、代表者である私の名前で伝えられた」
ヴィオレッタは息を呑んだ。
「……お母様の名前で?」
「ええ」
イザベラはゆっくりと頷いた。
「私はすぐに抗議したわ。そんな決定はしていない、と。けれど、その時にはもう、エリザベートは私が彼女を裏切ったと思っていたの」
静かな応接室に、時計の音だけが響いた。
「……だから、あの言葉だったのね」
イザベラは小さく呟いた。
「『イザベラ様は、私の味方だと思っていました』」
ヴィオレッタは胸が締め付けられるような気持ちになった。
母は、友人を守ろうとした。
けれど、その思いは届かなかった。
「……お母様」
ヴィオレッタが声をかけると、イザベラはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、長い年月を経ても消えない後悔が浮かんでいた。
「私は、あの子に何度も説明しようとしたわ。でも、彼女はもう私の話を聞こうとしなかった」
「……そうだったんだ」
「そして、その翌月、エリザベートは学院を去ったの」
ヴィオレッタは言葉を失った。
イザベラは静かに続けた。
「私は、彼女を守れなかった。それだけは、今でも変わらない事実よ」
◇
しばらくの間、二人は黙っていた。
窓の外では、庭園の木々が風に揺れている。
ヴィオレッタは母の顔を見つめた。
いつも自分を褒めてくれる母。
どんな小さなことでも喜び、少し離れているだけで心配してくれる母。
その母にも、こんな過去があったのだ。
「……お母様」
「なあに、ヴィオレッタ」
「私、ひとつだけ聞いてもいい?」
「ええ。もちろんよ」
「お母様は、今でもエリザベートさんに会いたい?」
イザベラは驚いたように目を見開いた。
そして、しばらく考えてから、小さく頷いた。
「……ええ」
その声は、かすかに震えていた。
「もし会えるのなら、もう一度きちんと謝りたいわ」
「……そっか」
ヴィオレッタは微笑んだ。
「じゃあ、まだ終わってないんだね」
「……え?」
「お母様がまだ会いたいと思ってるなら、全部終わったことにはならないんじゃないかな」
イザベラは娘を見つめた。
ヴィオレッタは少し照れたように笑った。
「もちろん、エリザベートさんがどう思ってるかは分からないけど。でも、お母様の気持ちまで、昔のまま止めておかなくてもいいと思う」
「……ヴィオレッタ」
「それに、もし誤解だったなら、いつかちゃんと伝わるといいね」
イザベラはしばらく黙っていた。
そして、突然立ち上がった。
「……ヴィオレッタ!」
「えっ?」
次の瞬間、ヴィオレッタは母にぎゅっと抱きしめられていた。
「お、お母様!?」
「ああ……あなたは本当に、なんて優しい子なのかしら!」
「ちょ、ちょっと苦しい……!」
「ごめんなさいね。でも、嬉しくて……」
イザベラはようやく腕を緩めた。
その目元には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「お母様は、あなたの母親でいられて幸せだわ」
「……もう、大げさだよ」
ヴィオレッタは照れくさそうに笑った。
けれど、胸の奥は温かかった。
しばらくして、イザベラは落ち着きを取り戻し、もう一度椅子に腰を下ろした。
「……そういえば、ヴィオレッタ」
「うん?」
「あなたに、一つ見せたいものがあるの」
イザベラは小さな木箱を取り出した。
中には、古びたリボンと、一通の手紙が収められていた。
封筒の裏には、深い青色の封蝋。
そこには、星と花を組み合わせた模様が刻まれている。
「……あれ?」
ヴィオレッタは思わず身を乗り出した。
「これ、私に届いた招待状と同じだ」
その言葉に、イザベラの表情が変わった。
「……招待状?」
「うん。私だけじゃなくて、リリやセレスにも届いたんだ。旧温室に来てほしいって」
「……その招待状にも、青い封蝋が?」
「そうだよ。星と花の模様も一緒」
イザベラはしばらく黙っていた。
そして、静かに封筒へ視線を落とした。
「……星と花の紋章は、昔から星花の庭で使われていたものよ」
「やっぱり、そうなんだ」
「ええ。温室の入口にも飾られていたし、招待会の案内状にも使われていたわ」
イザベラは指先で、封蝋の模様をそっとなぞった。
「ただ、私たちが使っていた公式の招待状は、白い封蝋だったの」
「……白?」
「ええ。少なくとも、私が運営に携わっていた頃はそうだったわ」
ヴィオレッタは首を傾げた。
「じゃあ、この青い封蝋は?」
「これは、エリザベートが学院を去る直前、私に送ってきた手紙なの」
イザベラの声が、わずかに沈んだ。
「彼女は最後の手紙に、星花の庭の紋章を使ったの。どうして青い色を選んだのかは、今でも分からないわ」
「……そうだったんだ」
「だから、あなたに届いた招待状も同じ組み合わせだったと聞いて、驚いたのよ」
ヴィオレッタは、もう一度封筒を見つめた。
星花の庭の紋章。
深い青色の封蝋。
それぞれは、特別珍しいものではないのかもしれない。
けれど、二つが重なると、母にとっては忘れられない手紙になる。
「……お母様。招待状を送ってきたのは、エレノア・ヴァレンティスさんっていう上級生なんだ」
「……ヴァレンティス?」
イザベラは小さく繰り返した。
「うん。旧温室を残したいんだって。それに、昔の事件のことも少し知ってるみたいだった」
「……そう」
イザベラは考え込むように目を伏せた。
「エレノアさんが、昔の資料を見て青い封蝋を選んだ可能性もあるよね」
「ええ。もちろん、その可能性はあるわ」
イザベラは頷いた。
「ただ、どうしてその色を選んだのか……少し気になるわね」
ヴィオレッタは母の横顔を見つめた。
いつもなら、娘の話に嬉しそうに耳を傾ける母が、今は遠い昔の出来事を思い出している。
「……お母様」
「なあに?」
「その手紙、大切に取っておいたんだね」
イザベラは驚いたように娘を見た。
そして、少し寂しそうに微笑んだ。
「……ええ。捨てられなかったの」
木箱の中の手紙を、そっと撫でる。
「いつか、もう一度あの子と話せる日が来るかもしれないと思っていたから」
ヴィオレッタは何も言わず、母の手に自分の手を重ねた。
イザベラはその手を優しく握り返した。
窓の外では、夕陽が庭園を柔らかく照らしていた。
ヴィオレッタは、母の手の温かさを感じながら考えていた。
エレノアは、どうしてあの青い封蝋を使ったのだろう。
ただ古い招待状を再現したかっただけなら、昔と同じ白い封蝋を使えばよかったはずだ。
それとも、彼女はエリザベートの最後の手紙について、何か知っているのだろうか。
けれど、あの手紙はずっと母の手元にあった。
ならば、誰が、どうやってその存在を知ったのか。
(……やっぱり、エレノアさんにもう一度聞いてみたい)
ヴィオレッタは、静かにそう思った。
ただし、今度は一人で行くつもりはない。
セレスたちと、そして先生方にも相談してから。
母の過去に関わることだからこそ、慎重に確かめたかった。
「……お母様」
「なあに?」
「話してくれて、ありがとう」
イザベラは少し驚いたように娘を見た。
そして、優しく微笑んだ。
「こちらこそ、聞いてくれてありがとう。ヴィオレッタ」
母娘は、しばらくそのまま手を握り合っていた。
長い年月を経ても消えなかった後悔。
そして、今を生きる娘が抱いた、新しい疑問。
星花の庭をめぐる物語は、まだ終わっていなかった。




