第61話 母の名前が残る場所
翌朝、ヴィオレッタ・アルバレスは、いつもより少し早く目を覚ました。
窓の外では小鳥が鳴いている。カーテンの隙間から差し込む朝日も、机の上に置かれた教科書も、昨日までと何も変わらない。
けれど、ヴィオレッタの気分は少しだけ違っていた。
(……結局、昨日は何だったんだろう)
招待状の送り主、エレノア・ヴァレンティス。
彼女は旧温室を残したいのだと言った。
その気持ちは理解できるし、古い建物を大切にしたいという考えにも共感できる。
けれど、どうして自分たちを試すような真似をしたのか。そして、なぜ過去の事件については詳しく話せないのか。
気になることは、まだたくさん残っている。
(まあ、私が考え込んでも、すぐ答えが出るわけじゃないけど)
ヴィオレッタはベッドから起き上がり、大きく伸びをした。
「よし。とりあえず、今日の授業を頑張ろう」
こういう時こそ、普段どおりに過ごすのが一番だ。
そう思っていたのだが。
朝食を終えて教室へ向かう途中、ヴィオレッタは思いがけない人物に呼び止められた。
「アルバレスさん。少し、お時間をいただけますか」
振り返ると、そこには担任の教師が立っていた。
「はい。何でしょうか?」
「昨日の件で、確認したいことがあるのです」
その表情は、いつもより少し硬かった。
◇
案内されたのは、職員室の隣にある小さな応接室だった。
落ち着いた色の調度品が並ぶ部屋には、すでに一人の年配の女性教師が待っていた。
銀縁の眼鏡をかけたその教師は、ヴィオレッタが入ってくると、ゆっくりと立ち上がった。
「おはようございます、アルバレスさん」
「おはようございます」
「私は学院の古い記録の管理にも携わっている、マーガレット・ウェルズと申します」
「よろしくお願いします」
ヴィオレッタは丁寧に頭を下げた。
マーガレットは穏やかに微笑んだが、すぐに表情を引き締めた。
「昨日、学院の事務室に匿名の手紙が届きました」
「……匿名の手紙、ですか?」
「ええ。旧温室に関するものです」
ヴィオレッタの背筋が自然と伸びた。
「また、あの招待状ですか?」
「いいえ。今回は違います」
マーガレットは机の上に、一枚の紙を置いた。
そこには、短い文章が書かれていた。
『星花の庭を、二度と開いてはならない』
「…………」
ヴィオレッタは思わず眉を寄せた。
(……今度は、開くなって?)
つい昨日、エレノアは旧温室をもう一度使えるようにしたいと話していた。
その翌日に、正反対の内容の手紙が届くなんて。
「……これは、誰が?」
「差出人は分かっていません。ですが、手紙にはもう一つ、気になるものが添えられていました」
マーガレットは別の紙を取り出した。
古びた記録の一部を、保護用の薄い紙で挟んだものだった。
「これは、かつて星花の庭で行われていた招待会の記録と思われます」
「……招待会の?」
「はい。そして、ここに二人の名前が記されています」
ヴィオレッタは身を乗り出した。
一人目の名前は、エリザベート・ローウェル。
初めて聞く名前だった。
そして、二人目。
『イザベラ・アルバレス』
「…………え?」
ヴィオレッタは、もう一度その文字を見た。
見間違いではない。
イザベラ・アルバレス。
それは、よく知っている名前だった。
「……お母様?」
思わず、声が漏れた。
マーガレットが静かに頷く。
「あなたのお母様、イザベラ様も、かつてこの学院に通われていました」
「それは……はい、聞いたことがあります」
母がフィオラ女学院の卒業生であることは知っていた。
けれど、学院時代の詳しい話を聞いたことはほとんどない。
母が話してくれるのは、たいていヴィオレッタ自身のことだった。
幼い頃の失敗談や、初めて刺繍を完成させた時の話。少し成長しただけで大喜びし、何かあるたびに褒めてくれた母の姿が、自然と思い浮かぶ。
(……お母様、私の話になると本当に嬉しそうなんだよね)
だからこそ、母自身の学院時代については、あまり聞いたことがなかったのかもしれない。
「……でも、どうしてお母様の名前が?」
「それを、私たちも確認したいのです」
マーガレットは慎重に言葉を選んだ。
「この記録は、まだ出所を確認できていません。お母様が何か問題を起こされたという意味では、決してありません」
「……はい」
「ただ、エリザベート・ローウェルという生徒が学院を去った時期と、星花の庭が閉鎖された時期が近いことは、別の記録から確認できています」
ヴィオレッタは黙って耳を傾けた。
「そして、当時の招待会の参加者名簿には、イザベラ様のお名前もあったようなのです」
「……そうなんですね」
自分の母親が、あの古い温室に足を運んでいた。
そう考えると、昨日まで遠い昔の出来事だった事件が、急に身近なものに思えてきた。
「お母様に、このことをお尋ねしたことはありますか?」
「いいえ。星花の庭という名前も、今回初めて知りました」
「そうですか……」
マーガレットは少し考え込んだ。
「もしお母様とお話しされる機会があれば、当時のことをご存じか、尋ねてみていただけますか。ただし、無理に聞き出す必要はありません」
「……分かりました」
ヴィオレッタは頷いた。
そして、少し迷ってから尋ねた。
「あの、先生」
「何でしょう?」
「エリザベートさんという方は、どうして学院を辞められたんですか?」
マーガレットはすぐには答えなかった。
やがて、静かに首を振る。
「申し訳ありません。現在確認できる資料だけでは、理由を断定できないのです」
「……そうですか」
「ただ、一つだけ分かっていることがあります」
マーガレットは記録に視線を落とした。
「彼女が学院を去ったのは、春の招待会が開かれた、その翌月でした」
ヴィオレッタは思わず息を呑んだ。
招待会の翌月。
あまりにも近い。
けれど、それだけで二つの出来事が関係していると決めつけることもできない。
(……お母様、何か知ってるのかな)
ヴィオレッタはもう一度、紙に記された名前を見つめた。
◇
「……お母様のお名前が?」
昼休み。
ヴィオレッタから話を聞いたセレスティアは、驚いたように目を見開いた。
「うん。昔の招待会の記録にあったんだって」
「それは……びっくりするね」
カトレアも少し表情を引き締めた。
いつもの食堂。
いつもの席。
けれど、今日は誰もすぐに食事へ手を伸ばそうとしなかった。
「でも、先生も言ってたよ。名前があるだけで、何か悪いことをしたって意味じゃないって」
「もちろんだよ」
カトレアは頷いた。
「むしろ、当時の事情を知っている人が見つかったかもしれない、ということだね」
「……そう考えた方がいいですよね」
リリがほっとしたように微笑む。
セレスティアは腕を組んだまま、難しい顔をしていた。
「でも、変じゃない?」
「何が?」
「エレノアさんは、過去の事件について詳しく知ってるみたいだったでしょ? それなのに、ヴィオレッタのお母様が関わってたかもしれないなんて、一言も言わなかったじゃない」
「……確かに」
ヴィオレッタは頷いた。
エレノアは、ある人物との約束があると言っていた。
もしかすると、その約束と関係しているのだろうか。
「……アリアはどう思う?」
ヴィオレッタが尋ねると、アリアは少し考えてから答えた。
「現時点では、エレノア様がイザベラ様のお名前をご存じだったかどうかも分かりません」
「そっか……そうだよね」
「はい。ただ、一つ気になることがあります」
アリアはノートを開いた。
「昨日、エレノア様は『ある一人の少女が学院を去ることになった』とおっしゃいましたよね」
「うん」
「ですが、それが招待会のせいだったとは、明言されていませんでした」
ヴィオレッタは瞬きをした。
「……あ」
確かに、そうだった。
招待会が原因で少女が学院を去った。
話の流れから、自然とそう受け取っていた。
けれど、エレノアは二つの出来事を直接結びつける説明をしていない。
「……そういえば、そうだね」
「記録にも、退学の理由は残されていないそうですし……」
リリが小さく呟いた。
「はい。ですから、もう少し慎重に確認した方がよいと思います」
アリアは落ち着いた声で続けた。
「それと、もう一点。招待会について、昨日の説明と古い資料の間に少し食い違いがありました」
「食い違い?」
セレスティアが身を乗り出す。
「どんな?」
「昨日、エレノア様は、最初に招待された方が次の方を選び、少しずつ輪を広げていく催しだったとおっしゃいました」
「うん。そうだったね」
「ですが、私が見つけた行事案内には、もう一つ続きがありました」
アリアはノートの一ページを開いた。
『招待を受けた者は、次の招待者を選ぶこと』
その下に、別の一文が書き写されている。
『ただし、招待を辞退した者に、次の招待を求めてはならない』
「……え?」
ヴィオレッタは思わず顔を上げた。
「それって……」
「はい」
アリアは頷いた。
「招待を断った場合、その方を通じて次の方を選ぶことはできなかったようです」
しばらく沈黙が流れた。
最初に招待されたヴィオレッタは、旧温室へ行かなかった。
次のリリも、セレスティアも同じだ。
それなのに、招待状は次々と届いた。
「……じゃあ、エレノアさんがやってたことって、昔のやり方とも違うんだ」
ヴィオレッタが呟くと、アリアは静かに頷いた。
「少なくとも、私が確認した行事案内とは異なります」
「それ、昨日教えてくれればよかったのに!」
セレスティアが声を上げる。
アリアは申し訳なさそうに眉を下げた。
「申し訳ありません。昨夜、資料を読み直していて気付いたんです。文字が薄くなっていて、最初は読み取れなかった箇所でしたので」
「あっ、そうだったんだ。ごめんね」
セレスティアは慌てて手を振った。
「責めたわけじゃないよ!」
「いえ。大丈夫です」
アリアが微笑むと、ヴィオレッタもほっとした。
けれど、カトレアは別のことを考えているようだった。
「……招待を辞退した人には、次の招待を求めない、か」
「カトレア?」
「いや。案外、大切な決まりだったのかもしれないと思ってね」
カトレアはノートの一文を見つめた。
「招待されることが名誉になっていたのなら、断るのにも勇気が必要だったはずだ。でも、断った人を無理に巻き込まないための決まりがあった」
「……なるほど」
「それが、いつから守られなくなったのか。それとも、最後まで守られていたのか」
カトレアは小さく首を傾げた。
「そこが分かると、当時の事件も少し見えてくるかもしれないね」
ヴィオレッタは感心したように頷いた。
「カトレア、すごいね。私、そこまで考えてなかった」
「ふふ。少し気になっただけだよ」
「でも、確かにそうだよね」
ヴィオレッタはもう一度、アリアのノートを見た。
招待を断る権利。
その当たり前のことを、わざわざ決まりにしなければならなかった理由。
(……もしかして、昔も誰かが無理やり誘われたりしたのかな)
そう考えると、エリザベートという少女の言葉が、少し違って聞こえてきた。
『次に招待される子が、私と同じ思いをしませんように』
彼女は、何を嫌だと思ったのだろう。
招待されたことか。
それとも、招待を断れなかったことか。
ヴィオレッタには、まだ分からなかった。
◇
放課後。
ヴィオレッタは寮の自室で、母へ手紙を書くことにした。
もちろん、いきなり事件について問い詰めるつもりはない。
まずは、母が星花の庭を知っているかどうか。
それを確かめたかった。
机に向かっていると、エマがお茶を運んできた。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
「ありがとう、エマ」
「今日は少しお疲れのようですね」
「うん。ちょっと考えることが多くて」
ヴィオレッタは温かいお茶を一口飲んだ。
そして、ふと思い出したように顔を上げた。
「……ねえ、エマ」
「はい」
「お母様って、学院に通っていた頃の話、あんまりしないよね?」
「そうでございますね。奥様は、お嬢様のお話をなさる方がお好きですから」
「……ああ、それは分かるかも」
ヴィオレッタは苦笑した。
母は、娘のことになると少々大げさになる。
幼い頃に刺繍を一つ完成させただけで、まるで国を挙げて祝うべき偉業のように褒められたこともあった。
その刺繍が、どう見ても歪んだ花だったことは、今でも覚えている。
(……お母様、あれを額に入れて飾ろうとしてたもんなぁ)
さすがに恥ずかしくて止めたのだが、母は少し残念そうだった。
「でも、お母様って、昔からあんな感じだったのかな?」
「……あんな感じ、でございますか?」
「うん。私のことになると、何でも褒めてくれるというか……ちょっと甘すぎるというか」
エマは微笑んだ。
「奥様にとって、お嬢様は何より大切な宝物でいらっしゃいますから」
「……それは嬉しいんだけどね」
ヴィオレッタは頬をかいた。
「たまに、私よりお母様の方が張り切っちゃうんだよね」
「ふふ。確かに、そういうところはございますね」
エマは楽しそうに笑った。
ヴィオレッタは少し考え込んだ。
(……そういえば、お母様自身の学院時代って、どんな感じだったんだろう)
母にも、自分と同じ十五歳の頃があった。
友達と笑ったり、悩んだり、時には失敗したり。
そんな時間が、きっとあったはずだ。
「エマ、お母様に手紙を書こうと思う」
「かしこまりました」
エマは静かに一礼した。
ヴィオレッタは机の引き出しから便箋を取り出し、ペンを手に取った。
『お母様へ
お元気ですか。私は変わらず、学院で楽しく過ごしています。
最近、学院の古い建物について調べる機会がありました。
その中で、昔は旧温室が「星花の庭」と呼ばれていたと知りました。
お母様も、学院に通っていた頃に行かれたことがありますか?』
そこまで書いて、ヴィオレッタは手を止めた。
事件のことまで書くべきだろうか。
けれど、今はまだ自分自身も事情をよく分かっていない。
誤解を招くような書き方は避けたかった。
ヴィオレッタは少し考え、最後にこう書き添えた。
『もしよければ、今度お母様の学院時代のお話も聞いてみたいです。
ヴィオレッタ』
「……よし」
書き終えた便箋を見つめ、ヴィオレッタは小さく頷いた。
まずは、これでいい。
母が何を知っているのかは、返事が来てから考えよう。
◇
その頃。
学院の別棟にある資料室では、マーガレット・ウェルズが一冊の古い名簿を開いていた。
机の上には、昨日届いた匿名の手紙と、そこに添えられていた記録の断片が置かれている。
エリザベート・ローウェル。
イザベラ・アルバレス。
確かに、二人は同じ年に学院へ入学していた。
そして、春の招待会にも参加している。
だが、マーガレットが気にしていたのは、そこではなかった。
「……おかしいわね」
彼女は小さく呟いた。
古い名簿の余白に、薄い筆跡で何かが書き込まれている。
年月を経て色褪せていたが、注意深く見れば、まだ読めた。
『エリザベート・ローウェル――招待辞退』
マーガレットは眉を寄せた。
招待を辞退した。
それなら、彼女は星花の庭の催しには参加しなかったはずだ。
ところが、別の記録には彼女の名前が残されている。
しかも、そこには奇妙な一文が添えられていた。
『本人の辞退申し出を認めず』
「……そんな」
マーガレットは思わず声を漏らした。
招待会には、辞退を認める決まりがあったはずだ。
それなのに、誰かがその申し出を認めなかった。
いったい、誰が。
マーガレットは慎重に次のページをめくった。
そこには、当時の招待会を運営していた生徒たちの名前が並んでいた。
そして、その代表者の欄に、一人の名前が記されていた。
『イザベラ・アルバレス』
「…………」
マーガレットはしばらく動けなかった。
だが、さらに記録を確認すると、もう一つ気になることがあった。
代表者の名前の横に、小さく追記がされていたのだ。
『異議申し立てにより、運営権限を停止』
マーガレットはゆっくりと顔を上げた。
「……イザベラ様が、止めようとした……?」
けれど、その疑問に答えてくれる者はいなかった。
記録には、誰が異議を申し立てたのかも、誰が辞退を認めなかったのかも書かれていない。
分かるのは、ただ一つ。
あの日、星花の庭では、誰かの意思が踏みにじられたということだけだった。
◇
同じ夜。
アルバレス公爵家の屋敷では、イザベラ・アルバレスが娘から届いた手紙を読んでいた。
静かな書斎。
暖炉の火が、壁に柔らかな影を落としている。
イザベラは便箋を開くと、嬉しそうに微笑んだ。
「あら……ヴィオレッタからだわ」
娘からの手紙は、何度受け取っても嬉しいものだった。
たとえ内容が授業のことや友人との何気ない出来事であっても、イザベラにとっては何より大切な便りだった。
以前、ヴィオレッタが『今日はお菓子がとても美味しかったです』と書いてきた時など、同じ菓子を屋敷でも用意させようとして、夫に笑われたこともある。
(……あの子ったら、本当に可愛いのだから)
イザベラは頬を緩めながら、手紙を読み進めた。
学院で楽しく過ごしていること。
古い建物について調べる機会があったこと。
そして。
『星花の庭』
その四文字を見た瞬間、イザベラの指が止まった。
「…………」
彼女はしばらく便箋を見つめていた。
先ほどまで浮かんでいた柔らかな笑みが、静かに消えていく。
「……どうして、今になって」
誰に聞かせるでもない、小さな呟きだった。
暖炉の火が、ぱちりと音を立てる。
イザベラは目を閉じた。
脳裏に浮かんだのは、遠い昔の光景。
春の陽射しが差し込む、ガラス張りの温室。
白い花々。
そして、涙をこらえながら立っていた、一人の少女の姿だった。
『……イザベラ様は、私の味方だと思っていました』
あの日の声が、今も耳に残っている。
イザベラはゆっくりと目を開けた。
そして、机の引き出しから、小さな木箱を取り出した。
鍵を開けると、中には古びたリボンと、一通の手紙が収められていた。
深い青色の封蝋。
星と花を組み合わせた模様。
イザベラはその封筒を見つめ、静かに呟いた。
「……エリザベート」
その声には、長い年月を経ても消えない後悔が滲んでいた。
「あなたとの約束を、私はまだ果たせていないわ」
そして、彼女は娘の手紙をもう一度読み返した。
最後に記された、無邪気な一文。
『もしよければ、今度お母様の学院時代のお話も聞いてみたいです』
イザベラは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……ヴィオレッタ」
娘は、まだ何も知らない。
けれど、いつまでも知らないままでいられるとは限らない。
イザベラは新しい便箋を取り出し、ペンを手に取った。
そして、しばらく迷った末に、最初の一行を書き記した。
『ヴィオレッタへ。
あなたに、会って話したいことがあります』
その夜、アルバレス公爵家からフィオラ女学院へ、一通の返書が届けられることになった。




