第57話 差出人のない招待状
フィオラ女学院の朝は、今日も穏やかだった。
少なくとも、ヴィオレッタはそう思っていた。
「おはよう、リリ、アリア」
「おはようございます、ヴィオレッタ様」
「おはようございます」
教室に入ると、リリが嬉しそうに顔を上げ、その隣でノートを広げていたアリアも丁寧に挨拶を返してくれた。
ヴィオレッタは自分の席に鞄を置き、ふと思い出したように教科書を取り出す。
「あ、そうだ。アリア、昨日の課題なんだけど、少し聞いてもいい?」
「はい。どちらでしょうか?」
「最後の問題。途中からどうしても計算が合わなくて」
アリアはヴィオレッタのノートに目を通すと、すぐに一か所を指差した。
「こちらですね。この式を先に整理してから代入すると、計算しやすくなります」
「あっ、なるほど! そっちから計算すればよかったんだ」
「はい。少し分かりにくい問題でしたので」
「ありがとう、アリア。やっぱり説明が上手だね」
「いえ、そんな……お役に立てたなら嬉しいです」
アリアが控えめに微笑むと、リリも嬉しそうに頷いた。
「アリアさんは本当に勉強熱心ですものね」
「ありがとうございます。でも、私もまだまだ学ぶことばかりです」
その謙虚な返事に、ヴィオレッタは小さく笑った。
(……優秀な人ほど、こういうこと言うんだよね)
そんなことを考えていると、教室の扉が開き、一人の女子生徒が入ってきた。
見覚えのない生徒だった。
制服の胸元には上級生を示す徽章が付いており、長い黒髪をきっちりとまとめている。
少女は教室を見渡すと、迷うことなくヴィオレッタの席へ向かってきた。
「失礼いたします。ヴィオレッタ・アルバレス様でいらっしゃいますか?」
「はい、そうですが」
「こちらをお預かりしております」
差し出されたのは、一通の封筒だった。
厚手の白い紙に、深い青色の封蝋が施されている。
けれど、そこには家紋も差出人の名前もなかった。
「……私宛てですか?」
「はい。ご本人に直接お渡しするよう、頼まれております」
「どなたからでしょう?」
少女はわずかに困ったような顔をした。
「申し訳ございません。私も存じ上げないのです。学院の事務室を通じて依頼を受けましたので」
「そうなんですね。ありがとうございます」
ヴィオレッタが封筒を受け取ると、少女は丁寧に一礼して教室を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、リリが不思議そうに首を傾げる。
「どなたからのお手紙でしょうか?」
「うーん……何だろう?」
ヴィオレッタは封筒を裏返した。
封蝋には家紋の代わりに、小さな星と花を組み合わせた模様が刻まれている。
(……見たことない印だなぁ)
封を開け、中の便箋を取り出す。
そこには、流れるような美しい文字で、短い文章が記されていた。
『ヴィオレッタ・アルバレス様
本日、放課後。
旧温室にて、お待ちしております。
どうか、お一人でお越しください。
あなたに、お伝えしたいことがございます』
「…………」
ヴィオレッタはしばらく黙って便箋を見つめた。
(……えっ、何これ?)
差出人不明。
場所は旧温室。
しかも、一人で来てほしいという指定まである。
(……どう考えても怪しいんだけど!?)
「ヴィオレッタ様?」
リリが心配そうに顔を覗き込んできた。
「何かございましたか?」
「あ、ううん。ちょっと変わったお誘いが来ただけ」
「お誘い、ですか?」
「うん。放課後に旧温室へ来てほしいんだって」
その言葉に、アリアが顔を上げた。
「旧温室、ですか?」
「アリア、知ってるの?」
「はい。現在は授業では使われていない建物です。園芸に関する古い資料や備品が保管されていると聞いておりますが……」
アリアは少し考え込んだ。
「ただ、通常は生徒が自由に出入りする場所ではなかったと思います」
「……そうなの?」
「はい。念のため、先生に確認された方がよろしいかと」
もっともな意見だった。
ヴィオレッタも頷きかけたが、便箋の最後に書かれた一文が目に入った。
『この招待は、あなたにしか意味を持ちません』
(……あなたにしか、って)
何だか妙に引っかかる言い方だった。
ヴィオレッタは便箋を折り畳み、封筒へ戻した。
「そうだね。まずは先生に聞いてみるよ」
◇
昼休み。
食堂でその話をすると、セレスティアは目を丸くした。
「ええっ!? 差出人の分からない手紙!?」
「うん。ちょっと変わってるよね」
「変わってるどころじゃないよ! ヴィオレッタ、一人で行っちゃ駄目だからね!」
「まだ行くって決めてないよ」
「絶対だよ!?」
身を乗り出すセレスティアに、ヴィオレッタは苦笑した。
「分かったってば」
すると、向かいに座っていたカトレアが口を開いた。
「旧温室か……懐かしいね」
「カトレア、行ったことあるの?」
「一度だけね。去年、学院の古い建物について調べる機会があって、その時に外から見たんだ」
カトレアは少し考えるように視線を落とした。
「確か、今は鍵が掛けられていたはずだよ」
「じゃあ、ますます変だね」
「そうだね。少なくとも、普通のお茶会の招待ではなさそうだ」
ヴィオレッタは改めて封筒を取り出した。
「あと、これ。封蝋の模様なんだけど、誰か見覚えない?」
テーブルの上に置くと、セレスティアとカトレアが身を寄せた。
青い封蝋に刻まれた、小さな星と花。
「……うーん」
セレスティアが首を傾げる。
「貴族の家紋じゃないよね?」
「少なくとも、私の知っている家のものではないかな」
カトレアもそう答えた。
リリはじっと模様を見つめていたが、やがて小さく首を振った。
「申し訳ありません。私にも分かりません」
「そっか。ありがとう」
ヴィオレッタは封筒をしまおうとした。
その時だった。
「あの……少し、よろしいでしょうか」
アリアが控えめに声を上げた。
「どうしたの?」
「その模様、どこかで見たような気がするんです」
「えっ、本当?」
「はい。ただ、すぐには思い出せなくて……」
アリアは申し訳なさそうに眉を下げた。
「生徒会のお手伝いで、古い学院資料を整理した時だったかもしれません」
「学院の資料?」
「はい。もしよろしければ、放課後に確認してみます」
「ありがとう、アリア。でも、無理はしないでね」
「いえ。私も少し気になりますので」
アリアは静かに微笑んだ。
その横で、セレスティアが腕を組む。
「とにかく、ヴィオレッタは一人で行かないこと!」
「はいはい」
「返事が軽い!」
「ちゃんと聞いてるってば」
いつものやり取りに、カトレアが小さく笑った。
「ふふ。まあ、私もセレスと同じ意見だよ。何か分かるまでは慎重にした方がいい」
「うん、そうする」
ヴィオレッタは素直に頷いた。
もっとも、その時の彼女は、まだこの手紙を少し変わった悪戯か何かだと思っていた。
◇
放課後。
ヴィオレッタは教員室で旧温室について尋ねてみた。
すると、担当の教師は少し驚いた顔をした。
「旧温室ですか? あちらは現在、使用を停止していますよ」
「やっぱり、そうなんですね」
「ええ。建物自体は残っていますが、生徒が立ち入ることは認めていません。何かありましたか?」
ヴィオレッタは少し迷ったものの、差出人不明の手紙が届いたことを説明した。
教師は眉をひそめた。
「それは妙ですね。手紙を見せていただけますか?」
「はい」
ヴィオレッタが封筒を差し出すと、教師は便箋を確認し、しばらく考え込んだ。
「……少なくとも、学院が正式に出した案内ではありません」
「そうですよね」
「こちらで確認しておきます。アルバレスさんは旧温室へ行かず、今日は普段どおりお過ごしください」
「分かりました。よろしくお願いします」
ヴィオレッタは丁寧に頭を下げ、教員室を後にした。
(……やっぱり悪戯なのかな)
それなら、それでいい。
少なくとも、危ない場所にわざわざ行く必要はないだろう。
そう考えて廊下を歩いていると、前方からアリアが小走りで近づいてきた。
「ヴィオレッタ様!」
「あ、アリア。どうしたの?」
「先ほどの封蝋について、少し分かったことがありまして」
「本当?」
「はい。生徒会で保管されている古い記録を確認してみたんです」
アリアは手にしていたノートを開いた。
そこには、例の封蝋とよく似た模様が丁寧に写し取られている。
「これ……同じだね」
「はい。ただ、完全に一致するかは、まだ分かりません」
「どんな資料に載ってたの?」
「学院の創立初期に関する記録です」
アリアは一度言葉を切った。
「その中に、現在は使われていない施設についての記述がありまして……」
「……旧温室?」
「はい」
ヴィオレッタは思わず目を見開いた。
アリアは静かに頷いた。
「ただ、少し気になることがあるんです」
「何?」
「その記録には、旧温室のことが別の名前で書かれていました」
「別の名前?」
アリアはノートに記された文字を指差した。
『星花の庭』
「……星花の庭?」
「はい。昔は、そう呼ばれていたそうです」
ヴィオレッタは封蝋の模様を思い出した。
星と、花。
確かに、名前と一致している。
「じゃあ、あの手紙を出した人は、昔の学院のことを知ってるのかな」
「その可能性はあると思います」
アリアは頷いたが、表情はどこか硬かった。
「ですが……もう一つ、気になる記述がありました」
「まだあるの?」
「はい」
アリアは少し躊躇ってから、静かに続けた。
「その場所は、ある出来事をきっかけに使われなくなった、と」
「……ある出来事?」
「詳しいことは書かれていませんでした。ただ……」
アリアはノートの最後の行を指差した。
そこには、古い記録から書き写したという一文が記されていた。
『星花の庭は、最後の招待をもって閉ざされた』
「……最後の招待?」
ヴィオレッタは思わず呟いた。
招待。
その言葉に、胸の奥が妙にざわつく。
今日、自分に届いた手紙。
差出人のない封筒。
星と花の封蝋。
そして、旧温室への招待。
(……えっ、ちょっと待って)
偶然にしては、出来すぎている。
ヴィオレッタが言葉を失っていると、アリアがそっと声をかけた。
「ヴィオレッタ様。やはり、この件は先生方にお任せした方がよろしいと思います」
「……うん。そうだね」
ヴィオレッタは頷いた。
その時、廊下の向こうからセレスティアの声が響いた。
「ヴィオレッタ!」
振り向くと、セレスティアとリリがこちらへ駆け寄ってくる。
「もう! 探したんだから!」
「ごめんね。先生に相談してたんだ」
「それならいいけど……」
セレスティアはほっとしたように息をついた。
リリも安心した様子で微笑む。
「ヴィオレッタ様が旧温室へ向かわれたのではないかと、少し心配してしまいました」
「行ってないよ。ちゃんと先生にも話したし」
「よかったです」
その笑顔を見て、ヴィオレッタも少し肩の力を抜いた。
けれど。
その日の夕方、学院の旧温室では、一つの異変が起きていた。
長い間使われていなかった扉の前。
そこに、誰かが一輪の白い花を置いていたのだ。
花の下には、小さな紙片が挟まれていた。
『一人目は、来なかった』
そして、その裏側には、別の名前が記されていた。
『リリアーナ・エヴァンズ』
夕暮れの風が、白い花びらを静かに揺らした。




