第56話 私が選びたい未来
週明けのフィオラ女学院は、いつもどおりの賑わいに包まれていた。
午前の授業を終えたヴィオレッタが教科書を片付けていると、隣の席からリリが声をかけてきた。
「ヴィオレッタ様、今日のお昼はいかがなさいますか?」
「いつもどおり、みんなで食べようか」
「はい!」
嬉しそうに頷くリリを見ながら、ヴィオレッタはふと週末のことを思い出した。
(……そういえば、セレスの顔合わせ、どうだったんだろう)
昨日はベルクハルト伯爵家との顔合わせの日だったはずだ。
セレスティアなら、きっと礼儀正しく相手と話せただろう。そこは何も心配していない。ただ、彼女自身がどう感じたのかは気になっていた。
「ヴィオレッタ!」
その時、教室の入口から聞き慣れた声が響いた。
振り向くと、セレスティアがこちらへ向かって手を振っている。
「セレス!」
「ちょっと時間ある?」
「うん、あるよ」
ヴィオレッタが立ち上がると、セレスティアは嬉しそうに笑った。
「昨日のこと、話したくて!」
その一言で、何の話かはすぐに分かった。
ヴィオレッタはリリへ顔を向ける。
「ごめんね、リリ。先に食堂へ行っててもらっていい?」
「もちろんです。お席を取っておきますね」
「ありがとう」
リリはにこやかに答え、アリアと一緒に教室を出ていった。
ヴィオレッタはセレスティアに向き直る。
「じゃあ、どこで話そうか」
「中庭に行かない? 今日は天気もいいし!」
「いいね」
二人は並んで廊下を歩き始めた。
◇
中庭のベンチに腰を下ろすと、セレスティアは待ちきれないとばかりに話し始めた。
「それでね、昨日ちゃんと会ってきたの!」
「うん。どうだった?」
「思ってたよりずっと話しやすい人だったよ!」
セレスティアは顔合わせの様子を楽しそうに語った。
アルフォンス・ベルクハルトという少年は、落ち着いた雰囲気で、礼儀正しく、こちらの話をきちんと聞いてくれる人物だったらしい。
剣術が好きだと話しても嫌な顔をせず、むしろ興味を持ってくれたという。
「それはよかったね」
「うん! 私もちょっと安心した!」
「じゃあ、縁談は進めることになったの?」
ヴィオレッタが尋ねると、セレスティアは少し考えてから首を振った。
「まだ分からない。お父様とお母様にも、もう少し考えたいって伝えたの」
「そっか」
「相手の方はいい人だと思う。でも、結婚するかどうかは、それだけじゃ決められないでしょ?」
「うん。そうだね」
セレスティアは膝の上で手を組んだ。
「私ね、今回のことで少し分かった気がするの」
「何が?」
「将来のことって、誰かに決めてもらうだけじゃ駄目なんだなって」
ヴィオレッタは静かに耳を傾けた。
「ルミナス家を継ぐことは、ずっと前から決まってた。私も、それが嫌だと思ったことはないよ。お父様やお母様みたいに、立派に家を守りたいって思ってる」
「うん」
「でも、そのために何もかも我慢しなきゃいけないって、どこかで思い込んでたのかもしれない」
セレスティアは少し照れたように笑った。
「今はね、ちゃんと自分で選びたいって思う。誰と一緒に生きるのかも、どんな侯爵になるのかも」
「いいと思うよ」
「……本当?」
「もちろん。セレスがそう決めたなら、私は応援するよ」
ヴィオレッタはそう答えてから、少し考えた。
「それにね、セレス。私、一つ思うことがあるんだけど」
「何?」
「結婚するって、相手に合わせて自分を全部変えることじゃないと思うんだよね」
セレスティアは瞬きをした。
「……自分を、変える?」
「うん。もちろん、お互いに譲り合ったり、歩み寄ったりすることは必要だと思う。でも、どちらか一人がずっと我慢して、相手の理想どおりになろうとするのは、何か違う気がするんだ」
「……うん」
「だって、一緒に生きていく相手なんでしょ? だったら、セレスが楽しい時は一緒に笑ってくれて、つらい時には話を聞いてくれる。そういう人だったら素敵だなって思う」
セレスティアは、じっとヴィオレッタを見つめていた。
「……ヴィオレッタは、そういう人がいいの?」
「私? うーん、そうだね」
ヴィオレッタは少し考えてから笑った。
「少なくとも、相手の前でずっと気を張ってなきゃいけないのは疲れちゃうかな。家に帰った時くらい、ほっとしたいし」
「……そっか」
「それに、セレスは普段から十分頑張ってるでしょ? だから、これから一緒に生きる人の前では、少しくらい甘えられたっていいと思うよ」
その言葉に、セレスティアの目がわずかに見開かれた。
「……甘えても、いいの?」
「もちろん。セレスだって、何でも一人でできなきゃいけないわけじゃないんだから」
ヴィオレッタは穏やかに微笑んだ。
「むしろ、セレスが無理してる時に『頑張らなくていいよ』って言ってくれる人がいたら、私も安心できるな」
セレスティアはしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……ヴィオレッタみたいな?」
「え?」
「ううん、何でもない!」
セレスティアは慌てて首を振った。
ヴィオレッタは不思議そうに瞬きをしたが、それ以上は追及しなかった。
「でも、アルフォンス様も話しやすい方だったんでしょ? これから少しずつ、お互いのことを知っていけばいいんじゃないかな」
「……うん」
「急いで答えを出さなくてもいいと思うよ。セレスのお父様とお母様も、そう言ってくれたんだよね?」
「そう! 私が納得するまで考えていいって!」
「だったら、今はそれで十分だよ」
ヴィオレッタは微笑んだ。
「それに、どんな答えを出したとしても、セレスがちゃんと考えて決めたことなら、私は応援するから」
「……ヴィオレッタ」
「もちろん、後悔することもあるかもしれないけど……その時はまた考えればいいんじゃない? 一度決めたら、絶対に迷っちゃいけないなんてこともないと思うし」
セレスティアは少し驚いたように目を見開いた。
「……そんなふうに考えたこと、なかった」
「そう?」
「うん。私、何かを決める時は、絶対に正しい答えを選ばなきゃって思ってたから」
「そっか。でも、未来のことなんて、誰にも分からないよ」
ヴィオレッタは少し照れたように笑った。
「だから、正解を当てようとするより、選んだ道を自分で大切にしていく方がいいんじゃないかな」
「……選んだ道を、大切にする」
「うん。もちろん、私も偉そうなこと言えるほど人生経験があるわけじゃないけどね」
ヴィオレッタが冗談めかして笑うと、セレスティアもつられて笑った。
「……ふふ。ヴィオレッタらしいね」
「そうかな?」
「うん。すごく」
セレスティアはしばらくヴィオレッタを見つめていたが、やがて何かを思いついたように身を乗り出した。
「ねえねえ、ヴィオレッタ」
「ん?」
「私、今回結構頑張ったと思わない?」
「うん、頑張ったと思うよ」
「でしょ!?」
「ちゃんと自分の考えを伝えられたんだもんね。すごいよ、セレス」
「……えへへ」
セレスティアは満足そうに頷いた。
けれど、なぜかその場から動こうとしない。
「……セレス?」
「んー?」
「どうしたの?」
「……もうちょっと」
「もうちょっと?」
「褒めて?」
「えっ?」
ヴィオレッタは思わず瞬きをした。
「……セレスって、そんなに褒められたい子だったっけ?」
「ヴィオレッタには褒められたいの!」
「……そうなんだ」
あまりにも堂々と言い切られてしまい、ヴィオレッタは小さく笑った。
「じゃあ……えらいえらい」
そう言って、セレスティアの頭をそっと撫でる。
「わっ……!」
セレスティアは驚いたように目を見開いた。
それから、みるみる頬を赤くする。
「……ヴィ、ヴィオレッタ?」
「ん?」
「……それ、反則じゃない?」
「えっ、何が?」
「だって……!」
セレスティアは何かを言いかけたが、結局言葉にならず、照れ隠しのように笑った。
「……もう! ヴィオレッタって、ほんとずるい!」
「ええっ!? 褒めてって言ったのはセレスでしょ?」
「そうだけど! そうじゃなくて!」
「どっちなの?」
ヴィオレッタが困ったように笑うと、セレスティアはますます頬を赤くした。
「……ねえ、ヴィオレッタ」
「何?」
「手、貸して?」
「手?」
「うん!」
不思議に思いながら差し出すと、セレスティアはその手を両手で包み込んだ。
「……ありがとう」
いつもより少し小さな声だった。
「ヴィオレッタがいてくれて、本当によかった」
「そんな、大げさだよ」
「大げさじゃないって!」
セレスティアは笑いながら、握った手を自分の頬にそっと当てた。
「……えへへ」
「……セレス?」
「ちょっとだけ、このまま」
ヴィオレッタは瞬きをした。
(……今日はずいぶん甘えん坊だなぁ)
けれど、セレスティアがあまりにも嬉しそうなので、何も言わずに付き合うことにした。
「……ねえ、ヴィオレッタ」
「何?」
「私、今回のことがどうなるかは、まだ分からないけど」
「うん」
「これからも、ずっと友達でいてね」
ヴィオレッタは少し驚いたように瞬きをした。
そして、柔らかく笑った。
「当たり前でしょ。そんなの、わざわざ聞かなくてもいいのに」
「……そっか」
セレスティアは嬉しそうに目を細めると、ヴィオレッタの手を頬に当てたまま、もう一度小さく笑った。
「……えへへ。やっぱり大好き」
「もう、セレスったら」
ヴィオレッタもつられて笑ってしまう。
その時だった。
「……お二人で、随分と楽しそうですね?」
不意に背後から聞こえた声に、ヴィオレッタは振り返った。
そこには、にこやかな笑顔を浮かべたリリと、その隣で何とも言えない表情をしているカトレアが立っていた。
「あ、リリ! カトレアも!」
「お二人がなかなか食堂へいらっしゃらないので、お迎えに来てしまいました」
「ご、ごめんね。ちょっと話し込んじゃって……」
「いえ、とんでもありません」
リリはにっこりと微笑んだ。
「とても大切なお時間だったようですし」
「えっ?」
「セレスティア様がヴィオレッタ様のお手を両手で握って、ご自分の頬に当てていらっしゃったので……お邪魔してはいけないかと思ったのですが」
「…………」
ヴィオレッタは瞬きをした。
(……あ、見てたんだ)
隣を見ると、セレスティアは相変わらず嬉しそうに笑っている。
その様子に、ヴィオレッタも小さく笑った。
「セレス、今日はずいぶん甘えん坊なんだよね」
「だって、ヴィオレッタと一緒にいると安心するんだもん!」
「ふふ、そっか」
何気なく答えたヴィオレッタだったが、リリはにっこりと微笑んだ。
「……本当に、仲がよろしいのですね」
「う、うん……?」
声は優しい。表情も穏やかで、言葉遣いだっていつもどおり丁寧だ。
なのに、なぜだろう。
(……あれ? 何か、すっごい圧を感じるんだけど!?)
ヴィオレッタは思わず背筋を伸ばした。
別に悪いことをしていたわけではない。セレスの相談に乗っていただけだし、手を貸してほしいと言われたから貸しただけだ。
それなのに、どうしてこんなにも妙な緊張感があるのだろう。
「え、えっと……リリ?」
「はい、何でしょうか?」
「……怒ってる?」
「いいえ? どうしてですか?」
にこり。
(……いや、絶対何かあるよね!?)
ヴィオレッタが困惑していると、カトレアが口元に手を当てて小さく笑った。
「ふふ……私たち、来るタイミングを間違えたかな?」
「カトレアまで!?」
「いや、だってね。あんなに嬉しそうなセレスは、なかなか見られないから」
「えへへ、そう?」
セレスティアは照れるどころか、嬉しそうに笑った。
「だって、ヴィオレッタって優しいし、何でも聞いてくれるし! 今日だって、すっごく元気もらったんだから!」
「……そうなのですね」
リリはにっこりと微笑んだ。
「ヴィオレッタ様は、本当にお優しいですものね」
「あ、ありが…とう……?」
「ですから、私もつい甘えたくなってしまうお気持ちは、よく分かります」
そう言って、リリはヴィオレッタへ一歩近づいた。
「……ところで、ヴィオレッタ様」
「は、はい!」
「今度は私とも、”二人”でゆっくりお茶をしていただけませんか?」
「も、もちろん!」
「本当ですか?」
「うん、リリと二人でお茶するのも久しぶりだし.....」
ヴィオレッタが微笑むと、リリの表情がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます、ヴィオレッタ様!」
先ほどまで感じていた妙な圧が、嘘のように消えていく。
(……あれ? 戻った?)
ヴィオレッタは不思議そうに瞬きをした。
すると、カトレアも口を開いた。
「ヴィオレッタ、私も今度誘っていいかな?」
「うん、もちろん!」
「ありがとう。じゃあ、楽しみにしてるよ」
カトレアが嬉しそうに微笑むと、セレスティアが頬を膨らませた。
「ちょっと! 私も混ぜてよ!」
「セレスは今、十分に甘えていたじゃないか」
「それとこれは.....!」
それとこれは別!とセレスが言い切る前に、リリがにこりと微笑んだ。
「セレスティア様は、先ほどもヴィオレッタ様にたくさん甘えていらっしゃいましたよね?」
「えっ!?」
セレスティアが思わず言葉を詰まらせる。
ヴィオレッタは再び背筋を伸ばした。
(……やっぱり気のせいじゃなかった!?)
けれど、当のリリは何事もなかったように微笑んでいる。
「それでは、そろそろ食堂へ参りましょうか」
「そ、そうだね!」
ヴィオレッタが頷くと、四人は並んで歩き始めた。
途中、セレスティアが何気なくヴィオレッタの腕を取る。
「ねえ、ヴィオレッタ。今度は一緒にお買い物にも行こうよ!」
「いいね。何か欲しいものがあるの?」
「ううん! ヴィオレッタと行きたいだけ!」
「そっか。じゃあ、みんなも誘おうか」
「えーっ! わたしだけ二人きりでお茶できないなら、買い物は二人きりがいい!」
「……セレス?」
ヴィオレッタが首を傾げた、その時。
「……ヴィオレッタ様?」
反対側から、実に優しい声が聞こえた。
振り向けば、リリがにっこりと微笑んでいる。
「私も、お買い物は大好きです」
「……う、うん! そうだよね!」
(……何で私がこんなに緊張してるの!?)
カトレアはその様子を見て、とうとう堪えきれずに小さく笑い出した。
春の柔らかな日差しの中、少女たちの賑やかな声が廊下に響いていく。
セレスティアの縁談がこれからどうなるのか、まだ誰にも分からない。
けれど、少なくとも今の彼女は、自分の未来を自分で選ぼうとしていた。
そして、その隣には、大切な友人たちがいる。それだけで、十分に心強かった。




