第55話 初めての顔合わせ
休日の朝、ルミナス侯爵邸は普段よりも少しだけ慌ただしかった。
客間には新しい花が飾られ、応接室には磨き上げられた銀の茶器が並んでいる。使用人たちは落ち着いた足取りで準備を進めていたが、今日がいつもとは違う日であることは、その様子からも十分に伝わってきた。
そんな中、セレスティアは自室の鏡の前に立っていた。
「……うん、これでいいかな」
淡い水色のドレスに身を包み、金色の髪を丁寧に整える。華美になりすぎず、それでいて侯爵令嬢としての品格を損なわない装いは、今日の席にふさわしいものだった。
「お嬢様、とてもよくお似合いです」
「ありがとう」
侍女の言葉に微笑み返しながら、セレスティアは鏡の中の自分を見つめた。
(……大丈夫)
礼儀作法も、会話も、相手の家についての知識も、必要な準備は済ませてある。今日の顔合わせで失礼をするようなことはないだろう。
それでも、胸の奥には小さな緊張があった。
(どんな人なんだろう)
ベルクハルト伯爵家の長男、アルフォンス・ベルクハルト。十七歳で、現在は王都の学院に通っているという。
学業優秀で穏やかな人柄。家の仕事にも関心が深く、父親の手伝いをすることもあるらしい。
調べられる範囲では、悪い評判は見つからなかった。
けれど、それだけで相手のすべてが分かるわけではない。
(……まずは会ってみる。それから考えればいいんだよね)
先日、庭園でヴィオレッタに言われたことを思い出す。
『セレスは私の大切な友達だもん』
あの言葉を思い出した途端、セレスティアの頬が少し緩んだ。
(……もう、ヴィオレッタったら)
何でもないことのように、あんな嬉しいことを言うのだから困ってしまう。
しかも本人には、まったく自覚がない。
セレスティアは小さく笑い、背筋を伸ばした。
「よし!」
今日は自分の目で確かめる日だ。
◇
昼前になると、ベルクハルト伯爵家の馬車が侯爵邸へ到着した。
応接室で両家の挨拶が交わされ、セレスティアは両親の隣で優雅に一礼する。
「初めまして。ルミナス侯爵家のセレスティアと申します。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、お招きいただき光栄です。アルフォンス・ベルクハルトと申します」
目の前の少年は、落ち着いた雰囲気の持ち主だった。
濃い茶色の髪に灰色の瞳。整った顔立ちではあるが、派手さよりも知的な印象が強い。
丁寧に頭を下げる姿にも、無理に取り繕った様子はなかった。
「セレスティア嬢のお噂は、以前から伺っております」
「まあ、どのようなお噂でしょう?」
「学業に秀で、剣術にも優れていらっしゃると。侯爵家の後継者として、大変立派な方だと聞いております」
予想していた言葉だった。
セレスティアは微笑みを崩さず、丁寧に礼を述べる。
「過分なお言葉、ありがとうございます。まだまだ学ぶべきことばかりですわ」
会話は滞りなく進んだ。
両家の父親たちは以前から面識があるらしく、領地や商業の話で盛り上がっている。母親同士も穏やかに言葉を交わし、全体として和やかな雰囲気だった。
やがてルミナス侯爵が二人へ視線を向けた。
「せっかくの機会だ。若い二人でも少し話をしてみてはどうかな」
「そうですね。庭園も美しい季節ですし」
伯爵夫人も微笑む。
セレスティアは静かに頷いた。
「それでは、よろしければ庭園をご案内いたします」
「ぜひ、お願いいたします」
二人は席を立った。
◇
庭園には春の花々が咲き、穏やかな風が木々の葉を揺らしていた。
少し離れたところに侍女が控える中、セレスティアとアルフォンスは並んで歩いていた。
「見事なお庭ですね」
「ありがとうございます。母が特に大切にしている場所なんです」
「なるほど。花の配置にも工夫が感じられます」
アルフォンスは庭園を興味深そうに眺めた。
会話は自然だった。
相手の話をよく聞き、無理に自分の知識を披露しようともしない。少なくとも、第一印象は悪くない。
「セレスティア嬢は、剣術を嗜まれるそうですね」
「はい。幼い頃から学んでおります」
「大会でも良い成績を収めていらっしゃるとか」
「ありがとうございます。ですが、まだまだ上には上がいます」
セレスティアの頭には、カトレアの顔が浮かんでいた。
(……次こそは勝つんだから)
思わず口元が緩む。
「剣術がお好きなのですね」
「ええ、とても」
「それは素晴らしいことです」
アルフォンスは穏やかに頷いた。
「何かに熱中できるというのは、良いことだと思います」
セレスティアは少し意外に思った。
貴族令嬢が剣術を好むことに、難色を示す人もいないわけではない。
「……ありがとうございます」
「私自身は剣術が得意ではありませんが、馬術なら少し」
「そうなのですか?」
「はい。もっとも、競技というよりは領地を見て回るためですが」
アルフォンスは小さく笑った。
それから、ふと真面目な顔になる。
「実は、少しお話ししておきたいことがあります」
「何でしょう?」
「今回の縁談についてです」
セレスティアは静かに彼を見た。
「私の家では、将来的にルミナス家との結びつきを深めたいと考えています。私も、その意義は理解しているつもりです」
「はい」
「ですが、私はまだ十七歳です。正直なところ、結婚について具体的に考えたことは、あまりありませんでした」
思いがけない言葉に、セレスティアは瞬きをした。
「……そうなのですか?」
「ええ。家のことは学んでおりますが、自分が誰かの伴侶になるというのは、また別の話ですから」
アルフォンスは少し困ったように笑った。
「ですから、今日の席も緊張しておりました」
セレスティアは驚いた。
ここまで落ち着いて話していた相手が、そんなふうに考えていたとは思わなかったのだ。
「……実は、私も少し緊張しておりました」
「そうでしたか」
「はい。お相手がどのような方なのか、分かりませんでしたから」
アルフォンスは頷いた。
「それは当然ですね。私も同じです」
二人の間に、少しだけ柔らかな空気が流れた。
セレスティアはふと思い出す。
『セレスだって相手の人のこと、まだよく知らないんだよね? だったら、お互い様じゃない?』
(……本当に、そのとおりだったんだ)
思わず笑みがこぼれた。
「何か?」
「いえ。友人に言われたことを思い出しまして」
「ご友人ですか?」
「はい。とても大切な友人です」
その言葉を口にした瞬間、セレスティアの表情が自然と明るくなった。
アルフォンスはそれを見て、穏やかに微笑んだ。
「素敵な方なのでしょうね」
「ええ!」
思わず勢いよく答えてしまい、セレスティアは少しだけ頬を赤くした。
「……失礼いたしました」
「いえ。大切な方のお話をされる時は、誰でもそうなるものです」
アルフォンスは気にした様子もなく答えた。
◇
庭園を一回りした後、二人は東屋でお茶をいただくことになった。
侍女が茶器を整え、静かに下がる。
「セレスティア嬢」
「はい」
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
アルフォンスは少し言葉を選ぶようにしてから、口を開いた。
「あなたは、将来どのような侯爵になりたいとお考えですか?」
セレスティアは一瞬、考え込んだ。
それは今まで何度も聞かれてきた質問だった。
領地を豊かにし、家臣を大切にし、領民の暮らしを守る。侯爵家の後継者として、答えるべき内容は分かっている。
けれど、今日は少し違う答えをしたいと思った。
「……そうですね」
セレスティアは庭園へ目を向けた。
「領地を豊かにし、皆が安心して暮らせるようにしたいと思っています。それは、今も変わりません」
「立派なお考えです」
「ですが……」
セレスティアは小さく笑った。
「私自身も、楽しく生きていたいと思っています」
アルフォンスは目を瞬かせた。
「楽しく、ですか?」
「はい。もちろん、責任を忘れるつもりはありません。でも、家のためだけに生きるのではなく、自分の好きなことも大切にしたいのです」
セレスティアは真っ直ぐに彼を見た。
「剣術も、友人たちと過ごす時間も。そういうものを失わずに、立派な侯爵になりたいと思っています」
少しの沈黙があった。
やがてアルフォンスは、静かに頷いた。
「……なるほど」
そして、穏やかに微笑む。
「素晴らしいと思います」
セレスティアはほっと息をついた。
けれど、彼は続けた。
「ただ、現実には難しいこともあるでしょう。侯爵家を継ぐとなれば、自由な時間は今よりずっと少なくなるはずです」
「……はい」
「それでも、両方を大切にしたいと?」
セレスティアは迷わず頷いた。
「はい」
アルフォンスはしばらく彼女を見つめ、それから小さく笑った。
「……強い方ですね」
「そうでしょうか」
「ええ。私はまだ、そこまで自分の将来をはっきりと考えられていません」
彼の声には、わずかな羨望が混じっているように感じられた。
セレスティアは首を振った。
「私も、すべて決まっているわけではありません。ただ……」
少しだけ考えてから、続ける。
「自分の気持ちを大切にしてもいいのだと、教えてくれた人がいるんです」
アルフォンスは静かに耳を傾けた。
「その方のおかげで、以前より少しだけ、自分の将来を楽しみにできるようになりました」
セレスティアは微笑んだ。
春の風が、二人の間を通り抜けていく。
◇
顔合わせが終わる頃には、午後の日差しが少し傾いていた。
ベルクハルト伯爵家の馬車を見送った後、セレスティアは両親と応接室へ戻った。
「どうだったかな、セレスティア」
父の問いに、セレスティアは少し考えた。
「……誠実な方だと思いました」
「そうか」
「お話もよく聞いてくださいましたし、私の考えも尊重してくださいました」
侯爵夫人が嬉しそうに微笑む。
「それはよかったわ」
「ですが……」
セレスティアは一度言葉を切った。
「まだ、よく分かりません」
父も母も、急かすことなく続きを待っている。
「良い方だとは思います。でも、今日初めてお会いしたばかりですから。これからどうしたいのかは、もう少し考えたいです」
侯爵はゆっくり頷いた。
「それでいい」
「……よろしいのですか?」
「もちろんだ。今日は互いを知るための第一歩にすぎない」
侯爵夫人も優しく微笑んだ。
「焦らなくていいのよ、セレスティア」
「……ありがとうございます」
セレスティアはほっとしたように笑った。
その夜、自室に戻ったセレスティアは、窓辺の椅子に腰を下ろした。
顔合わせは無事に終わった。アルフォンスは誠実で、話しやすい人物だったし、自分の考えもきちんと伝えることができた。
ひとまず、今日のところは十分だろう。
(……明日、ヴィオレッタに話そうっと)
そう考えた途端、自然と笑みがこぼれた。
きっとヴィオレッタは、相手がどんな人だったのか尋ねてくるだろう。そして、セレスティアが自分の考えを伝えられたと知れば、いつものように嬉しそうに笑ってくれるはずだ。
(……あの顔、好きなんだよね)
何となくそんなことを思い、セレスティアは小さく笑った。
明日は学院へ戻る日だ。
いつもなら休日が終わるのを少し残念に思うところだが、今夜ばかりは明日が待ち遠しかった。




