第53話 侯爵令嬢の縁談
翌朝、ヴィオレッタはいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外では小鳥が鳴き、春の柔らかな日差しがカーテンの隙間から差し込んでいる。
いつもならもう少し寝ていたいと思うところだが、今日は妙に頭が冴えていた。
(……縁談、かぁ)
昨夕、セレスティアから聞いた話が頭から離れない。
ルミナス侯爵家の後継者である彼女に、結婚相手の候補が現れたという。
貴族社会では珍しくない話なのだろう。ヴィオレッタ自身も公爵家の令嬢なのだから、いずれ似たような話が持ち上がる可能性は十分にある。
それは理解している。
理解しているのだけれど。
(……やっぱり、ゲームの攻略対象かもしれない子に縁談って、ちょっとびっくりするよね)
そもそも、ヴィオレッタが知っているのは前世の友人から聞いた断片的な情報だけだ。
フィオラ女学院を舞台にしたスピンオフ作品では、本編の主人公が女の子たちを攻略するらしい。そして自分は、そこでも悪役令嬢として登場する。
それ以上のことは、ほとんど知らない。
(もしかして、縁談をきっかけに何か事件が起きたり……?)
そこまで考えて、ヴィオレッタは首を振った。
(いや、何でもゲームのイベントに結びつけるのはよくないよね)
少なくとも、今のセレスは困っている。
だったら、友人として話を聞く方が先だ。
「お嬢様、そろそろお支度を」
扉の向こうからエマの声がした。
「うん、今行くよ」
ヴィオレッタはベッドから起き上がった。
◇
昼休み。
ヴィオレッタはリリとアリアを伴い、いつもの食堂へ向かっていた。
「そういえば、ヴィオレッタ様。今日はセレスティア様が少し遅れるそうです」
「そうなの?」
「はい。ご実家からのお手紙が届いたそうで、確認してからいらっしゃると」
リリの言葉に、ヴィオレッタは思わず足を止めかけた。
(……実家からの手紙)
昨日の話が頭をよぎる。
けれど、リリもアリアも事情を知らないのだから、ここで妙な反応をするわけにはいかない。
「そっか。じゃあ、先に席を取っておこうか」
「はい!」
食堂に着くと、カトレアが先に座っていた。
「やあ、ヴィオレッタ。リリもアリアも、こんにちは」
「こんにちは、カトレア」
三人が席につくと、自然と昨日の稽古の話になった。
「セレス、次の休みに稽古できないかもしれないって言ってたよね」
「ああ。何か用事ができたようだね。少し残念だけれど、仕方ないよ」
カトレアは穏やかに微笑んだ。
「それにしても、最近のセレスは随分と熱心なんだ。新しい技を覚えるたびに、私に試したがるからね」
「……カトレアも大変だね」
「楽しいから構わないよ」
そう答えるカトレアは、本当に楽しそうだった。
やがて食堂の入口から、聞き慣れた声が響く。
「みんな、お待たせ!」
セレスティアだった。
いつもどおり元気よく駆け寄ってくると、空いていた席に腰を下ろす。
「ごめんね、ちょっと手紙を読んでたら遅くなっちゃって!」
「大丈夫だよ。お家から?」
「うん! お母様から」
セレスティアは笑顔で答えた。
ただ、その後にほんの一瞬、ヴィオレッタへ視線を向ける。
ヴィオレッタも小さく頷いた。
それだけで、セレスティアは少し安心したように笑った。
◇
午後の授業が終わる頃、ヴィオレッタのもとに一通の小さな手紙が届いた。
差出人はセレスティア。
『放課後、少し時間ある? 昨日の話の続きがしたいの』
短い文章だった。
(……やっぱり、何か進展があったのかな)
ヴィオレッタは返事を書き、放課後に学院の中庭で会う約束をした。
待ち合わせ場所に着くと、セレスティアはすでにベンチに座っていた。
「あっ、ヴィオレッタ!」
「待たせちゃった?」
「ううん、今来たところ!」
ヴィオレッタが隣に座ると、セレスティアは少しだけ声を落とした。
「……今日ね、お母様から詳しい話が届いたの」
「縁談の?」
「うん」
セレスティアは頷く。
「お相手は、ベルクハルト伯爵家のご子息なんだって。年齢は私より二つ上で、今は王都の学院で学んでいるらしいの」
「へえ……」
「家同士の付き合いもあるし、お父様も悪い話じゃないって」
「そうなんだ」
ヴィオレッタは頷いた。
相手の家柄も年齢も、聞く限りでは特に不自然なところはない。
ただ、それだけでセレスに合う人かどうかは分からない。
「それで、顔合わせの日も決まったの?」
「来週の休み。ルミナス家でお茶会を開くことになったの」
「結構すぐなんだね」
「そうなのよ! もう少し時間があると思ってたのに」
セレスティアは頬を膨らませた。
「でも、準備は大丈夫なんでしょ?」
「もちろん! 礼儀作法も会話も問題ないし、お相手の家についても調べておくつもり」
迷いなく答える姿に、ヴィオレッタは思わず笑った。
「さすがセレス」
「でしょ?」
セレスティアは得意げに胸を張った。
けれど、すぐにその表情が少しだけ変わる。
「……ただね」
「うん?」
「お母様の手紙に、ちょっと気になることが書いてあったの」
セレスティアは膝の上で手を組んだ。
「お相手の方が、私のことをとても高く評価してくださっているんだって」
「それは、いいことじゃない?」
「うん。そうなんだけど……」
セレスティアは困ったように笑う。
「勉強も、礼儀作法も、剣術も。ルミナス家の後継者として申し分ないって」
ヴィオレッタは黙って耳を傾けた。
「褒めてもらえるのは嬉しいよ。私だって頑張ってきたんだもん。でも、まだ会ったこともない人に、そんなふうに言われると……」
「……ちょっと不思議な感じ?」
「そう! それ!」
セレスティアは勢いよく頷いた。
「私のこと、どこまで知ってるんだろうって思っちゃって」
ヴィオレッタは少し考えた。
「でも、セレスだって相手の人のこと、まだよく知らないんだよね?」
「うん」
「だったら、お互い様じゃない?」
セレスティアが瞬きをした。
「……お互い様?」
「そう。相手の人も、セレスがどんな子なのか知りたいんじゃないかな。だから顔合わせするんだと思うよ」
「……なるほど」
セレスティアは少し考え込んだ後、ふっと笑った。
「ヴィオレッタって、時々すごく単純なこと言うよね」
「えっ、それ褒めてる?」
「褒めてる褒めてる!」
「本当かなぁ……」
二人で笑った。
しばらくして、セレスティアが少し真面目な顔になる。
「ねえ、ヴィオレッタ」
「何?」
「私、ちゃんと会ってみようと思う」
「うん。それがいいと思うよ」
「それで、相手の人がどんな人なのか、私自身で確かめる」
その声には、昨日よりもはっきりとした意思があった。
ヴィオレッタは微笑んだ。
「セレスなら大丈夫だよ」
「……ありがと」
セレスティアは照れたように笑った。
そして、何かを思いついたように顔を上げる。
「あっ、そうだ!」
「ん?」
「ヴィオレッタ、今度の休み、うちに来ない?」
「……え?」
「顔合わせの前に、一度お茶でもしようよ! 久しぶりに二人でゆっくり話したいし!」
「それはいいけど……」
ヴィオレッタは首を傾げた。
「セレス、準備で忙しいんじゃない?」
「大丈夫! 時間くらい作れるって!」
「……本当に?」
「もちろん!」
満面の笑みで答えるセレスティア。
その顔を見て、ヴィオレッタは小さく息を吐いた。
(……まあ、セレスがそう言うなら)
「分かった。お邪魔するね」
「やった!」
セレスティアは嬉しそうに手を叩いた。
その笑顔は、ここ数日で一番晴れやかに見えた。
ヴィオレッタもつられて笑う。
ただ、心の片隅では、まだ少しだけ気になっていた。
(……ベルクハルト伯爵家、か)
聞いたことのない名前だった。
少なくとも、前世で友人から聞いたゲームの話には出てこなかったと思う。
もっとも、そもそも詳しい話など聞いていないのだから、覚えがなくても当然なのだけれど。
(……何事もなければいいな)
ヴィオレッタはそんなことを考えながら、隣で楽しそうに話すセレスティアの声に耳を傾けていた。




