第51話 お嬢様と侍女の夜
春季交流会が終わり、ヴィオレッタが寮の自室へ戻った頃には、窓の外がすっかり茜色に染まっていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
扉を開けると、エマがいつもの穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「ただいま、エマ」
「交流会はいかがでしたか?」
「うん、楽しかったよ。……でも、ちょっと疲れたかな」
「ふふっ、お嬢様がそのようにおっしゃるのは珍しいですね」
「だって、本当に色々あったんだもん」
ヴィオレッタはそう言いながら、ソファへ腰を下ろした。
エマは慣れた手つきで紅茶を淹れ始める。湯気とともに柔らかな香りが広がると、ようやく一日の終わりを実感できた。
「今日はお茶会だったんでしょう?」
「そう。三十人も集まったんだよ」
「まあ、それは賑やかだったでしょうね」
「賑やかだったよ。特にセレスがね」
「セレスティア様が?」
「剣術の話で盛り上がってるところに飛び込んできて、危うくお茶会が剣術談義の会になるところだったんだから」
エマがくすりと笑う。
「それは、セレスティア様らしいですね」
「カトレアまで話に乗りそうになってたし……二人とも剣のことになると夢中なんだから」
「お嬢様が間に入られたのですか?」
「うん。でも、私が何かするより、みんなで笑ってるうちに自然と落ち着いた感じかな」
ヴィオレッタは差し出されたカップを受け取り、一口飲んだ。
「……おいしい」
「ありがとうございます」
エマは嬉しそうに微笑み、向かいの椅子へ腰を下ろすよう促されて、少しだけ遠慮がちに座った。
「それでね、リリが作った花飾りがすごく好評だったんだよ」
「リリアーナ様が?」
「うん。最初は三十個も作れるか心配だったみたいだけど、装飾班のみんなと協力して、ちゃんと完成させたの」
「それは素晴らしいですね」
「でしょ? リリ、最近どんどん頼もしくなってる気がする」
ヴィオレッタは嬉しそうに話した。
エマはそんな彼女を、穏やかな目で見つめている。
「お嬢様も、随分と変わられましたね」
「……え?」
思いがけない言葉に、ヴィオレッタはカップを持つ手を止めた。
「昔のお嬢様でしたら、他の方の成長をこれほど嬉しそうにお話しになることは、あまりありませんでしたから」
「……そうかな」
「はい」
エマは微笑んだ。
「もちろん、今のお嬢様が一番素敵だと思っております」
「……エマ、そういうことさらっと言うよね」
「本心ですので」
ヴィオレッタは少し照れくさくなり、視線を逸らした。
(……昔の私、そんなにひどかったのかな)
幼い頃の自分を思い出せば、否定できないところがある。
転生前の記憶を取り戻す以前は、我が儘で、周囲を振り回してばかりいた。
エマにも、きっと随分迷惑をかけたはずだ。
「……ねえ、エマ」
「はい、お嬢様」
「昔の私って、やっぱり大変だった?」
エマは一瞬、驚いたように目を瞬かせた。
それから、少し考える素振りを見せる。
「そうですね……」
「そこ、迷うんだ」
「正直に申し上げてもよろしいですか?」
「うん」
「……大変でございました」
「即答!」
ヴィオレッタが思わず声を上げると、エマは楽しそうに笑った。
「お気に召さないお菓子が出ると、厨房まで作り直しを命じに行かれたこともございましたし」
「……うん」
「お気に入りのリボンが見つからず、屋敷中の使用人を探し回らせたことも」
「……うん」
「それから――」
「ちょっと待って! まだあるの!?」
「もちろんでございます」
「……もう十分です」
ヴィオレッタが両手で顔を覆うと、エマはとうとう声を立てて笑った。
(……穴があったら入りたい)
自分でも覚えていることと、覚えていないことが混ざっているのが、余計につらい。
「ですが、お嬢様」
ひとしきり笑った後、エマは柔らかな声で続けた。
「今のお嬢様は、誰かのために一生懸命になれる方です」
「……エマ」
「今日のお話を聞いて、それがよく分かりました」
ヴィオレッタはしばらく黙っていた。
褒められるのは、まだ少し苦手だ。
けれど、エマにそう言ってもらえるのは、素直に嬉しかった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
エマは微笑み、空になりかけたカップに紅茶を注ぎ足した。
◇
夜。
湯浴みを終えたヴィオレッタは、鏡台の前に座っていた。
エマが銀色の髪を丁寧に梳かしていく。
櫛が髪を通るたび、静かな音が部屋に響いた。
「ねえ、エマ」
「はい」
「今日ね、ちょっと嬉しいことがあったんだ」
「どのようなことでしょう?」
「交流会で、最初は緊張してた子たちが、最後には楽しそうに話してたの」
鏡越しにエマを見る。
「身分も違うし、普段はあまり話さないような子たちだったんだけど……好きな本の話とか、花の話とかで盛り上がっててね」
「それは素敵ですね」
「うん。私、ああいうのがもっと増えたらいいなって思った」
エマは櫛を動かす手を止めず、静かに耳を傾けていた。
「でも、学院の中だけで簡単に変えられることばかりじゃないんだろうね」
「……そうかもしれません」
「公爵令嬢って立場も、便利なことばかりじゃないし」
ヴィオレッタが苦笑すると、エマは鏡越しに目を合わせた。
「ですが、お嬢様だからこそ、できることもあると思います」
「……そうかな」
「はい。今日のお話を聞いて、そう感じました」
ヴィオレッタは少し考え、それから微笑んだ。
「そっか。じゃあ、できることからやってみようかな」
「それがよろしいかと」
エマは最後に髪を整え、そっと櫛を置いた。
「はい、終わりました」
「ありがとう、エマ」
「お嬢様、本日は早めにお休みくださいね」
「うん。さすがに今日は眠いかも」
立ち上がったヴィオレッタは、ふと振り返った。
「エマ」
「はい?」
「いつもありがとう」
エマは少し驚いたように目を丸くした。
それから、いつもの穏やかな笑顔を浮かべる。
「……こちらこそ、お嬢様」
ヴィオレッタは照れくさくなって、そそくさと寝台へ向かった。
(……なんだか、改まって言うと恥ずかしいな)
けれど、たまにはちゃんと言葉にしてもいいだろう。
窓の外では、春の夜風が静かに木々を揺らしている。
学院で過ごす毎日は賑やかで、楽しいことばかりではないけれど、帰ってきた時にこうして迎えてくれる人がいる。
それだけで、明日も頑張れそうな気がした。
ヴィオレッタは毛布を引き寄せ、そっと目を閉じた。
長い一日が、ようやく終わった。




