第49話 公平な席
新しい席札を受け取ったエミ・リードは、何度も小さく頭を下げた。
「ありがとうございます、アルバレス様。フォスターさんも、ベルモンド様も……」
「お気になさらないでください。こちらこそ、確認が遅くなってしまいましたから」
ヴィオレッタが微笑むと、エミは大切そうに花飾りを手に取った。
淡い青色の花に結ばれた、小さな白い札。
そこには、本人が慣れ親しんだ名前が記されている。
「……綺麗ですね」
エミが嬉しそうに呟いた。
その隣で、マリアンヌ・ローゼンベルクが花飾りを覗き込む。
「確かに、素敵ですわね。リードさん」
「……はい!」
エミは少し驚いたように顔を上げ、それから嬉しそうに笑った。
ヴィオレッタは二人の様子を見て、ほっと胸を撫で下ろす。
(……よかった。これで一件落着かな)
少なくとも、名前の件については。
あとはお茶会を無事に終わらせるだけだ。
そう思いながら次の卓へ向かおうとした時、背後から小さな声が聞こえた。
「……少し、特別扱いではありませんこと?」
ヴィオレッタは足を止めた。
声の主は、同じ卓に座っていた二年生の令嬢だった。
淡い金髪を綺麗に結い上げた少女が、どこか不満そうに席札を見つめている。
「……特別扱い、ですか?」
ヴィオレッタが尋ねると、令嬢は少し驚いたように姿勢を正した。
「い、いえ……その、アルバレス様を非難するつもりではございません」
「はい。どうぞ、お話しください」
ヴィオレッタは穏やかに促した。
令嬢は少し迷ってから口を開く。
「……私たちは皆、申し込みの際に正式な名前を記しております。それなのに、お一人だけ希望する呼び名に変更されるというのは、少し不公平ではないかと思いまして」
周囲の生徒たちが、静かに顔を見合わせた。
エミの表情が曇る。
「……すみません。私、そんなつもりじゃ……」
「リードさんを責めているわけではありませんわ」
令嬢は慌てて首を振った。
「ただ、規則は皆に等しく適用されるべきではないかと……」
その言葉に、クラリッサが小さく頷いた。
「……確かに、そのご意見にも一理ありますわね」
ヴィオレッタはクラリッサへ視線を向けた。
「クラリッサさん?」
「参加者全員に同じ基準を適用することは、公平な運営の基本です。例外を認める場合には、その理由を明確にしておく必要があるでしょう」
落ち着いた声だった。
責めるような響きはない。
けれど、その言葉には確かな重みがあった。
(……なるほど)
ヴィオレッタは少し考えた。
確かに、誰か一人だけ特別な扱いを受けているように見えれば、不満を抱く人もいるだろう。
しかし――。
「……では、皆さんも希望する呼び名があれば、変更できるようにするのはいかがでしょう?」
ヴィオレッタがそう言うと、令嬢が目を瞬かせた。
「……え?」
「エミさんだけではなく、希望される方がいれば、同じように対応するんです」
「……ですが、それでは……」
「もちろん、正式な名簿はそのままにしておきます。席札だけ、ご本人が呼ばれたい名前にするということで」
ヴィオレッタは微笑んだ。
「それなら、特別扱いにはならないと思うのですが……」
令嬢は少し考え込んだ。
クラリッサも黙っている。
やがて、アリアが口を開いた。
「……それでしたら、生徒会側でも対応できると思います」
「アリア?」
「はい。予備の席札もありますし、変更希望があれば私が確認します。ただ、全員分を一度に変更するのは難しいので、希望する方だけに限る形になりますが……」
「……なるほど」
クラリッサが頷いた。
「確かに、その方法であれば、特定の方だけを優遇することにはなりませんね」
そして、先ほどの令嬢へ視線を向ける。
「いかがでしょうか?」
令嬢は少し迷った後、小さく頷いた。
「……それなら、異論はございません」
「ありがとうございます」
ヴィオレッタが微笑む。
その時、別の生徒が遠慮がちに手を挙げた。
「あの……でしたら、私も少しお願いしてよろしいでしょうか?」
「はい、どうぞ」
「私、普段は家名ではなく、名前で呼ばれることが多くて……」
その言葉に、周囲から小さな笑い声が上がった。
「まあ、私もですわ」
「私も、親しい方には名前で呼んでいただいています」
少しずつ、会話が広がっていく。
ヴィオレッタはその様子を見て、思わず微笑んだ。
(……よかった)
最初は不満から始まった話だった。
けれど、こうして話してみれば、皆それぞれに希望があるらしい。
それを知ることができただけでも、意味があったのかもしれない。
◇
「……アルバレス様」
しばらくして、クラリッサがヴィオレッタへ声をかけた。
「少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「はい。もちろんです」
二人は会場の端へ移動した。
窓の外には、春の花が風に揺れている。
クラリッサは少し考えるように沈黙してから、口を開いた。
「……先ほどの件について、少しお話ししたいことがあります」
「はい」
「私は、規則や決まりごとは、誰に対しても同じように適用されるべきだと考えています」
ヴィオレッタは静かに頷いた。
「それは、とても大切なことだと思います」
「……ありがとうございます」
クラリッサは少しだけ表情を和らげた。
「ですが、アルバレス様は、そこに個人の希望を取り入れようとなさいました」
「……はい」
「最初は、少し危うい考え方だと思ったのです」
「……危うい、ですか?」
「ええ。誰か一人の希望を認めれば、他の方も同じように求めるかもしれません。そうなれば、決まりごとが意味を失ってしまうのではないかと……」
ヴィオレッタは少し考えた。
クラリッサの言葉は、理解できる。
皆が好き勝手に振る舞えば、行事の運営は成り立たない。
けれど――。
「……でも、クラリッサさん」
「はい?」
「決まりごとって、皆が気持ちよく過ごすためにあるんじゃないでしょうか」
クラリッサが目を瞬かせた。
「……と、いいますと?」
「もちろん、何でも自由にしていいとは思いません。でも、誰かが困っている時に、少し工夫すれば解決できるなら、その方がいいのかなって」
ヴィオレッタは穏やかに続ける。
「決まりを守ることも大事ですけど、どうしてその決まりがあるのかを考えることも、大事だと思うんです」
「…………」
クラリッサは黙り込んだ。
その表情は真剣だった。
ヴィオレッタは少しだけ不安になる。
(……言い過ぎたかな)
相手は伯爵令嬢であり、しかも自分よりずっと真面目に行事の運営を考えている。
そんな相手に、偉そうなことを言ってしまったかもしれない。
「……すみません。何だか説教みたいになっちゃって」
「いえ」
クラリッサは静かに首を振った。
「……むしろ、考えさせられました」
「……え?」
「私はこれまで、決まりを守ることが公平さにつながるのだと思っていました」
クラリッサは窓の外へ視線を向ける。
「けれど、同じ決まりを適用することと、全員が同じように過ごせることは、必ずしも一致しないのかもしれませんね」
ヴィオレッタは少し驚いた。
クラリッサが、そんなふうに自分の考えを言葉にするとは思っていなかったのだ。
「……クラリッサさん」
「はい」
「私も、まだよく分かってないです」
「……え?」
「何が正しいのかって、難しいですよね」
ヴィオレッタは少し照れくさそうに笑った。
「だから、皆で考えられたらいいなって思います」
クラリッサはしばらくヴィオレッタを見つめていた。
やがて、ふっと微笑む。
「……そうですね」
その笑顔は、これまで見た中で一番自然なものだった。
◇
会場へ戻ると、カトレアがヴィオレッタを見つけて近付いてきた。
「ヴィオレッタ、少しいいかな?」
「うん。どうしたの?」
「実は、四つ目の卓で少し困ったことがあって……」
「……え?」
ヴィオレッタは思わず身構えた。
(……また何か!?)
カトレアは少し困ったように笑う。
「大きな問題ではないんだけど、話題が少し偏ってしまっているみたいなんだ」
「……偏る?」
「うん。剣術の話ばかりになってしまっていて、他の方が会話に入りにくそうでね」
「……ああ」
ヴィオレッタは何となく察した。
この学院には、剣術に熱心な生徒が多い。
そして、その話題が好きな人同士で盛り上がれば、他の人が入りにくくなることもあるだろう。
「……なるほど」
ヴィオレッタは小さく頷いた。
「じゃあ、ちょっと行ってみようか」
「ありがとう」
二人は並んで四つ目の卓へ向かった。
その後ろ姿を、クラリッサが静かに見つめていた。
規則を守ること。
相手の気持ちを考えること。
そのどちらも大切だと、頭では理解していたつもりだった。
けれど、今日の出来事を通して、少しだけ見え方が変わった気がする。
(……アルバレス様は、やはり不思議な方ですわね)
クラリッサは小さく微笑んだ。
そして、自分もまた、会場の様子を確かめるために歩き始めた。




