第48話 もう一つの名前
春季交流会のお茶会は、穏やかな賑わいに包まれていた。
五つの円卓では、それぞれに会話が弾み始め、最初は緊張していた生徒たちの表情にも少しずつ笑顔が増えている。
そんな中、ヴィオレッタ・アルバレスは会場の入口付近でアリアを呼び止めた。
「アリア、少し確認したいことがあるんだけど」
「はい、何でしょうか?」
アリアは抱えていた書類を持ち直し、すぐに顔を上げた。
「参加者名簿、見せてもらってもいい?」
「もちろんです」
差し出された名簿に目を通し、ヴィオレッタは先ほどの名前を探す。
エミ・リード。
確かに、そう書かれていた。
「……やっぱり」
「何かございましたか?」
「うん。あそこの卓にいるリードさんの席札なんだけど、エミリアって書いてあるんだよね」
「……え?」
アリアが目を瞬かせる。
「エミリア、ですか?」
「そう。本人はエミって名乗ってたし、名簿もエミになってるから、ちょっと気になって」
「……なるほど」
アリアは名簿へ視線を落とした。
「装飾班には、生徒会から参加者名簿の写しを渡しているはずです。そちらも確認してみますね」
「お願いできる?」
「はい。少々お待ちください」
アリアは近くにいた生徒会の補佐係へ声をかけ、控えの書類を取り寄せた。
ヴィオレッタはその間、会場へ視線を向ける。
マリアンヌとエミは、まだ少しぎこちないながらも会話を続けていた。
どうやら、お菓子の話から授業の話へと移ったらしい。
(……よかった。あっちは大丈夫そう)
今のところ、席札の違いが問題になっている様子はない。
けれど、名前は大切なものだ。
せっかくリリたちが心を込めて作った席札なのだから、間違いがあるなら直しておきたい。
「ヴィオレッタ様」
アリアが戻ってきた。
「こちらが装飾班へ渡した名簿の写しです」
「ありがとう」
二人で紙を覗き込む。
そこには――。
『エミリア・リード』
と記されていた。
「……あれ?」
ヴィオレッタは首を傾げた。
「こっちもエミリアになってる」
「……本当ですね」
アリアも眉を寄せる。
「でも、生徒会の正式な参加者名簿はエミになっています。どうしてでしょう……」
「……途中で名前が変わった、とか?」
「それなら、訂正の記録があるはずなんですが……」
アリアは少し考え込んだ。
やがて、何かに気付いたように顔を上げる。
「……もしかすると、申し込みの時に何かあったのかもしれません」
「申し込み?」
「はい。参加者の中には、最初に提出した書類と、後から確認した名前が違っていた方が何人かいらっしゃったんです」
「……そうなんだ」
「私も補佐役として確認を手伝ったんですが、全員分を直接受け付けたわけではないので……」
アリアは少し申し訳なさそうに言った。
「……すみません。確認が足りませんでした」
「いや、アリアが謝ることじゃないよ」
ヴィオレッタは慌てて首を振った。
「まだ何があったか分からないし。それに、今気付けたんだから大丈夫」
「……はい」
アリアは小さく頷いた。
その時、背後から声がした。
「……何か問題でも?」
振り返ると、クラリッサ・ベルモンドが立っていた。
「クラリッサさん」
「アルバレス様。先ほどからお二人が名簿をご覧になっているようでしたので、少し気になりまして」
「実は……」
ヴィオレッタが事情を説明すると、クラリッサは静かに眉を寄せた。
「……なるほど。席札のお名前が、正式な名簿と異なっているのですね」
「はい」
「それは、早めに確認した方がよろしいでしょう」
クラリッサは落ち着いた声で続ける。
「お名前を誤って記すことは、相手によっては失礼にあたります。まして、今回のように身分の異なる生徒が集まる場では、些細なことが誤解につながる可能性もありますから」
「……そうですね」
ヴィオレッタは頷いた。
クラリッサの言葉は少し堅いが、間違ってはいない。
「では、私が装飾班の方へ確認してまいりましょうか」
クラリッサが申し出る。
しかし、ヴィオレッタは少し考えてから首を振った。
「ありがとうございます。でも、まずは本人に聞いてみようかなと思います」
「……ご本人に?」
「はい。もしかしたら、本人にとっては何か理由があるのかもしれませんし」
クラリッサは少し意外そうな顔をした。
「……なるほど」
そして、小さく頷く。
「でしたら、私もご一緒してよろしいでしょうか」
「もちろんです」
ヴィオレッタは微笑んだ。
◇
三人は、エミの座る卓へ向かった。
ちょうど会話が一段落したところらしく、マリアンヌたちは紅茶を楽しんでいる。
「皆様、少しよろしいでしょうか?」
ヴィオレッタが声をかけると、全員が顔を上げた。
「アルバレス様」
「お茶会の途中に申し訳ありません。リードさんに少し確認したいことがありまして」
「……私、ですか?」
エミが不思議そうに目を瞬かせた。
「はい。こちらの席札なのですが……」
ヴィオレッタは花飾りをそっと持ち上げる。
「お名前が『エミリア』となっているようで。名簿では『エミ』になっていたので、どちらが正しいのかと思いまして」
その瞬間、エミの表情が変わった。
「……あ」
小さく声を漏らし、視線を落とす。
ヴィオレッタは思わず口を閉じた。
(……あれ?)
単なる書き間違いなら、すぐに訂正してもらえば済む話だ。
けれど、エミは何か言いにくそうにしている。
「……リードさん?」
「……すみません」
エミは小さく頭を下げた。
「それ、私のせいなんです」
「……え?」
周囲の生徒たちも、不思議そうに顔を見合わせた。
エミは少し迷ってから、ゆっくりと口を開く。
「……私、本当の名前はエミリアなんです」
「……そうなのですか?」
クラリッサが静かに尋ねた。
「はい。でも、普段はエミって呼ばれていて……」
エミは膝の上で手を握った。
「入学した時も、エミで通していたんです。けれど、交流会の申し込み用紙には、正式な名前を書かなければいけないと思って……」
「……なるほど」
ヴィオレッタは頷いた。
エミリアが正式な名前で、エミが普段の呼び名。
それなら、二つの名前があること自体は不思議ではない。
「では、席札は間違いではないのですね?」
ヴィオレッタが尋ねると、エミは小さく頷いた。
「……はい」
「それならよかったです」
ヴィオレッタはほっと微笑んだ。
けれど、エミの表情は晴れなかった。
「……でも」
「はい?」
「……私、エミリアって呼ばれるのが、少し苦手で……」
その言葉に、ヴィオレッタは目を瞬かせた。
エミは視線を落としたまま続ける。
「昔から、家族にはエミって呼ばれていて……。エミリアって呼ばれると、何だか自分じゃないみたいで」
「……そうなのですね」
「だから、学院でもエミって名乗っていたんです」
小さな声だった。
けれど、その言葉には確かな思いが込められていた。
ヴィオレッタは少しだけ考えた。
正式な名前がエミリアであることは分かった。
けれど、本人はエミと呼ばれたい。
それなら――。
「……では、エミさんとお呼びしてもよろしいですか?」
ヴィオレッタが尋ねると、エミは驚いたように顔を上げた。
「……え?」
「ご本人がその方がいいのでしたら、私はエミさんとお呼びしたいです」
「……でも」
エミは戸惑ったようにクラリッサを見た。
「……正式な名前じゃないのに、いいんでしょうか」
クラリッサは少し考え込んだ。
「……確かに、正式な記録には本名を用いるべきだと思います」
その言葉に、エミの肩が僅かに落ちる。
しかし、クラリッサは続けた。
「ですが、日常の呼び方まで統一しなければならない理由はありませんわね」
「……え?」
「少なくとも、お茶会でどのようにお呼びするかは、ご本人の希望を尊重しても差し支えないでしょう」
エミが目を見開く。
ヴィオレッタも少し驚いた。
(……クラリッサさん)
思っていたより、ずっと柔軟な答えだった。
「……ありがとうございます」
エミは小さく頭を下げた。
クラリッサは穏やかに頷く。
「ただ、名簿と席札の表記が異なる場合は、運営側で確認できるようにしておいた方がよろしいでしょう」
「はい。それは私が対応します」
アリアがすぐに答えた。
「正式な記録はエミリア・リードのままにして、呼び名としてエミさんを併記しておきますね」
「……ありがとうございます!」
エミの顔がぱっと明るくなった。
その様子を見て、ヴィオレッタも微笑んだ。
「では、席札もエミさんに直してもらいましょうか」
「……よろしいんですか?」
「もちろんです。せっかくの花飾りですし、ご本人が嬉しいと思える名前の方がいいでしょう?」
エミはしばらくヴィオレッタを見つめていた。
やがて、小さく頷く。
「……はい!」
その声には、先ほどまでの不安がほとんど残っていなかった。
◇
しばらくして、ヴィオレッタたちは会場の端にある控えの机へ移動した。
アリアは名簿へ丁寧に書き込みを加え、クラリッサは席札の扱いについて装飾班の担当者へ確認を取っている。
「……なるほど」
クラリッサが小さく呟いた。
「エヴァンズ様たちは、予備の席札も用意してくださっていたそうです」
「えっ、本当?」
「はい。名前の訂正が必要になった時のために、白紙の札を数枚残してあるとのことです」
「……リリ、すごいなぁ」
ヴィオレッタは思わず感心した。
準備の時点で、そんなところまで考えていたらしい。
「では、こちらを使いましょう」
クラリッサが差し出した小さな紙片に、アリアが丁寧な文字で『エミ・リード』と書き込む。
それを花飾りのリボンへ結び直せば、あっという間に新しい席札が完成した。
「……できました!」
アリアが嬉しそうに微笑む。
「これなら、エミさんも喜んでくださると思います」
「うん!」
ヴィオレッタも頷いた。
その時、クラリッサが静かに口を開いた。
「……アルバレス様」
「はい?」
「先ほど、あなたがご本人に確認するとおっしゃった理由が、少し分かった気がいたします」
「……え?」
「私は最初、名簿と席札のどちらが正しいかを確認すれば、それで済む問題だと思っておりました」
クラリッサは完成した席札へ視線を落とす。
「ですが、正しい名前が分かっただけでは、リードさんのお気持ちまでは分からなかったでしょうね」
「……そうですね」
ヴィオレッタは小さく頷いた。
「私も、聞いてみるまでは分かりませんでした」
「……そうですか」
クラリッサは少しだけ微笑んだ。
「やはり、あなたは不思議な方ですわ」
「……またそれですか?」
ヴィオレッタが思わず苦笑すると、クラリッサも小さく笑った。
「失礼いたしました」
その笑顔は、以前よりも少し柔らかかった。
ヴィオレッタは完成した席札を手に取り、エミのいる卓へ視線を向ける。
小さな花に結ばれた、新しい名前。
それは、ただの紙片に過ぎない。
けれど、そこには確かに、誰かの気持ちが込められていた。
(……リリたちが作ってくれて、よかったな)
ヴィオレッタはそう思いながら、花飾りをそっと持ち直した。
お茶会は、まだ始まったばかり。
けれど、小さな名前の行き違いを通して、少しずつ何かが変わり始めていた。




