第40話 微笑みの令嬢
春季交流会まで残り三週間となったフィオラ女学院では、普段の授業に加えて行事の準備が少しずつ始まり、生徒会に所属する上級生たちが忙しそうに廊下を行き来する姿も目立つようになっていた。
もっとも、その光景を眺めるヴィオレッタ・アルバレスの心境は、決して穏やかなものではない。
(春季交流会……絶対何かあるよね)
昨日から何度も同じことを考えているものの、肝心のゲームに関する記憶は曖昧なままで、そもそも自分が知っている本編とこの世界では生徒会長からして違うのだから、交流会の内容まで同じとは限らない。
それでも悪役令嬢としての勘が告げている。
(お茶会がある時点で危険なんだよ……!)
もちろん、そんな勘に何の根拠もないことは本人も分かっていた。
「ヴィオレッタ様、そちらではありませんよ」
「え?」
考え事をしながら廊下を曲がろうとしたところで、隣を歩いていたリリアーナに袖を引かれた。
「中庭へ向かうのでしたら、こちらです」
「あ、そうだった」
「先ほども同じところを曲がろうとしていらっしゃいましたよ」
「……そうだったっけ?」
「はい」
にこりと微笑まれる。
否定できない。
「でもリリがいるから大丈夫だね」
「……もう」
リリアーナは困ったように眉を下げたものの、袖を掴んでいた手はすぐには離さず、そのままヴィオレッタを正しい方向へ案内してくれた。
「そういえば、アリアさんは?」
「今日は生徒会のお仕事があるそうで、お昼は少し遅くなると仰っていました」
「そっか。もう忙しいんだね」
「ええ。でも、とても楽しそうでしたよ」
「ならよかった」
そう答えながら、ヴィオレッタは少しだけ安心する。
アリアが生徒会に関わることで物語が進むのは怖いが、本人が楽しそうにしているなら、それを邪魔したいとは思わない。
問題があるとすれば、主人公の周囲で何かが起きた時に、自分まで巻き込まれる可能性が高いということくらいだろう。
(いや、それが一番問題なんだけどね!)
「アルバレス様」
不意に背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには見覚えのない少女が立っていた。
柔らかな金茶色の髪を綺麗に結い上げ、淡い紫色の瞳を持つその令嬢は、控えめな装飾の制服を隙なく着こなし、こちらと目が合うと優雅に一礼する。
「突然お声がけして申し訳ありません。私、同じ一年のクラリッサ・ベルモンドと申します」
「あ、初めまして。ヴィオレッタ・アルバレスです」
「存じております。アルバレス公爵家のご令嬢ですもの」
クラリッサは上品に微笑み、それからリリアーナへも丁寧に頭を下げた。
「エヴァンズ様も、ごきげんよう」
「ごきげんよう、ベルモンド様」
リリアーナが応じる。
その様子を見ながら、ヴィオレッタは首を傾げた。
(誰だろう……?)
同級生らしいが、少なくとも話したことはない。
もっとも、入学してから覚えた顔など片手で数えられる程度なので、知らない相手の方が圧倒的に多いのだが。
「実は、少しお伺いしたいことがございまして」
「私に?」
「ええ。春季交流会のことです」
その言葉に、ヴィオレッタの背筋がぴんと伸びた。
(来た!!)
交流会。
その単語を聞いただけで警戒心が跳ね上がるあたり、もはや条件反射である。
「アルバレス様は、今年の交流会について何かお聞きになっていますか?」
「えっと……お茶会とか、色々あるってくらいなら」
「そうですか。実は私、交流会の準備に少し関わることになりまして、皆様がどのような催しを楽しみにされているのか、お話を伺っているんです」
「へえ、そうなんだ」
「ええ。せっかくの機会ですから、できるだけ多くの方に楽しんでいただきたいと思いまして」
なるほど。
どうやら普通に行事の準備をしているらしい。
(よかった、イベント発生じゃなかった)
ヴィオレッタが内心で胸を撫で下ろしていると、クラリッサは微笑みを崩さないまま続けた。
「ところで、アルバレス様はフォスターさんと親しくされているそうですね」
「アリアさん?」
「ええ。首席で入学された、あの方です」
「うん、友達だよ」
あっさり答えると、クラリッサの瞳が僅かに細められた。
「……そうなのですね」
「?」
「いえ、少し意外でしたので。アルバレス様ほどのお立場の方が、平民の生徒とそこまで親しくされるなんて」
その言葉に、隣のリリアーナがほんの少し表情を変えた。
けれどヴィオレッタは気付かない。
「そう?」
「ええ。もちろん、身分の違う方と交流すること自体は素晴らしいことだと思います。ただ、学院には様々な立場の方がいらっしゃいますから、周囲の目を気にされる方も少なくないでしょう」
「周囲の目?」
「はい。アルバレス様のお立場であれば、なおさら」
クラリッサはあくまで穏やかだった。
声を荒らげることも、露骨にアリアを貶めることもせず、ただ心配しているかのように言葉を重ねていく。
「例えば、アルバレス様が特定の生徒を特別に扱われていると受け取られれば、他の方々が気後れしてしまうこともあるかもしれません」
「……なるほど」
ヴィオレッタは少し考えた。
確かに、自分は公爵令嬢だ。
その立場が周囲に影響を与えることは、九歳の誕生日の一件でも十分に思い知っている。
だからこそ、相手の言っていることを完全に否定するつもりはなかった。
「でも、それってアリアさんと友達なのをやめる理由にはならないよね?」
「……え?」
クラリッサが初めて僅かに目を瞬かせた。
「私が誰かと仲良くしてるせいで困る人がいるなら、その人の話は聞くけど……アリアさんと友達でいること自体が悪いわけじゃないでしょ?」
「それは、もちろん……」
「だったら大丈夫じゃないかな」
にこりと笑う。
クラリッサはしばらくヴィオレッタを見つめ、それからゆっくりと微笑みを取り戻した。
「……そうですね。少し余計な心配をしてしまったようです」
「ううん。心配してくれてありがとう」
「…………」
今度こそ、クラリッサの返事が僅かに遅れた。
嫌味として言ったつもりではない。
少なくとも本人の中では、あくまで相手の立場を考えた忠告だった。
けれど、それをここまで真正面から受け止められるとは思っていなかったのだろう。
「それでは、私はこれで失礼いたします。交流会では、またお話しできる機会があると嬉しいですわ」
「うん。またね」
クラリッサは丁寧に一礼し、廊下の向こうへ歩いていった。
その背中を見送りながら、リリアーナが小さく息を吐く。
「……ヴィオレッタ様」
「ん?」
「今の方のお話、どう思われました?」
「え? 交流会のこと?」
「いえ、アリアさんについてです」
「ああ」
ヴィオレッタは少し考えてから答えた。
「まあ、言ってることは分かるかな。私が公爵令嬢だからって、何してもいいわけじゃないし」
「そうですね」
「でもアリアさんと友達なのは別の話だから、そこは変えるつもりないよ」
「……はい」
リリアーナは安心したように微笑んだ。
「私も、そう思います」
「だよね」
ヴィオレッタも笑う。
ただ、リリアーナはもう一度だけクラリッサが去った方向へ視線を向けた。
丁寧な言葉遣いに、落ち着いた物腰。
決して失礼なことを言ったわけではない。
それでも、どこか気になる。
(……あの方、どうしてわざわざヴィオレッタ様にあんなことを?)
その疑問は、しばらく胸の中に残ることになった。
◇
「クラリッサ様、いかがでした?」
人通りの少ない廊下へ戻ったクラリッサに、待っていた二人の令嬢が近づいてきた。
「アルバレス様とお話しできまして?」
「ええ」
「やはりフォスターさんのことを?」
「少しだけ」
クラリッサは歩みを止め、先ほどのやり取りを思い返す。
ヴィオレッタ・アルバレス。
アルバレス公爵家の一人娘であり、学院でも一際目立つ美貌を持つ少女。
入学前からその名は知っていたし、気位が高く、容易に他人を寄せつけない人物だという噂も耳にしていた。
ところが実際に話してみれば、こちらの言葉を必要以上に疑うこともなく、かといって自分の考えを簡単に曲げるわけでもない。
何より印象的だったのは、平民の少女を友達だと言い切った時の表情だった。
「……少し、変わった方ですわね」
「変わった?」
「ええ。思っていたよりも、ずっと」
クラリッサは小さく微笑む。
「それで、フォスターさんのことはどうなさるんです?」
隣の令嬢が尋ねた。
「生徒会にまで入られたそうですし、これ以上あの方が目立てば……」
「まだ何もする必要はありませんわ」
「ですが――」
「焦ることはありません。春季交流会まで、まだ時間がありますもの」
その声は柔らかかったが、二人の令嬢はそれ以上口を挟まなかった。
「それに、私が気になっているのはフォスターさんだけではなくなりましたし」
「……アルバレス様ですか?」
「ええ」
クラリッサは窓の外へ視線を向ける。
「公爵令嬢というお立場でありながら、あそこまで身分を気にせず振る舞えるなんて……少し不思議だと思いません?」
「それは……」
「私は、あの方が何を考えていらっしゃるのか、もう少し知りたいですわ」
そう言って微笑んだクラリッサの表情には、先ほどまでの穏やかさとは違う、何かを見極めようとするような色が浮かんでいた。
◇
「セレスー!」
「ヴィオレッタ!」
中庭へ辿り着くと、先に待っていたセレスティアが大きく手を振った。
「遅かったじゃん」
「途中でちょっと話してた」
「誰と?」
「クラリッサさんって子」
「……誰?」
「私も今日初めて話した」
「ふうん」
セレスティアはあまり興味がなさそうだったが、リリアーナが少しだけ考えるような顔をした。
「ベルモンド様は伯爵家のご令嬢だったと思います。確か、学院の行事に関わる家柄の方で……」
「へえ、そうなんだ」
「ヴィオレッタ様、もう少し気にされた方が……」
「何を?」
「……いえ」
リリアーナは苦笑する。
こういうところだ。
公爵令嬢でありながら、相手の家柄をほとんど気にしない。
それがヴィオレッタの良いところでもあり、少し心配になるところでもあった。
「それよりお腹空いた!」
「ヴィオレッタ、さっきまで人生について考えてたんじゃなかったの?」
「人生とお昼ご飯は別だよ」
「どういう理屈?」
「お腹空いたら考え事できないでしょ」
「それはそうだけど!」
セレスティアが笑う。
リリアーナもつられて微笑みながら、持ってきた昼食を広げ始めた。
いつもと変わらない、穏やかな昼休み。
けれどヴィオレッタは知らない。
先ほど話したクラリッサ・ベルモンドが、単に交流会の準備をしている令嬢というだけではないことも、彼女がアリアの周囲で広がる噂に以前から関心を寄せていたことも。
そして何より、春季交流会で自分が警戒すべき相手が、必ずしもゲームの主人公や攻略対象だけとは限らないことも。
(とりあえず交流会では、紅茶を誰にもかけないようにしよう)
そんなことを真剣に考えている公爵令嬢の隣で、セレスティアが楽しそうに笑っていた。
なお、現時点でヴィオレッタが紅茶を誰かにかける予定はない。
もちろん、誰かからかけられる予定もない。
少なくとも、今のところは。




