第38話 増えていく視線
アリア・フォスターが生徒会の補佐役を引き受けたという話は、本人が思っていたよりもずっと早く学院中へ広がった。
正式な生徒会役員になったわけではなく、あくまで仕事を手伝いながら適性を見るための補佐なのだが、そんな細かな事情まで丁寧に伝わるはずもなく、翌日には「今年の首席が生徒会へ入った」、さらに昼頃には「平民の特待生が入学早々生徒会に抜擢された」と、少しずつ形を変えながら囁かれている。
「聞いた? フォスターさんのこと」
「生徒会でしょう?」
「入学してまだ何日ですの?」
「首席だからって、随分と特別扱いされるのね」
「それだけかしら」
廊下の片隅で交わされた最後の一言に、何人かが意味ありげな笑みを浮かべた。
「最近、アルバレス様たちと随分親しくされているそうですし、生徒会長にも気に入られたのでしょう?」
「まあ……平民なのに、大したものですわね」
表面だけなら褒め言葉にも聞こえるが、その場にいる誰一人としてアリアを褒めてなどいなかった。
◇
「……なんか、前より見られてる気がします」
昼休み、中庭へ向かう廊下を歩きながらアリアが小さく呟くと、隣にいたヴィオレッタは周囲を見回したものの、特に何も感じなかったらしく首を傾げる。
「そう?」
「アルバレス様は気にならないんですか?」
「何が?」
「……いえ」
アリアは苦笑した。
気付いていない。
周囲から向けられる視線の多くは確かにアリアへ向いているが、その隣を歩くヴィオレッタにも相当な数が向けられている。
「ヴィオレッタ様は昔からこういう方です」
反対側を歩いていたリリアーナが、少し困ったように笑った。
「そういう方って?」
「周りからどれほど注目されていても、あまりお気付きにならないという意味です」
「え、私そんな見られてる?」
「見られていますよ」
「なんで?」
「公爵令嬢だからでは?」
「ああ」
あっさり納得したヴィオレッタを見て、アリアとリリアーナは顔を見合わせる。
「……それで納得されるんですね」
「だって他に理由ないでしょ」
あると思う。
銀髪に青い瞳を持つヴィオレッタは、黙って歩いているだけなら学院でもかなり目立つ美少女なのだが、本人にはその自覚もないらしい。
「それより、昨日返事したんだよね?」
「はい。今朝、エレノア様にお伝えしました」
「どうだった?」
「よろしくお願いしますって。それから今日の放課後、生徒会の皆さんに紹介していただけるそうです」
「…………」
ヴィオレッタの足が一瞬だけ遅くなる。
(来た)
生徒会メンバーとの顔合わせ。
(これ絶対イベントじゃん)
昨日あれだけ「原作とは違う」と理解したばかりなのに、こういう話を聞くと反射的にゲームの展開を警戒してしまう。
「アルバレス様?」
「大丈夫。人生について考えてただけ」
「またですか?」
「最近人生について考えることが多くて」
「十五歳で?」
「十五歳だからだよ」
「そういうものなんでしょうか……」
アリアが真剣に考え始めたので、リリアーナが苦笑しながら助け舟を出した。
「アリアさん、あまり真面目に考えなくて大丈夫ですよ。ヴィオレッタ様は時々、よく分からないことを仰いますから」
「リリ?」
「なんでしょう?」
「最近ちょっと扱い雑になってない?」
「気のせいです」
にこりと笑顔で押し切られた。
以前ならヴィオレッタへこんなことを言うだけでも緊張していたリリアーナが、今ではすっかり慣れたものである。
「でも、生徒会かぁ」
ヴィオレッタは改めてアリアを見る。
「緊張してる?」
「……少し」
「大丈夫だよ。エレノア様も普通にいい人だったし」
「お会いしたんですよね? 何のお話だったんですか?」
「アリアさんのこと」
「私!?」
予想していなかったのか、アリアが目を丸くする。
「うん。友達なのかって聞かれた」
「それで……?」
「友達だって言ったよ」
何でもないことのように返され、アリアの足が僅かに止まりかけた。
「……そうですか」
「うん」
「…………ありがとうございます」
「なんでお礼?」
「なんとなくです」
「?」
やっぱりよく分からない。
その隣ではリリアーナが二人のやり取りを見ており、ほんの少しだけ複雑そうな表情を浮かべたものの、それ以上にアリアが嬉しそうにしていることが嬉しいのか、最後には柔らかく微笑んだ。
「リリ?」
「はい?」
「なんか笑ってない?」
「いいえ」
「笑ってたよ」
「ヴィオレッタ様の気のせいですよ」
「そうかなぁ」
「はい」
今度は隠そうともせず微笑むリリアーナを不思議そうに眺めながら、ヴィオレッタは中庭へ向かって歩いていった。
◇
午後の授業が終わり、生徒たちがそれぞれ帰り支度を始める中、アリアも生徒会室へ向かうため教科書を鞄へしまっていると、不意に背後から名前を呼ばれた。
「フォスターさん」
振り返れば三人の令嬢が立っており、そのうち二人には見覚えがある。
以前、昼休みに自分へ声をかけてきた少女たちだ。
「何でしょうか?」
「生徒会へ入られたそうね」
「まだ正式な役員ではありません。補佐としてお手伝いすることになっただけです」
「あら、そうなの? 噂では、もう役員になられたのかと思っていましたわ」
「違います」
「でも凄いわね。平民で首席になって、アルバレス様たちとお近づきになったと思ったら、今度は生徒会でしょう?」
アリアの表情が僅かに硬くなる。
「……何が仰りたいんですか?」
「あら、別に。ただ感心しているだけよ。私たちには真似できませんもの、入学してほんの数日であれほど高位の方々に気に入られるなんて」
「そうですわね。何か秘訣でもあるのかしら?」
意味は分かった。
アリアは鞄を持つ手へ力を込める。
少し前の自分なら、きっと笑って誤魔化していただろう。
相手は貴族、自分は平民なのだから反論すればもっと面倒なことになるかもしれないと考え、何も言えなかったはずだが――。
『首席になったのはアリアさんが頑張ったからでしょ?』
ヴィオレッタの言葉を思い出した。
「……ありません」
「え?」
「秘訣なんて、ありません」
少女たちが僅かに目を見開く。
怖くないわけではないし、心臓も少し早く打っている。
それでもアリアは目を逸らさなかった。
「アルバレス様たちが私と一緒にいてくださる理由は、私にも分かりません。でも私は皆さんに取り入ったつもりもありませんし、生徒会から声をかけていただいたのも、首席だったことや先生方からの推薦が理由だと伺っています」
「まあ……随分とはっきり仰るのね」
「聞かれましたので」
少女の笑顔が消える。
「平民のわりに、随分と――」
「そこまでになさい」
静かな声だった。
けれど、その一言だけで教室の空気が変わった。
アリアが驚いて振り返ると、入口には艶やかな黒髪を持つ長身の少女が立っている。
「カトレア様……?」
澄んだ青い瞳を細めたカトレアは、騒ぎ立てるでも怒鳴るでもなく、いつもの落ち着いた足取りで真っ直ぐこちらへ歩いてきた。
「アイゼンベルク様……」
先ほどまで余裕の笑みを浮かべていた令嬢たちの表情が強張る。
ところが、そのうちの一人はカトレアと目が合った瞬間にぴたりと動きを止め、頬をほんのりと赤く染めた。
隣にいた少女も慌てて髪へ手を添え、先ほどまでアリアへ向けていた意地の悪い表情はどこへやら、急に令嬢らしい澄ました顔を作ろうと姿勢を正している。
無理もない。
学院内で『黒髪の王子様』などという呼び名が広まる程度には、カトレア・アイゼンベルクという少女は下級生たちから人気がある。
剣術に優れ、成績も良く、誰に対しても物腰が柔らかい上に、落とし物を拾ってもらっただの、階段で手を差し伸べてもらっただのという話が日々増えているのだから、憧れている一年生は決して少なくない。
そして今、その本人が目の前にいる。
「今の会話、少し聞こえてしまいました」
カトレアは穏やかな声でそう告げると、一度アリアを見てから令嬢たちへ視線を戻した。
「フォスターさんは質問されたことに答えただけでしょう。それ以上、何か問題がありますか?」
「い、いえ……私たちはただ……」
問いかけられた令嬢は明らかに狼狽え、しかも真正面から青い瞳に見つめられたせいか、先ほどよりさらに頬が赤くなっている。
「それなら結構です」
カトレアが微笑んだ。
「……っ」
今度は三人とも固まった。
それはヴィオレッタたちへ向ける幼馴染としての柔らかな笑顔とは少し違い、学院で『黒髪の王子様』と呼ばれている時の、上品で穏やかな微笑みだった。
そんなものを至近距離から向けられれば、普段カトレアに憧れている下級生でなくとも多少は動揺するだろう。
「ただ――出自を理由に相手を見下すような発言は、あまり感心しませんね」
「…………っ」
叱られている。
間違いなく叱られているのに、何故か一人の令嬢は耳まで赤くなった。
アリアはそれを見て、なんとも言えない顔になる。
(……これが『黒髪の王子様』……)
以前一緒に昼食を取った時、可愛い兎の飾りを見て嬉しそうにしていた少女と同一人物とは思えない。
「……申し訳ありません、アイゼンベルク様」
「私に謝る必要はありませんよ」
「え……?」
カトレアはほんの少し身体をずらし、その視線の先にアリアが入るようにする。
それだけで意味は十分伝わったらしく、三人は気まずそうに顔を見合わせてからアリアへ向き直った。
「……失礼なことを申し上げましたわ、フォスターさん」
「……私も。申し訳ありません」
「いえ……」
アリアが答えると、三人はもう一度カトレアへ小さく頭を下げ、教室から出ていく。
ただ、最後尾を歩いていた令嬢だけは扉を出る直前にちらりと振り返り、カトレアを見て――また少し頬を赤くしてから、今度こそ廊下の向こうへ消えていった。
「…………」
アリアはその背中を見送る。
「……人気なんですね、アイゼンベルク様」
「え?」
カトレアは本気で分かっていないらしく、僅かに首を傾げた。
「何が?」
「……いえ、なんでもありません」
どうやら本人には自覚がないらしい。
(そのあたりは、アルバレス様と少し似ているのかも……)
方向性はまるで違うが、自分が周囲へどんな印象を与えているのか理解していないところは、妙に似ている。
「でも、ちゃんと言い返せてたね」
「……聞いていたんですか?」
「途中からね。だから本当は、私が出る必要はなかったのかもしれないけど」
「そんなこと……」
「ただ、最後の言葉は聞き過ごせなかったから」
平民のわりに。
その続きが何だったのかは分からないし、聞く必要もないだろう。
「それより、生徒会に行くんでしょう? 遅れない?」
「あっ!」
時計を見たアリアの顔色が変わる。
「行ってきます!」
「うん、頑張って」
「ありがとうございます!」
鞄を抱えたアリアが慌てて教室を飛び出していくのを見送りながら、カトレアは小さく笑った。
「思ってたより強い子だね」
「カトレアー!」
今度は廊下の向こうから聞き慣れた声が響き、振り返ればヴィオレッタとセレスティア、リリアーナがこちらへ歩いてくる。
「やっぱりここにいた」
「ヴィオレッタ」
その瞬間、先ほどまで下級生たちへ向けていた完璧な『黒髪の王子様』の表情が消え、カトレアの顔には幼馴染へ向ける柔らかな笑みが浮かんだ。
「どうしたの?」
「一緒に帰ろうと思って探してたんだよ。セレスがカトレアも連れて帰るって」
「『連れて帰る』って何よ!」
セレスティアがすぐさま口を挟む。
「だってそう言ったじゃん」
「『探しに行こう』って言ったの!」
「同じじゃない?」
「違う!」
言い合いを始めた二人を見て、カトレアは楽しそうに笑った。
「分かった。じゃあ帰ろうか」
「うん」
ヴィオレッタも笑う。
「……あれ?」
そこで教室の中を見回した。
「アリアさんは?」
「生徒会へ行ったよ」
「そっか」
それだけ聞いて、ヴィオレッタは何の疑いもなく頷いた。
カトレアは少し迷う。
先ほどのことを伝えるべきかとも思ったが、アリア自身がちゃんと言い返していたし、何より――。
(ヴィオレッタに言ったら、たぶん怒るよね)
それも相当。
友人を傷つけられた時のヴィオレッタがどうなるかは昔から知っているし、今すぐ大事にするほどのことでもないだろう。
「カトレア?」
「ん?」
「どうしたの?」
「なんでもないよ」
「そう?」
「うん。帰ろう、ヴィオレッタ」
「うん」
そう言いながら自然と隣へ並んだカトレアを見て、セレスティアが僅かに眉を寄せる。
「……カトレア、近くない?」
「そう?」
「そう」
「気のせいじゃない?」
「絶対違う!」
「セレスティア様、廊下で大きな声を出されると目立ちますよ」
「リリまでカトレアの味方!?」
「そういう意味ではありません」
「というか、なんで私を挟んで喧嘩してるの?」
「別に喧嘩してないよ」
「してないね」
「してませんよ」
「じゃあなんなの?」
三人から返事はなかった。
「え、なんで黙るの?」
騒がしい声が廊下の向こうへ遠ざかっていく。
その中心を歩きながら、ヴィオレッタだけは何も知らずに笑っていた。
アリアへ向けられる視線が少しずつ変わり始めていることも、今日カトレアが止めた言葉がこれで終わりではないことも、そして自分が知らないところでも友人たちが少しずつアリアを気に掛け始めていることも知らないまま、物語はもうヴィオレッタ一人だけを中心に動くのではなく、それぞれの思いを巻き込みながら少しずつ広がり始めていた。




