第33話 広がる噂
フィオラ女学院という場所では噂が広がるのが早く、誰と誰が親しいだとか、どこかの令嬢が授業で失敗しただとか、上級生の誰それに縁談が持ち上がっているらしいだとか、真偽のほども分からない話が昼休みには囁かれ、放課後には別の学年まで届いている。
そんな学院で今、一年生を中心に少しずつ名前が広まり始めている少女がいた。
「ねえ、フォスターさんって知ってる?」
「今年の首席でしょう? 平民の」
「それだけじゃなくて、最近アルバレス様たちと一緒にいるらしいわよ」
昼休み前の廊下で、数人の令嬢たちが声を潜める。
「アルバレス様って……あのアルバレス公爵家の?」
「ええ。ルミナス侯爵令嬢やエヴァンズ子爵令嬢とも一緒にいるみたい」
「どうして平民の方が?」
「さあ。それに昨日は、アイゼンベルク様とも昼食を召し上がっていたそうよ」
「アイゼンベルク様まで?」
驚きの声が上がる。
カトレア・アイゼンベルクといえば二年生ながら学院では既に有名な存在であり、『黒髪の王子様』などという呼び名まで密かに付けられているほど下級生からの人気も高い。
そんな彼女が公爵令嬢であるヴィオレッタと幼い頃から親しいこと自体、入学したばかりの一年生たちにとっては十分な話題だったのだが、その輪の中に今年の首席とはいえ平民の少女までいたとなれば、なおさら人の口に上らないはずがなかった。
「フォスターさんって、アルバレス様と以前からお知り合いだったのかしら?」
「いいえ。入学してからだそうよ」
「それなのに、もう?」
「随分と……お上手なのね」
誰かがそう口にしたものの、何が上手なのかと尋ねる者はいなかった。
その場にいた全員が、同じ意味を理解していたからだ。
◇
「アリアさん、次って何だっけ?」
「歴史です」
「…………休もう」
「駄目です」
即答されたヴィオレッタが机へ突っ伏すと、隣で教科書を用意していたリリアーナが困ったように笑った。
「ヴィオレッタ様、まだ授業が始まってもいませんよ」
「だから今のうちに休んでおこうかなって」
「授業中も休まれるおつもりではありませんよね?」
「まさか」
「こちらを見て仰ってください」
ヴィオレッタがそっと顔を逸らしたので、その様子を見ていたアリアが小さく笑う。
「アルバレス様、本当に歴史がお嫌いなんですね」
「嫌いじゃないよ。苦手なだけ」
「同じようなものでは?」
「全然違うよ。嫌いじゃないけど、名前と年号がいっぱい出てくると眠くなるだけ」
「それを苦手というのでは?」
「だから苦手だって言ってるの」
「……あれ?」
自分で言ってから首を傾げたアリアを見て、リリアーナが口元を押さえて笑った。
入学からまだ数日しか経っていないというのに、アリアはすっかりこの空気に馴染み始めており、もちろん身分差を忘れたわけではなくヴィオレッタには今でも「アルバレス様」と呼びかけ、リリアーナにも丁寧な言葉を使っているものの、最初の頃のように一言話すたび緊張することはなくなり、時にはこうして冗談めいた言葉まで返すようになっていた。
「そういえばアリアさん、歴史も得意なの?」
「一応は」
「首席の一応は信用できない」
「そんなこと言われても……」
「じゃあ、今日のところ教えて」
そう言いながらヴィオレッタが椅子を寄せようとすると、リリアーナがすかさず声をかける。
「ヴィオレッタ様、まだ授業前ですよ」
「予習だよ」
「先ほど休むと仰っていた方が?」
「人間は成長するものなんだよ、リリ」
「数十秒で?」
「うん」
「それは凄いですね」
全く信じていない顔だった。
アリアが笑いながら教科書を開き、ヴィオレッタもその横から覗き込む。
「昨日の続きでしたら、この辺りだと思います」
「どれ?」
「王国暦二百七十八年の――」
「あ、もう眠い」
「早すぎます!」
珍しくアリアが大きな声を出したので、ヴィオレッタとリリアーナが同時に彼女を見る。
「あ……」
周囲の何人かもこちらを見ていることに気付き、アリアの顔がみるみる赤くなった。
「す、すみません……」
「なんで謝るの?」
「声が大きくなってしまって……」
「別にいいじゃん」
「そうですよ、アリアさん。お気になさらなくて大丈夫です」
二人から何でもないように返され、アリアは少し困った顔をしたあと、小さく「ありがとうございます」と笑った。
そんな三人へ向けられている視線があることに、ヴィオレッタは気付いていなかった。
「……随分と仲がよろしいのね」
教室の反対側で、一人の令嬢がぽつりと呟く。
「まだ入学して数日でしょう?」
「そうですわね」
「アルバレス様も、どうしてあの方を……」
そこまで言ったところで、ヴィオレッタが偶然そちらへ顔を向けた。
「?」
視線が合うと令嬢たちはすぐに笑顔を作って軽く会釈し、ヴィオレッタもよく分からないまま会釈を返す。
(誰だっけ)
それだけだった。
やがて教師が教室へ入り、授業が始まるとヴィオレッタは数分で歴史との戦いへ突入し、アリアは真剣に教師の話を聞き、リリアーナは綺麗な文字でノートを取る。
けれど三人が気付かないところで、教室の空気には既に小さな変化が生まれ始めていた。
アリア・フォスター――平民であり、特待生であり、今年の首席。
そこへ新たに。
アルバレス公爵令嬢たちと親しい少女。
彼女を表す言葉が、一つ増えていた。
◇
放課後、教師が授業の終了を告げると教室の空気が一気に緩み、生徒たちはそれぞれ帰り支度を始めた。
「疲れた……」
ヴィオレッタも机へ突っ伏す。
「歴史だけでそんなに疲れます?」
アリアが笑う。
「アリアさんには分からないんだよ。苦手なものと一時間向き合う大変さが」
「私にも苦手なものくらいあります」
「何?」
「運動です。特に球技は苦手で……」
「へえ。じゃあ今度セレスに教えてもらったら?」
「ルミナス様にですか?」
「うん。運動得意だよ」
「でも、侯爵令嬢にそんなことをお願いするなんて……」
アリアが戸惑っていると、リリアーナも会話に加わる。
「セレスティア様でしたら、きっと喜んで教えてくださると思いますよ」
「そうなんですか?」
「はい。セレスティア様は体を動かすことがお好きですから」
「ほら」
ヴィオレッタが得意げな顔をする。
「ヴィオレッタ様が得意げになるところではないと思いますが……」
「リリ、最近ちょっと厳しくない?」
「気のせいです」
そんな会話をしていると教室の扉が開き、先ほど出ていったはずの担任教師が再び姿を見せた。
忘れ物でもしたのかと思ったが、教師は教卓ではなくまだ教室に残っている生徒たちへ視線を向け、誰かを探すように見回したあとで口を開く。
「フォスターさん」
「はい?」
名前を呼ばれたアリアが立ち上がる。
「少しよろしいですか?」
「はい」
アリアは不思議そうに教師のもとへ向かい、二人は教室の入口で何かを話し始めた。
ヴィオレッタも最初はそれほど気にしていなかったのだが。
「――生徒会室へ」
その言葉だけが耳に入った。
「…………」
ヴィオレッタの動きが止まる。
(今……)
聞き間違いだろうかと思っている間にも、教師と話していたアリアが驚いたように目を見開いて何かを尋ね、それに教師が頷く。
「生徒会から、あなたにお話があるそうです」
今度は、はっきり聞こえた。
昨日の図書室でヴィオレッタは生徒会について調べ、アリアにも興味があるのかと尋ねた。
もし機会があったら考えてみる――確かに彼女はそう言っていた。
そして自分は。
(まだ入学したばっかりだし、さすがにそんなすぐには何も起きないよね)
そう思っていた。
ヴィオレッタはゆっくりと天井を見上げる。
(早くない?)
入学してまだ数日しか経っていない。
いくらなんでも早すぎる。
やがて教師との話を終えたアリアが戻ってくると、リリアーナが不思議そうに彼女へ尋ねた。
「アリアさん、どうされたんですか?」
「それが……私もよく分からないんですけど、生徒会の方がお話をしたいそうで」
「生徒会ですか?」
「はい」
リリアーナが驚き、アリア自身も戸惑ったように首を傾げる。
そして。
「アルバレス様?」
アリアがヴィオレッタを見る。
「どうされたんですか?」
「……アリアさん」
「はい」
「昨日の今日だね」
「……?」
意味が分からず、アリアが首を傾げる。
ヴィオレッタは両手で顔を覆った。
(始まったぁぁぁぁぁ!!)
どうやら物語は、ヴィオレッタが思っていたよりもずっとせっかちだったらしい。




