第32話 黒髪の王子様
入学から数日が経ち、ヴィオレッタも授業の流れや教室の場所、昼休みにどこへ行けばセレスティアと合流できるのかなど、最初は分からなかったことを少しずつ覚え、ようやく学院生活にも慣れ始めていた。
もっとも。
「ヴィオレッタ様、そちらではありません」
「……分かってたよ」
「今、迷わず曲がろうとしていましたよね?」
「近道かなって」
「その先は上級生の教室です」
「…………」
校舎の構造だけはいまだに覚えられておらず、隣を歩くリリアーナが小さく息を吐く一方で、その少し後ろではアリアが必死に笑いを堪えていた。
「アリアさん」
「はい」
「笑ってる?」
「笑ってません」
「最近そればっかりだよね?」
入学二日目、迷子になったヴィオレッタを図書室まで案内して以来、アリアは以前よりも自然にヴィオレッタへ話しかけるようになり、最初こそ「アルバレス様」と呼ぶたびに背筋を伸ばしていたものの、今ではヴィオレッタが道を間違えようとするとリリアーナと一緒になって止めるくらいには慣れている。
ヴィオレッタとしては少々複雑だった。
(距離を取る予定だったんだけどなぁ……)
完全に失敗しているのだが、今更わざわざ避けるのも不自然なので、結局そのままになっていた。
「それより、急がなくて大丈夫ですか?」
アリアに言われて我に返る。
「あ、そうだった」
今日は昼休みにセレスティアと待ち合わせをしており、いつもの中庭ではなく第二校舎側にある小さな庭園で食べてみようという話になっていた。
「こちらです」
「……リリ、完全に私の案内役になってない?」
「ヴィオレッタ様が道を覚えてくだされば必要なくなります」
「頑張ります」
「期待しています」
少しだけ圧を感じながらも三人で廊下を歩いていると、前方が妙に騒がしいことに気付き、見れば何人もの生徒が窓際に集まって何かを見ようと下を覗き込んでいる。
「何でしょう?」
「何かあったのかな」
リリアーナとヴィオレッタが揃って首を傾げる中、窓の外へ目を向けたアリアだけが「あ」と小さく声を漏らした。
「どうしたの?」
「いえ、その……あの方、有名な方ですよね?」
「あの方?」
ヴィオレッタも窓の外を見ると、そこには学院の中庭を歩く一人の少女がいた。
背が高く姿勢も良く、艶のある黒髪が歩くたびに揺れ、その横顔は少女らしい美しさを持ちながらも凛々しく整っており、何より目を引くのは、その洗練された立ち居振る舞いだった。
ちょうど目の前を歩いていた下級生が紙を落とすと、黒髪の少女はすぐにそれへ気付き、自然な動作で拾い上げて困っていた下級生へ差し出す。
「こちらを落とされましたよ」
「あ……ありがとうございます、アイゼンベルク様!」
「いえ、お気になさらないでください」
柔らかな微笑みを向けられた一年生の顔が一瞬で赤くなり、周囲から小さな歓声まで上がった。
「……何あれ?」
「ご存じないんですか?」
むしろアリアの方が驚いている。
「カトレア・アイゼンベルク様です」
「うん。それは知ってる」
「え?」
「カトレアでしょ?」
「……はい」
「知ってるよ?」
「そうではなくて……有名なのをご存じないんですか?」
「有名?」
ヴィオレッタがリリアーナを見ると、彼女も少し困ったように笑った。
「私も入学してから知ったのですが、カトレア様は学院ではかなり有名なようです」
「なんで?」
「ヴィオレッタ様……」
なぜそんなことも知らないのかと言いたげな顔をされたので、代わりにアリアが説明してくれる。
「剣術がお強くて、成績も優秀で、それにとてもお優しいそうです。困っている下級生がいると、よく助けてくださるとか」
「うん」
「それから、とても格好いいと」
「うん?」
そこだけ少し引っかかり、ヴィオレッタは改めて窓の外へ目を向ける。
カトレアは別の生徒から何かを尋ねられ、穏やかに微笑みながら答えており、その姿には確かに隙がなく、長身で凛々しい容姿も相まって遠目から見ると物語に出てくる王子様のように見えなくもない。
「それで、一部の生徒からは……『黒髪の王子様』と呼ばれているそうです」
「…………」
ヴィオレッタはもう一度カトレアを見る。
黒髪で、長身で、整った顔立ちをしていて、落ち着いた物腰に丁寧な口調、おまけに剣も強い。
「……なるほど」
考えてみれば、自分だって初対面では男の子だと思ったくらいなのだから、妙に納得できる話だった。
「ヴィオレッタ様も、そう思われますか?」
「まあ、カトレア格好いいしね」
「…………」
「どうしたの?」
「いえ、先ほどから少し気になっていたのですが……アイゼンベルク様のことを、カトレア、と」
「呼んでるね」
「お知り合いなんですか?」
「うん。友達だよ」
「…………」
あまりにも何でもないことのように答えられ、アリアは固まった。
「そんなに驚く?」
「驚きます」
「なんで?」
「なんでと言われましても……」
学院へ入学してから、アリアはカトレアの名前を何度か耳にしていた。
アイゼンベルク侯爵家の令嬢であり、二年生ながら剣術では上級生にも引けを取らず、学業も優秀で容姿端麗、誰に対しても物腰が柔らかいことから特に下級生の間では憧れている者も多いという、アリアにとっては完全に別世界の人物だった。
そんな相手をヴィオレッタは当然のように「カトレア」と呼び、しかも友達だという。
(アルバレス様って……やっぱり公爵令嬢なんだ……)
最近になって、ヴィオレッタという人を少し分かってきたつもりだった。
綺麗で近寄り難く見えるけれど実際には優しく、歴史が苦手で道に迷い、思っていたより普通に笑うから、最初に感じた「遠い人」という印象もかなり薄れていたのだが、こういう時には改めて自分とは住む世界が違う人なのだと思い知らされる。
そんなことを考えている間に、中庭にいたカトレアがふと顔を上げた。
ヴィオレッタと目が合う。
すると、先ほどまで下級生たちへ向けていた穏やかで隙のない微笑みがふっと崩れ、代わりに幼い頃から何度も見てきた柔らかな笑顔が浮かんだ。
「あ」
ヴィオレッタも気付き、すぐに窓を開ける。
リリアーナが何か言おうとした時には、もう遅かった。
「カトレアー!」
廊下に響く声に中庭の生徒たちが一斉に上を見たが、カトレアは気にした様子もなく足を止め、ヴィオレッタを見上げる。
「ヴィオレッタ。そんなところにいたんだ」
先ほどまでとは明らかに違う親しげな声に、周囲の空気がざわりと揺れた。
「今……ヴィオレッタって……」
「アルバレス公爵令嬢よね?」
「アイゼンベルク様があんな話し方を……?」
周囲の一年生たちがざわめき、アリアまで目を丸くしているが、ヴィオレッタだけは何も気付いていない。
「今からお昼?」
「うん。そのつもり」
「私たち、セレスと待ち合わせしてるの!」
「そうなんだ」
カトレアは少し考えると、柔らかく笑った。
「じゃあ、私も一緒に食べていい?」
「もちろん!」
ヴィオレッタが即答すると再び周囲がざわついたものの、本人は何事もなかったかのように窓を閉めて二人を振り返る。
「カトレアも一緒に食べるって」
「はい」
リリアーナはいつものことなので普通に頷いたが、アリアはまだ固まっていた。
「アリアさん?」
「……私も、ですか?」
「え?」
「その……昼食」
「そうだけど?」
「私がご一緒してもいいのかなって……」
「なんで?」
またそれだ、とヴィオレッタは不思議そうに首を傾げる。
公爵令嬢、侯爵令嬢が二人、子爵令嬢、そこへ平民の自分が加わるのだから、アリアからすればどう考えても場違いなのだが、目の前の公爵令嬢は本当にその意味が分かっていないらしい。
「……なんでもありません」
「そう?」
「はい」
アリアは小さく笑った。
この人に身分の話をしたところで、たぶん「それがどうしたの?」と言われるだけなのだろう。
◇
庭園へ着くと既にセレスティアが待っており、三人の姿を見つけるなり腰へ手を当てた。
「遅い!」
「ごめん」
「また迷った?」
「迷ってないよ!」
「今日はリリがいましたから」
「リリ!」
即座に裏切られ、セレスティアが声を上げて笑っていると、少し遅れてカトレアも庭園へ姿を見せた。
「カトレア!」
セレスティアがぱっと表情を明るくする。
「珍しいね。こっちで食べるの?」
「うん。ヴィオレッタたちを見かけたから」
「そっか。じゃあ一緒に食べよ」
「そのつもり」
あまりにも普通の会話だったので、先ほど廊下から見ていた『黒髪の王子様』はどこへ行ったのだろうと、アリアだけが困惑している。
するとカトレアも見慣れない少女の存在に気付いたらしく、ヴィオレッタへ視線を向けた。
「ヴィオレッタ、そちらの方は?」
「あ、そうだった。アリア・フォスターさん。同じクラスの子だよ」
「は、初めまして。アリア・フォスターと申します」
アリアが慌てて頭を下げると、カトレアもすぐに外向きの穏やかな表情へ戻った。
「初めまして、カトレア・アイゼンベルクです。どうぞよろしくお願いいたします」
「よ、よろしくお願いいたします」
表情だけでなく声まで変わったことにアリアは密かに驚いたが、カトレアはすぐヴィオレッタへ視線を戻す。
「ヴィオレッタの友達?」
「うん。最近一緒にお昼食べてるの」
「そうなんだ」
そして再びアリアを見る。
「ヴィオレッタがお世話になっているようですね」
「え?」
「え?」
アリアとヴィオレッタの声が重なった。
「私がお世話になってるの?」
「違うの?」
「どっちかというと私が助けてるような……」
「昨日、図書室まで連れていってもらったんでしょ?」
「なんで知ってるの!?」
「リリから聞いたよ」
ヴィオレッタが勢いよくリリアーナを見る。
「リリ!」
「事実ですから」
涼しい顔で返され、セレスティアが吹き出す。
「ほんっと変わんないよね、ヴィオレッタ」
「セレスまで!」
「ふふ。でも、本当に昔から変わらないね」
「カトレアまで……」
「ごめん、ごめん」
そう言いながらまったく悪びれていないカトレアを見て、アリアはまた少し驚いた。
学院で『黒髪の王子様』と呼ばれている少女が、目の前ではヴィオレッタを普通にからかって笑っており、セレスティアともリリアーナとも明らかに長い付き合いなのだと分かる自然な空気がある。
(全然違う……)
噂で聞いていた人物像とは、あまりにも違う。
けれど、しばらく話しているうちにアリアはさらに意外なものを見つけた。
「あの、その飾り……可愛いですね」
カトレアの鞄には、小さな兎の飾りが付いていた。
何気なく口にしただけだったのだが、その瞬間、カトレアの青い瞳が僅かに輝く。
「……そう思いますか?」
「はい。とても可愛いです」
「ありがとうございます。実は私も、とても気に入っているんです」
そう答えながら兎へ触れたカトレアの表情は、廊下で見た凛々しいものとはまるで違い、どこか嬉しそうだった。
そこへヴィオレッタが覗き込む。
「あ、カトレア。それ新しいやつ?」
「うん。この前、王都で見つけたの。耳のところ見て、刺繍がすごく細かいんだよ」
「ほんとだ。可愛い」
「でしょう? 一目見て気に入っちゃって」
「カトレア、昔からこういうの好きだもんね」
「うん」
カトレアはそう答えると、少しだけ懐かしそうにヴィオレッタを見た。
「昔は、あんまり人には言えなかったけどね」
「あー……」
ヴィオレッタも、初めて出会った頃のことを思い出す。
男の子だと勘違いしていた自分と、可愛いものが好きなことを隠そうとしていたカトレア。
「でもヴィオレッタが、好きなら好きでいいって言ってくれたでしょう?」
「そんな感じのこと言ったっけ?」
「言ったよ」
「覚えてない」
「もう。私は結構嬉しかったんだけどな」
「ご、ごめん」
「ふふ、いいよ」
アリアは二人のやり取りを黙って見ていた。
ヴィオレッタはきっと覚えておらず、何気なく言っただけなのだろうが、カトレアにとっては今でも覚えているくらい大切な言葉だったらしい。
「それにしても」
セレスティアが兎の飾りを見ながら、にやりと笑う。
「学院の『黒髪の王子様』が兎の飾りねぇ」
カトレアの動きが止まった。
「……何それ?」
「え?」
今度はセレスティアが止まる。
「黒髪の王子様」
「…………」
カトレアがヴィオレッタを見ると、ヴィオレッタはそっと目を逸らした。
「ヴィオレッタ」
「私は言ってないよ」
「何の話?」
「カトレア、知らなかったの?」
「知らないよ」
どうやら本人には届いていなかったらしく、リリアーナが少し申し訳なさそうに説明する。
「学院の一部の方々が、カトレア様のことをそのように呼ばれているそうです」
「……どうして?」
「格好いいからじゃない? 剣も強いし、背も高いし、優しいし」
ヴィオレッタが指折り数える。
「あと顔」
「顔」
カトレアは困ったように自分の頬へ触れた。
「私、女なんだけど……」
「知ってるよ」
「ヴィオレッタは最初、男だと思ってたじゃん」
「それは昔の話!」
「ふふ」
楽しそうに笑うカトレアと、その鞄で揺れている小さな兎の飾りを交互に見ながら、アリアは先ほど聞いた言葉を思い出す。
黒髪の王子様。
(……王子様?)
少しだけ分からなくなった。
そしてその日、アリア・フォスターは一つ学んだ。
学院で聞く噂というものは、本人を知るうえではあまり当てにならないらしい。
一方、ヴィオレッタはまだ気付いていなかった。
公爵令嬢ヴィオレッタ・アルバレス、侯爵令嬢セレスティア・ルミナスとカトレア・アイゼンベルク、子爵令嬢リリアーナ・エヴァンズ、そしてその輪の中で当たり前のように昼食を共にする平民の特待生、アリア・フォスター。
本人たちにとっては、ただ友人と昼食を食べているだけ。
けれど周囲から見れば、それは決してただの昼食ではなかった。




