第31話 物語の始まり
フィオラ女学院の図書室は、ヴィオレッタが想像していたより遥かに大きかった。
高い天井まで届く本棚がいくつも並び、その間を縫うように長机や椅子が置かれている。大きな窓から差し込む昼下がりの光は静かな室内を柔らかく照らし、紙とインクの匂いが僅かに漂っていた。
「すご……」
思わず声が漏れる。
「学院でもかなり大きな施設らしいですよ」
隣にいたアリアが小声で教えてくれた。
「アリアさん、詳しいね」
「入学前に学院案内を何度も読みましたから」
「…………」
「アルバレス様?」
「なんでもない」
同じ学院案内を読んだはずなのに迷子になった自分との差については、深く考えないことにした。
ヴィオレッタは周囲を見回し、目的を思い出す。
「じゃあ、私はちょっと調べたいことがあるから」
「はい。私は借りたい本を探してきます」
「うん」
アリアと別れ、ヴィオレッタは一人で本棚の間へ入っていった。
今度は迷わない。
たぶん。
今日ここへ来た目的は、学院について調べることだった。
前世で遊んでいたゲームの記憶は断片的で、ましてや今いる世界の元になったと思われるスピンオフ作品については、友人から聞いた程度の知識しかない。
それでも、舞台となる学院について知れば何か思い出せるかもしれない。
ヴィオレッタは司書に尋ねながら学院史に関する棚を見つけ、分厚い本を数冊抱えて閲覧席へ戻った。
「えーっと……」
一冊目、学院の創設について。
違う。
二冊目、歴代学院長について。
これも違う。
三冊目、学院の年間行事。
「これはちょっと気になるな」
ページをめくる。
春の交流会、夏季休暇、秋の学院祭、冬の舞踏会。
聞いたことがあるような、ないような行事がいくつも並んでいる。
(こういうところでイベントが起きるんだろうなぁ……)
ヴィオレッタは遠い目をした。
ゲームというものは、何かにつけて行事を利用する。
舞踏会があれば何か起きるし、学院祭があれば何か起きるし、長期休暇に入ればそれはそれで何か起きる。
前世では楽しんでいたけど、当事者になると全く楽しくない。
ひとまず年間行事について頭へ入れておき、ヴィオレッタは次の本を開いた。
学院の組織についてまとめられた資料らしい。
教師、各学年、委員会。
そして、
「……生徒会」
ページをめくろうとしていた指が止まった。
その三文字を見た瞬間、散らばっていた前世の記憶が一つに繋がる。
(そうだ)
本編では。
アリアは学院へ入学したあと、その能力を認められて生徒会へ推薦される。
王家の庇護を受けるフィオラ女学院において、生徒会は単なる生徒の自治組織ではなく、学院行事の運営や来賓対応にも関わる重要な組織として描かれていた。
そしてアリアはそこで様々な人物と知り合い、交流を深めていく。
つまり、
(ここからだった)
物語が大きく動き始める場所。ヴィオレッタは姿勢を正し、改めて資料へ目を落とした。
『生徒会役員は学院長及び担当教員、現役員の推薦を基本とし、学業成績、人物、適性等を考慮して選出する』
その下にも説明が続いている。読み進めていったヴィオレッタは、ある一文で目を止めた。
『選出に際して家格及び出自を問わない』
「…………」
(これだ)
ほぼ間違いない。
平民出身のアリアが生徒会へ入ることができた理由。
制度上は、最初から身分による制限が存在しないのだ。
(じゃあ、やっぱりこの世界でも……?)
そこまで考えて、ヴィオレッタは首を振る。
まだ分からない。
自分が遊んだ本編と、この世界の元になったらしいスピンオフでは攻略対象そのものが違う。主人公は同じだと聞いていたが、物語の流れまで全て同じだとは限らない。
それにヴィオレッタは、そのスピンオフを遊んですらいない。
(でも、生徒会は覚えておいた方がいいよね)
もしアリアが生徒会へ入ることになれば、それは一つの目印になる。
物語が動き始めたという、分かりやすい目印。
「アルバレス様?」
「ひゃいっ」
突然すぐ横から声をかけられ、ヴィオレッタは飛び上がりそうになった。
慌てて本を閉じる。
顔を上げると、借りる本を二冊ほど抱えたアリアが立っていた。
「ア、アリアさん」
「すみません、驚かせてしまいましたか?」
「全然」
「かなり驚いていたような……」
「全然」
二回言った。
アリアは不思議そうにヴィオレッタを見る。
「何を調べていたんですか?」
「なんでもないよ」
「……学院史、ですか?」
「…………」
ヴィオレッタは自分の手元を見る。
閉じた本の表紙には、大きな文字で『フィオラ女学院史・組織編』と書かれていた。
隠す意味がなかった。
「……学院について知っておこうかなって」
「そうだったんですね」
幸い、アリアは特に怪しむ様子もなく納得してくれた。
しかし。
「あ、生徒会のところを読まれていたんですね」
「なんで分かったの!?」
「栞が挟まっています」
生徒会のページから、備え付けの栞が思い切り飛び出していた。
(私、隠し事向いてないかもしれない)
十五年目にして新しい発見だった。
「生徒会に興味がおありなんですか?」
「いや、私じゃなくて……」
そこまで言って。
ヴィオレッタは止まった。
アリアを見る。
平民出身の特待生。そして今年の首席。
(……聞いてみる?)
ヴィオレッタは少し迷ったあと、なるべく何でもないことのように尋ねた。
「アリアさんは、生徒会に興味ある?」
「私がですか?」
予想以上の反応だった。
アリアは目を丸くし、少し遅れて自分を指差す。
「うん」
「ありません」
即答。
「というより……考えたこともありませんでした」
「そうなの?」
「はい。私には無理だと思います」
その言葉にヴィオレッタは首を傾げた。
「なんで?」
「なんでって……」
今度はアリアが困ったような顔になる。
「私は平民ですから」
その言葉が、ヴィオレッタには少し意外だった。
昨日の昼休み。
アリアが向けられていた視線や言葉を思い出す。
平民なのに。特待生だから。首席だから。
彼女がどれだけ努力したのかも知らない人たちから、何度もそんな言葉を投げかけられていた。
制度上は身分を問わないと書いてあっても、だからといってアリア自身が「自分もそこへ行ける」と簡単に思えるわけではないのだろう。
けれど。
「でも、ここには身分は関係ないって書いてあるよ」
「え?」
ヴィオレッタは先ほどのページを開き、該当する一文を指差した。
アリアも横から覗き込む。
「本当ですね……」
「だったら、アリアさんも入れるんじゃない?」
「えっ」
「首席なんだし」
アリアが固まった。
ヴィオレッタとしては、それほどおかしなことを言ったつもりはない。
そもそも前世の記憶が正しければ、アリアは実際に生徒会へ入るのだから。
「学業成績とか人物とかで選ぶんでしょ? アリアさんは首席だし、少なくとも成績は問題ないよね」
「それは……そうかもしれませんけど」
「じゃあ可能性あるんじゃない?」
「…………」
アリアは何も言わない。
ヴィオレッタは不思議そうに彼女を見る。
「アリアさん?」
「……そんなこと、考えたこともありませんでした」
小さな声だった。
フィオラ女学院へ入学すること。特待生になること。首席を取ること。
そこまでは努力すれば手が届くかもしれないと、アリア自身も信じていた。
けれど生徒会となれば話は違う。
学院を代表する生徒たちが集まり、王族や高位貴族とも接する機会のある場所。
制度上は身分を問わないと言われても、自分とは無縁の世界だと最初から思っていた。
だからこそ。
「アルバレス様は……」
「うん?」
「私が生徒会に入っても、おかしくないと思いますか?」
「うん」
即答だった。
アリアが目を見開く。
「だって、まだ入学したばかりだから人柄までは私にも分からないけど、少なくとも勉強は学院で一番だったんでしょ?」
「……はい」
「だったら、候補になったって別におかしくないと思う」
ヴィオレッタにとっては当たり前の話だった。
平民だからという理由だけで、最初から選択肢に入らない方がおかしい。
それだけのこと。
けれどアリアはしばらく黙ったまま、開かれた資料を見つめていた。
「……考えてみます」
「うん?」
「もし、そんな機会があったら」
アリアは少し照れくさそうに笑った。
「今までは自分には関係ないと思っていましたけど……少しくらい、考えてみてもいいのかなって」
その表情を見て、ヴィオレッタも笑う。
「いいんじゃない?」
「はい」
穏やかな沈黙が落ちる。
その中で。
ヴィオレッタは気付いていなかった。
ゲームの展開を警戒するために生徒会について調べていたはずの自分が、結果として主人公本人へ生徒会という選択肢を教えてしまったことに。
そして。
「――ヴィオレッタ!」
静かな図書室には似つかわしくない声が響いた。
ヴィオレッタとアリアが同時に振り返る。
少し離れた入口に、見慣れた金髪の少女が立っていた。
「セレス?」
セレスティアはヴィオレッタを見つけるなり、ずかずかとこちらへ歩いてくる。その少し後ろから、リリアーナも小走りでついてきていた。
「いた!」
「え、何?」
「何じゃないよ。リリから聞いたんだけど、あんた昼休みに図書室行くって出ていったまま戻ってこなかったんだって?」
「戻ろうとはしてたよ?」
「昼休み、もう終わるよ」
「えっ」
ヴィオレッタが窓を見る。
随分と日が傾いて――はいない。
だが、思っていたより時間が経っている。
「ヴィオレッタ様」
ようやく追いついたリリアーナが、少し息を整えてからヴィオレッタを見る。
「やっぱり迷われましたよね?」
「…………」
「迷われましたよね?」
「……ちょっとだけ」
リリアーナが深く息を吐いた。
「だからご一緒すると申し上げたのに……」
「でも図書室には着いたよ」
「一人で?」
「…………」
ヴィオレッタの視線が泳ぐ。
リリアーナがその視線を追う。
アリアを見る。
アリアもリリアーナを見る。
「……もしかして」
「アリアさんに連れてきてもらいました」
観念して白状した。
一瞬の沈黙。
「っ、あはははは!」
最初に耐えられなくなったのはセレスティアだった。
「やっぱり迷ってるじゃん!」
「笑わないでよ!」
「だって! 十五歳になっても変わってない!」
「セレス!」
「ヴィオレッタ様」
リリアーナは笑わなかった。
ただ、少し困ったような、それでいて安心したような表情でヴィオレッタを見る。
「次からは、私もご一緒します」
「……はい」
素直に頷いた。
そのやり取りを見ながら、アリアは口元を押さえている。
「アリアさんまで笑ってる?」
「わ、笑ってません」
「今日二回目だよ、それ!」
結局アリアも耐えきれず、小さく笑った。
セレスティアはまだ笑っているし、リリアーナも最後には仕方なさそうに微笑んでいた。
静かな図書室で騒ぎすぎた四人が司書から揃って注意されるまで、そう時間はかからなかった。
そして教室へ戻る途中。
ヴィオレッタはふと思い出す。
(……生徒会)
もし前世で知っていた物語と同じなら、アリアはいずれそこへ呼ばれることになる。
その時こそ。
本当の意味で物語が動き始めるのかもしれない。
(まあ……)
ヴィオレッタは隣を歩くアリアを見る。
その向こうではセレスティアが何かを話し、リリアーナも楽しそうに笑っている。
(まだ入学したばっかりだし)
(さすがに、そんなすぐには何も起きないよね)
そう思って。ヴィオレッタは安心した。
こういう時の彼女の予想が、あまり当てにならないことを忘れて。




