第30話 悪役令嬢は迷子になる
翌朝、ヴィオレッタ・アルバレスは決意に満ちていた。
(アリアとは少し距離を取る)
昨夜、ベッドの中で導き出した完璧な作戦である。
ゲームの内容をほとんど知らない以上、下手に主人公へ関わるべきではない。
昨日は仕方なかった。
本を落としていたから拾っただけだし、嫌味を言われているのを見過ごせなかっただけだし、昼食だって流れで一緒になっただけ。
つまり、あれは不可抗力。
今日から気を付ければいい。
「よし」
小さく頷いて教室へ向かう。
幸い、アリアの席はヴィオレッタから数列離れているため、普通に学院生活を送っていれば必要以上に接触することもないだろう。
「おはようございます、ヴィオレッタ様」
「おはよう、リリ」
先に登校していたリリアーナと挨拶を交わし、ヴィオレッタは自分の席へ向かう。
その途中、数列前に座る栗色の髪が視界に入った。
アリアだ。
ちょうど教科書を机へ並べていた彼女がこちらに気付き、ぱっと表情を明るくする。
「おはようございます、アルバレス様」
「お、おはよう、アリアさん」
普通に返した。
それだけ。
実に自然である。
(完璧)
何が完璧なのかは分からないが、ヴィオレッタ本人は満足していた。
アリアもそれ以上話しかけてくることはなく、軽く頭を下げてから自分の席へ戻っていく。
(よしよし)
(このくらいの距離感でいこう)
主人公と悪役令嬢。
仲が悪い必要はない。
かといって、必要以上に親しくなる必要もない。
挨拶をする程度の普通のクラスメイト。
これだ。
ヴィオレッタはようやく正解を見つけたような気持ちで席に着いた。
なお、その正解が維持された時間は午前中だけだった。
◇
昼休み。
「図書室に行ってくるね」
昼食を終えたヴィオレッタがそう告げると、リリアーナが僅かに目を丸くした。
「図書室ですか?」
「うん。ちょっと調べたいことがあって」
学院へ入学した以上、ゲームについて何か思い出せるものがないか調べておきたい。
もちろん図書室にゲームの攻略本が置いてあるはずもないが、学院の歴史や行事、生徒会について知るだけでも、今後起こりそうな出来事を予測する手掛かりにはなるかもしれない。
特に気になるのは生徒会だ。
前世で遊んだ本編では、アリアはその能力を認められて生徒会へ入ることになり、そこから様々な人物と関わって物語が大きく動き始めた。
この世界でも同じ流れになるのかは分からないが、調べておいて損はない。
「私もご一緒しましょうか?」
「大丈夫だよ。リリは次の授業の準備あるでしょ?」
「ですが……」
「図書室くらい一人で行けるよ」
ヴィオレッタは自信満々に答えた。
リリアーナが何とも言えない顔をする。
「……本当に?」
「本当に」
「ヴィオレッタ様」
「なに?」
「昨日、音楽室を探して反対側の校舎まで行かれましたよね」
「あれは校舎が広かったから」
「一昨日の入学説明では、お手洗いから戻ってくるのに十五分ほどかかっていましたよね」
「あれは廊下が似てたから」
「先ほど食堂からこの教室へ戻る時も、一度階段を間違えましたよね」
「あれは……」
ヴィオレッタが言葉に詰まる。
リリアーナは心配そうに見つめている。
「ご一緒します」
「だ、大丈夫だって!」
「ですが」
「今度こそ覚えるから!」
何を競っているのか自分でも分からない。
ただ、十五歳にもなって友人に学院内を案内してもらわなければ移動できないというのは、ヴィオレッタにも多少の羞恥心があった。
それに。
今日は違う。
昨日のうちに学院の案内図を確認した。
図書室は本館二階。
教室を出て右へ進み、中央階段を上がった先。
簡単だ。
「じゃあ、行ってくるね」
「あ、ヴィオレッタ様――」
心配そうなリリアーナを残し、ヴィオレッタは教室を出た。
そして十五分後。
「……ここどこ?」
見事に迷った。
ヴィオレッタは人気の少ない廊下の真ん中で、一人立ち尽くしていた。
おかしい。
教室を出て右へ行った。
中央階段らしき階段も上った。
そこから確か左へ曲がって――いや、右だっただろうか。
途中までは覚えている。
途中から覚えていない。
(なんで?)
本人にも分からない。
窓の外を見ると、中庭らしきものが見える。
しかし、いつも教室から見ている中庭とは形が違う。
(……中庭って二つあるの?)
致命的な事実を今知った。
仕方なく来た道を戻ろうとして、ヴィオレッタは左右を見る。
右。
左。
もう一度、右。
「……どっちから来たっけ」
完全に終わった。
公爵令嬢ヴィオレッタ・アルバレス、入学二日目にして学院内で遭難。
そんな不名誉な未来が脳裏をよぎった、その時だった。
「アルバレス様?」
背後から聞き覚えのある声がした。
ヴィオレッタの身体が固まる。
(この声)
恐る恐る振り返る。
そこには数冊の本を抱えたアリアが立っていた。
「……アリアさん」
「はい」
アリアが少し不思議そうに首を傾げる。
「こんなところで、どうされたんですか?」
「…………」
答えられない。
まさか公爵令嬢ともあろう者が、入学二日目にして校舎で迷子になりましたなどと言えるわけがない。
「ちょっと……散歩を」
「校舎の中をですか?」
「うん」
「この辺り、今はほとんど使われていない教室ばかりですけど」
「…………」
逃げ道が塞がれた。
アリアがヴィオレッタを見る。
ヴィオレッタもアリアを見る。
数秒の沈黙。
「もしかして」
「違うよ」
「まだ何も言ってません」
「……そうだね」
アリアの口元が僅かに緩んだ。
「迷われました?」
「…………少しだけ」
負けた。
ヴィオレッタが観念して答えると、アリアは一瞬驚いた顔をしたあと、慌てて口元を押さえた。
「……笑った?」
「わ、笑ってません」
「笑ったよね?」
「少しだけです」
「やっぱり!」
「すみません!」
謝っているのに、アリアの肩は僅かに震えている。
ヴィオレッタは恥ずかしくなって頬を膨らませたが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
むしろ昨日までずっと緊張していたアリアが、自分の前でこんな風に笑っていることの方が意外だった。
「それで、どちらへ行かれる予定だったんですか?」
「図書室」
「図書室なら反対側ですよ」
「……反対?」
「はい」
アリアが指差した方向は、ヴィオレッタがこれから進もうとしていた方向とは完全に逆だった。
(危なかった)
あのまま歩いていたら、さらに遠ざかっていたらしい。
「私も図書室へ行くところなので、ご一緒しますか?」
「え」
その言葉で、ヴィオレッタは思い出した。
(距離を取るんだった!)
今朝の決意。
挨拶だけ。
普通のクラスメイト。
必要以上に関わらない。
完璧な作戦。
「あ、でも……」
「何かご予定が?」
「いや、そういうわけじゃ……」
断る理由がない。
同じ場所へ向かうのに「私は一人で行きます」と言ったところで、そもそもその一人では辿り着けない。
ヴィオレッタは数秒悩んだ末、諦めた。
「……お願いします」
「はい」
アリアが嬉しそうに笑った。
(不可抗力)
ヴィオレッタは心の中で呟く。
(これは不可抗力だから)
自分から主人公へ近付いたわけではない。
迷子になったところを偶然見つけられ、目的地まで案内してもらうだけ。
だから作戦は破綻していない。
たぶん。
二人は並んで歩き始めた。
「アルバレス様でも迷われるんですね」
「……どういう意味?」
「何でも完璧にできる方だと思っていました」
「全然そんなことないよ」
「そうなんですか?」
「うん。勉強も普通だし、運動も普通だし」
「昨日、歴史が苦手だと仰っていましたね」
「そうそう。あと地理も苦手」
アリアが少し考えてから、ぽつりと言う。
「……だから迷われるのでは?」
「それは関係ないと思う」
「そうでしょうか」
真面目な顔で返され、ヴィオレッタは何も言えなくなる。
少ししてアリアがまた笑った。
昨日の昼食でも思ったが、こうして二人で話してみると、やはり普通の女の子だ。
ゲームの主人公。
そんな言葉を頭に置いていると、とても特別な存在のように思えてしまうけれど、実際のアリアは笑うし、冗談も言うし、思っていたより少しだけ意地悪なところもあるらしい。
「アリアさんって結構言うね」
「えっ」
「昨日はもっと大人しい子だと思ってた」
「す、すみません」
「別に怒ってないよ」
むしろ、その方が話しやすい。
そう言おうとして、ヴィオレッタはやめた。
(……いや)
(だから距離を取るんだって)
危ない。
また普通に仲良くなるところだった。
ヴィオレッタが一人で警戒していると、隣を歩いていたアリアが少しだけ表情を曇らせた。
「あの……アルバレス様」
「ん?」
「昨日のことなんですけど」
「昨日?」
「助けてくださったことです」
アリアは前を向いたまま、抱えている本へ少し力を込めた。
「本当に、ありがとうございました」
「昨日も聞いたよ?」
「それでもです」
その声が思っていたより真剣だったので、ヴィオレッタも黙る。
「私、この学院に入れた時、本当に嬉しかったんです。ずっと勉強して、やっと合格できて……家族もすごく喜んでくれて」
アリアはそこで一度言葉を切った。
「でも、入ってみたら、思っていたより……難しくて」
勉強のことではない。
ヴィオレッタにもすぐ分かった。
「私が平民なのは変えられませんし、それで何か言われることも覚悟していたつもりだったんですけど、実際に言われると、やっぱり少し怖くて」
昨日。
一人で席に座っていたアリア。
周囲に人はいるのに、彼女の隣だけが妙に空いていた光景を思い出す。
「だから、アルバレス様が来てくださった時……すごく嬉しかったです」
アリアがヴィオレッタを見る。
「私のことを何も知らないのに、あんな風に言ってくださって」
ヴィオレッタは少し困った。
そんなに大したことをしたつもりはない。
ただ、嫌だっただけだ。
知らない相手を身分だけで決めつけて、努力まで馬鹿にするような言葉が。
「……私、本当に何も知らなかったから」
「え?」
「アリアさんが平民だとか、首席だとかは知ってたけど、それだけだったし。だから、よく知らないのに悪く言うのは違うかなって思っただけ」
アリアが目を瞬かせる。
「それに、首席を取ったのはアリアさんが頑張ったからでしょ?」
「……はい」
「だったら、そこは普通に凄いと思う」
ヴィオレッタはそれだけ言って前を向いた。
アリアは何も答えない。
少し言い過ぎただろうかと思って隣を見ると、彼女は俯いていた。
「アリアさん?」
「……アルバレス様って」
「うん」
「やっぱり、思っていた方と全然違います」
「えっ」
ヴィオレッタの足が止まりかける。
(どういう意味!?)
悪役令嬢として?
まさか何か怪しまれた?
ゲームと違う行動を取りすぎた?
脳内で警報が鳴り始めるヴィオレッタをよそに、アリアは小さく笑った。
「もっと怖い方だと思っていました」
「……私そんなに怖そう?」
「最初は」
「最初は!?」
「入学式でお見かけした時は、すごく綺麗で、近寄ったら怒られそうというか……」
「怒らないよ」
「今は分かります」
アリアが楽しそうに笑う。
「迷子にもなりますし」
「それは忘れて」
「歴史も苦手ですし」
「それも忘れて」
「意外と普通なんですね」
「……褒められてる?」
「褒めています」
「ほんとに?」
「たぶん…?」
「たぶん!?」
今度は二人で笑った。
その笑い声が、人の少ない廊下へ静かに響く。
そして数分後。
「あ、着きましたよ」
アリアが立ち止まった。
目の前には、大きな両開きの扉。
その上には確かに『図書室』と書かれている。
「おお……」
ヴィオレッタは思わず感嘆の声を漏らした。
「本当に着いた」
「着きますよ」
「アリアさん凄いね」
「普通です」
即答された。
ヴィオレッタは少し考える。
そして、
「ありがとう。助かった」
「どういたしまして」
アリアが笑う。
ヴィオレッタも笑い返したところで、ふと思い出した。
(…………あれ?)
今朝、何か大事なことを決めていたような。
(アリアとは距離を取る)
そう。
それだ。
ヴィオレッタは今日一日を振り返る。
朝は挨拶だけだった。
そこまでは完璧だった。
しかし昼休みに迷子になり、アリアに発見され、図書室まで二人で歩き、その途中で昨日よりずっと色々な話をした。
(……距離)
ヴィオレッタは隣を見る。
「アルバレス様?」
アリアが不思議そうに首を傾げる。
(むしろ縮まってない?)
悪役令嬢ヴィオレッタ・アルバレス。
主人公との距離を取る作戦は開始半日にして失敗した。




