第29話 寮の夜
フィオラ女学院、入学初日。
長かった一日を終えたヴィオレッタ・アルバレスは、寮の自室へ戻るなりベッドの上へ倒れ込み、柔らかな枕に顔を埋めた。
「つかれたぁ……」
公爵令嬢としては、あまり褒められた姿ではない。
朝から入学式に出て、教室へ移動して、そこで主人公を見つけたと思ったら本を落とした主人公を助け、その主人公が嫌味を言われているところへ割って入り、挙句の果てには一緒に昼食まで食べた。
こうして一日の出来事を思い返してみると、どうにも一人の少女に関する記憶ばかりが浮かんでくる。
「……主人公ばっかりだ」
「主人公?」
すぐ近くから声がして、ヴィオレッタの肩がびくりと跳ねる。
慌てて顔を上げると、淹れたばかりの紅茶をテーブルへ置こうとしていたエマが、少し不思議そうにこちらを見ていた。
「な、なんでもない」
「そうですか?」
「うん」
「でしたら、そういうことにしておきます」
絶対に納得していないことくらい、長い付き合いだから分かる。
けれどエマはそれ以上追及することなく、いつもの穏やかな表情で紅茶を用意してくれたので、ヴィオレッタもようやく身体を起こした。
ここは学院の女子寮で、高位貴族用に用意された個室というだけあってかなり広く、実家の自室ほどではないものの、寝室のほかに小さな応接スペースまで用意されている。
そして何より、ここにはエマがいる。
学院生活が始まるにあたり、身の回りの世話をする侍女一名の同行が認められていたのだが、知らない場所で知らない生活を始めるヴィオレッタにとって、昔から変わらない相手が傍にいてくれるというのは、それだけで随分と心強いものだった。
「それで?」
エマがヴィオレッタの前に紅茶を置きながら尋ねる。
「本日はどのような一日でしたか?」
「……色々あった」
「でしょうね」
「なんで分かるの?」
「お顔を見れば」
そんなに顔に出ているだろうかと、ヴィオレッタが自分の頬をぺたぺたと触っていると、エマが小さく笑った。
「楽しかったですか?」
その質問に、ヴィオレッタはすぐには答えず、今日一日のことをもう一度思い返してみる。
大変だったし、驚くことも多かった。
何が起こるのか分からなくてずっと緊張していたし、前世の記憶にあるゲームとは明らかに違う状況に、何度も頭を抱えそうになった。
それでも、
「……うん。楽しかったよ」
リリと同じクラスになれた。
セレスは隣のクラスだったけれど、昼休みにはいつも通り話すことができたし、一つ上の学年にいるカトレアとも入学式で顔を合わせることができた。
それに、新しい出会いもあった。
ヴィオレッタは紅茶へ口をつけ、その温かさにようやく一日が終わったのだと実感しながら、ふと思い出したように口を開く。
「そういえばね、今日、新しい子と話したの」
「まあ」
「何?」
「いえ、ヴィオレッタ様らしいと思いまして」
「どういう意味?」
「そのままの意味です」
今日二回目の「そのままの意味」だったが、やっぱりヴィオレッタにはよく分からない。
「アリアっていう子」
「アリア様」
「うん。アリア・フォスター」
その名前を聞いたエマは僅かに考えるような仕草を見せたあと、何かを思い出したらしくヴィオレッタを見る。
「もしかして、今年の首席の方でしょうか」
「知ってるの?」
「少し話題になっておりますから」
平民出身の特待生というだけでも珍しいのに、そのうえ首席で入学したとなれば噂にならない方がおかしいのだろう。
ヴィオレッタも納得しながら頷く。
「凄いよね。でも、それでちょっと嫌なこと言われてた」
思い出したからか、ヴィオレッタの声が僅かに低くなり、エマはその変化を聞き逃さなかった。
「それでヴィオレッタ様が?」
「……うん」
「間に入られたのですね」
「うん」
「やはり」
「だから、なんで分かるの?」
エマは答えず、ただとても楽しそうに笑っているので、ヴィオレッタは少しだけ頬を膨らませた。
その後も、ヴィオレッタは今日あった出来事を一つずつエマへ話していった。
もちろん主人公だとかゲームだとか、そんなことまで話すわけにはいかないので、アリアが本を落として自分が拾ったことや、彼女が自分のことを知っていたこと、さらには突然綺麗だと言われて驚いたことなど、話せる部分だけを順番に聞かせていく。
「それでね、急に言われたからびっくりして」
「ヴィオレッタ様は昔から褒められるのが苦手ですものね」
「苦手じゃないよ」
「では、得意ですか?」
「……普通」
少し間を置いて答えたヴィオレッタを見て、エマがまた笑う。
さらに話は昼休み前の出来事へ移り、アリアが平民であることを理由に嫌味を言われていたこと、そして自分がそれを見過ごせずに口を挟んだことまで話すと、エマはどこか懐かしそうな表情を浮かべた。
「何?」
「いえ」
「またそれ?」
「昔から変わらないと思いまして」
ヴィオレッタは意味が分からず首を傾げる。
そんな彼女を見ながら、エマの脳裏には幼い頃のヴィオレッタの姿が浮かんでいた。
身分の違いをよく理解しないまま子爵令嬢だったリリアーナへ話しかけ、その手を引いた少女。
侯爵令嬢として生きるセレスティアの苦しさに気付き、当たり前のようにその心へ踏み込んだ少女。
男の子だと思い込んでいたカトレアが可愛いものを好きだと知っても、何がおかしいのかと不思議そうに首を傾げた少女。
そして今度は、平民の少女だった。
ヴィオレッタ自身は気付いていないのだろうが、相手が侯爵令嬢だろうと子爵令嬢だろうと平民だろうと、この少女にとって身分というものは、人と付き合う理由にも、付き合わない理由にもならないらしい。
「ヴィオレッタ様」
「ん?」
「その方とは、お友達になれそうですか?」
「えっ」
友達という言葉を聞いた瞬間、ヴィオレッタの動きがぴたりと止まった。
(いやいやいやいや)
相手は主人公だ。
ゲームの主人公であり、しかも自分はその物語における悪役令嬢なのだから、今日少し話して一緒に昼食を食べたくらいで、友達などと簡単に考えていい相手ではない。
「……まだ分かんない」
「そうですか」
エマはそれ以上何も言わず、ヴィオレッタも紅茶の水面に映った自分の顔を眺めながら、今日出会った少女について考える。
アリア・フォスター。
前世のヴィオレッタにとって、彼女はゲームの主人公だった。
画面の向こう側にいて、プレイヤーが動かすキャラクターでしかなかった。
けれど今日会ったアリアは、平民だと言われれば困った顔をして、褒めれば嬉しそうに笑い、昼食に誘えば見るからに緊張して、それでも話しているうちに少しずつ自然に笑うようになった。
どこにでもいる、普通の女の子だった。
(……当たり前か)
ここはゲームに似ているけれど、ゲームそのものではない。
リリだって、セレスだって、カトレアだって、前世で知っていた単なる登場人物ではなく、実際に笑って、悩んで、怒って、それぞれの人生を生きている。
だったら、アリアだって同じなのだろう。
そう考えると、ヴィオレッタの口元に自然と小さな笑みが浮かんだ。
「いい子だったよ」
ぽつりと呟いた言葉に、エマは何も聞き返さず、ただ穏やかに「そうですか」とだけ答えた。
◇
その日の夜、ヴィオレッタはベッドの中で天井を見つめながら、長かった一日を改めて振り返っていた。
色々ありすぎた一日だったが、本番はこれからだ。
(アリアが主人公なのは間違いない)
(リリとセレスとカトレアは……たぶん攻略対象)
そして。
(私は悪役令嬢)
そこだけは確実だった。
ヴィオレッタは布団を鼻の辺りまで引き上げる。
考えてみれば今日はいきなりアリアと関わり、本を拾い、嫌味を言われているところを助け、そのうえ昼食まで一緒に食べてしまった。
(……関わりすぎでは?)
今更も今更である。
けれど、これ以上は危険かもしれない。
ゲームの内容を知らない以上、どんな行動が自分の破滅へ繋がるのか分からないのだから、下手に主人公へ近付かず、アリアにはアリアの物語を歩んでもらい、自分は少し離れたところから見守る。
それが一番安全なはずだ。
(よし。明日からは、アリアとは少し距離を取ろう)
完璧だ。我ながら素晴らしい判断だと思い、ヴィオレッタは満足して目を閉じた。




