第18話 三人のお茶会
カトレアの誕生日会から数日後。
リリアーナ・エヴァンズは、少し緊張した面持ちで馬車を降りた。
目の前に広がるのは、ルミナス侯爵家の立派な屋敷。以前にも訪れたことはあるけれど、今日はいつもとは少し事情が違っていた。
(……本当に、私だけでよかったのでしょうか)
招待状を受け取ったときは、嬉しさよりも先に驚きが込み上げてきた。
差出人はセレスティア・ルミナス。
しかも、今回のお茶会にはカトレア・アイゼンベルクも参加するという。
ヴィオレッタの名前は、招待状のどこにも書かれていなかった。
(……ヴィオレッタ様がいらっしゃらないお茶会なんて、初めてかもしれません)
そう考えると、自然と背筋が伸びてしまう。
もちろん、セレスティアもカトレアも優しい人だと分かっている。それでも、公爵令嬢であるヴィオレッタがいない場で、侯爵令嬢と伯爵令嬢に囲まれるのは、子爵家の娘であるリリアーナにとって少し緊張することだった。
「リリ!」
そんな不安を吹き飛ばすように、元気な声が響いた。
顔を上げると、屋敷の玄関先でセレスティアが大きく手を振っていた。その隣には、見覚えのある漆黒の髪の少女も立っている。
「セレスティア様! カトレア様!」
「いらっしゃい! 待ってたわ!」
「こんにちは、リリアーナ様。今日は来てくれてありがとう」
カトレアが穏やかに微笑んだ。
その表情を見て、リリアーナは少し驚いた。
(……あれ?)
以前のカトレアは、いつも凛々しく、どこか近寄りがたい雰囲気をまとっていた。
もちろん、冷たい人ではない。むしろ礼儀正しく、誰に対しても優しい人だったけれど、その笑顔にはどこか隙のない印象があった。
けれど、今は違う。
微笑み方が自然で、以前よりもずっと柔らかく見える。
(……お誕生日会のときから、少し変わられましたね)
あの日、淡い青色のドレスを着て、嬉しそうに笑っていたカトレアの姿を思い出す。
「今日はよろしくお願いします」
リリアーナが丁寧に頭を下げると、セレスティアは楽しそうに笑った。
「そんなに緊張しなくていいのよ! 今日は普通のお茶会なんだから」
「は、はい!」
「別に剣の試合をするわけじゃないんだし!」
「そ、それは分かっています!」
思わず大きな声で返してしまい、リリアーナは慌てて口元を押さえた。
セレスティアが吹き出し、隣のカトレアも小さく笑う。
「ふふっ、セレス。あまりからかうものじゃないよ」
「だって、リリがあんまり緊張してるんだもの!」
「も、もう……セレスティア様!」
リリアーナが頬を赤くすると、二人はますます楽しそうに笑った。
その様子を見ているうちに、リリアーナの肩からも自然と力が抜けていった。
(……うん、大丈夫そうです)
こうして、三人だけのお茶会が始まった。
◇
案内されたのは、庭園に面した明るいサロンだった。
大きな窓から柔らかな日差しが差し込み、テーブルには焼き菓子や季節の果物が並べられている。
「このお菓子、最近うちの料理人が作るようになったの! ぜひ食べてみて!」
セレスティアが勧めたのは、小さな花の形をした焼き菓子だった。
「まあ、可愛らしいですね」
リリアーナが一つ手に取ると、甘い香りがふわりと広がった。
口に運ぶと、さくっとした食感のあとに優しい甘さが広がる。
「……おいしいです!」
「でしょう? 私も気に入ってるの!」
「確かに、紅茶によく合うね」
カトレアも頷き、もう一つ手に取った。
それからしばらくは、最近読んだ本や家での出来事、流行のお菓子について話が弾んだ。
リリアーナが新しく読み始めた物語を紹介すると、セレスティアは興味津々で身を乗り出し、カトレアも時折質問を挟んでくれる。
剣術の話になれば、今度はセレスティアとカトレアが盛り上がった。
「次に試合をするときは、絶対に負けないからね!」
「それは楽しみだ。私も簡単に負けるつもりはないよ」
「ふふっ、望むところよ!」
二人が楽しそうに笑い合う姿を見て、リリアーナも微笑んだ。
(……お二人とも、本当に剣がお好きなんですね)
話題が分からなくなることもあったけれど、セレスティアがそのたびに説明してくれるので、置いていかれることはなかった。
そして、紅茶のおかわりが運ばれてきた頃。
「そういえばさ」
セレスティアがふと思い出したように口を開いた。
「ヴィオレッタがいないお茶会って、初めてじゃない?」
その言葉に、リリアーナとカトレアは顔を見合わせた。
「……言われてみれば、そうですね」
「ああ。確かに、いつもヴィオレッタがいた気がするよ」
リリアーナはこれまでのお茶会を思い返す。
初めてヴィオレッタに招待されたときも、礼儀作法の練習をしたときも、セレスティアと仲良くなったときも、いつも彼女がそばにいた。
気づけば、こうして三人で集まるのは初めてだった。
「……何だか、不思議ですね」
「何が?」
セレスティアが首を傾げる。
リリアーナは少し考えてから、控えめに答えた。
「……今日は、とても静かだなと思いまして」
一瞬、部屋に沈黙が落ちた。
そして。
「……分かるわ」
セレスティアが真剣な顔で頷いた。
「私も同じことを考えていたよ」
カトレアまで同意する。
三人は顔を見合わせ、思わず笑ってしまった。
「ヴィオレッタがいると、いつも何か起きるのよね」
セレスティアが苦笑する。
「本人は何も起こしてないつもりなんでしょうけど」
「そうですね。気づいたら、いつの間にか事件になっているというか……」
リリアーナも困ったように微笑んだ。
「気づいたら迷子になっているし」
「気づいたら知らない人と仲良くなっているし」
「気づいたら、誰かの悩みを解決している」
最後にカトレアが静かに言うと、二人は大きく頷いた。
「……本当に、そうですね」
「ええ、ヴィオレッタらしいわ」
セレスティアが即答する。
リリアーナは思わず笑ってしまった。
(……ヴィオレッタ様が聞いたら、何とおっしゃるでしょう)
きっと「そんなことないよ!」と慌てて否定するだろう。
けれど、その姿まで簡単に想像できてしまうのだから、やっぱりヴィオレッタらしいのだと思う。
◇
「私、最初は本当に驚いたんです」
リリアーナは紅茶のカップを置きながら、懐かしそうに口を開いた。
「ヴィオレッタ様と初めてお会いしたときのことなんですけれど……」
「へえ、聞きたいわ!」
セレスティアが興味津々で身を乗り出す。
カトレアも静かに耳を傾けた。
「最初のお茶会で、私はほとんど誰ともお話しできなかったんです。皆さん、家柄も立派な方ばかりで、どうしていいか分からなくて……」
リリアーナは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「そんなとき、ヴィオレッタ様が声をかけてくださったんです」
「うんうん」
「公爵令嬢でいらっしゃるのに、まるで昔からのお友達みたいに、普通に話しかけてくださって……」
「……ああ、分かるわ」
セレスティアが頷く。
「ヴィオレッタって、そういうところあるものね」
「はい。私はものすごく緊張していたのに、ヴィオレッタ様は全然気づいていらっしゃらなくて……」
「ふふっ、ありそうだね」
カトレアが小さく笑う。
「でも、そのおかげで、私も少しずつお話しできるようになったんです」
リリアーナは膝の上で手を重ね、柔らかく微笑んだ。
「あのとき声をかけていただけなかったら、今もこうして皆さんとお茶会をしていなかったかもしれません」
そう考えると、胸の奥がじんわりと温かくなる。
あの日の自分は、こんな未来を想像もしていなかった。
「……ヴィオレッタ様には、本当に感謝しています」
リリアーナがそう言うと、セレスティアは嬉しそうに笑った。
「うん。私もよ」
「セレスティア様もですか?」
「ええ。私の場合は、ちょっと違うけどね」
セレスティアは窓の外へ視線を向けた。
庭園の木々が、風に揺れている。
「私、昔から剣術が好きで、木登りも好きで……まあ、色々と無茶してたのよ」
「……今も十分なさっていると思いますけれど」
リリアーナが控えめに言うと、セレスティアは思わず吹き出した。
「もう、リリったら!」
カトレアも楽しそうに笑う。
「確かに、剣術大会でも随分思い切りのいい戦い方をしていたね」
「カトレアまで!」
セレスティアは少し頬を膨らませたけれど、すぐに笑顔に戻った。
「でもね、昔はもっと色々考えてたの。侯爵家の娘なんだから、ちゃんとしなくちゃって」
その声が、ほんの少しだけ静かになる。
「剣術も勉強も、何でもできるようにならなきゃって思ってた。好きでやってることなのに、いつの間にか、失敗するのが怖くなってたのよね」
リリアーナは黙って耳を傾けた。
セレスティアがそんなことを考えていたなんて、少し意外だった。
「でも、ヴィオレッタに言われたの。何でも完璧にできなくても、好きなことを楽しんでいいんじゃないかって」
セレスティアは照れくさそうに笑った。
「……あの子、そういうことを本当に普通の顔で言うのよ」
「分かります」
リリアーナが頷く。
「悪気もないし、特別なことを言っているつもりもないんでしょうね」
カトレアも穏やかに微笑んだ。
「そうなの! だから、こっちは何も言い返せなくなるのよ!」
セレスティアが笑うと、二人もつられて笑った。
◇
「……カトレア様は、いかがですか?」
今度はリリアーナが尋ねた。
カトレアは少し驚いたように目を瞬かせ、それから紅茶のカップへ視線を落とした。
「……私かい?」
「はい。ヴィオレッタ様と出会って、何か変わったことはありますか?」
カトレアはしばらく考えていた。
けれど、その表情は穏やかだった。
「……私は、肯定してもらったんだと思う」
「肯定、ですか?」
「ああ。今まで誰にも言えなかったことを、言ってもいいんだと思わせてくれた」
カトレアは静かに微笑んだ。
「自分の好きなものを好きだと言うことが、あんなに嬉しいことだとは知らなかったよ」
リリアーナは、数日前の誕生日会を思い出した。
淡い青色のドレスを着たカトレア。
最初は緊張していたけれど、周囲から褒められ、最後には心から嬉しそうに笑っていた。
(……あの日のことですね)
リリアーナは何も言わず、微笑んだ。
セレスティアも同じことを思い出したのだろう。楽しそうに頷いている。
「でも、あのドレス、本当に似合っていたわよ!」
「……ありがとう、セレス」
カトレアは少し照れくさそうに笑った。
「実は、あの日から侍女たちが随分張り切っていてね。今度はどんなドレスがいいかと、毎日のように聞かれるんだ」
「まあ! 素敵ですね!」
「ふふっ、よかったじゃない!」
「……そうだね。嬉しいことなんだけれど、少し困ってもいるよ」
カトレアが苦笑すると、二人は声を上げて笑った。
以前なら、こんな話をすることすら考えられなかっただろう。
けれど、今は違う。
好きなものの話をしても、誰も笑わない。
それが、カトレアには何より嬉しかった。
しばらくして、三人の間に穏やかな沈黙が流れた。
窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえ、紅茶の香りがふんわりと漂っている。
不思議と、気まずさはなかった。
「……結局さ」
セレスティアがふと口を開いた。
「私たち、みんなヴィオレッタのことが大好きなのね」
リリアーナは思わず顔を赤くした。
「そ、それは……!」
「違うの?」
セレスティアが楽しそうに首を傾げる。
「ち、違いませんけれど……!」
その返事に、セレスティアが吹き出した。
カトレアも口元を押さえていたけれど、とうとう声を上げて笑い始める。
「ふふっ……ははっ!」
「……カトレア様?」
リリアーナが驚いて顔を上げた。
カトレアがこんなふうに笑う姿を見るのは、初めてかもしれない。
セレスティアも同じことを思ったのだろう。リリアーナと顔を見合わせ、嬉しそうに微笑んだ。
(……本当に、変わられましたね)
リリアーナは胸の中で呟いた。
そして、ふと気づく。
(……私も、少しは変われたのでしょうか)
以前の自分だったら、侯爵令嬢と伯爵令嬢に囲まれて、こんなふうに笑うことなんてできなかっただろう。
けれど、今は心から楽しいと思える。
ヴィオレッタがつないでくれた縁が、少しずつ広がっているのだ。
◇
お茶会も終わりに近づいた頃、リリアーナはふと思い出したように口を開いた。
「……そういえば」
「どうしたの、リリ?」
セレスティアが尋ねる。
「来月は、ヴィオレッタ様のお誕生日ですね」
その瞬間。
三人の動きが、ぴたりと止まった。
「…………」
「…………」
「…………」
そして、ほとんど同時に顔を見合わせる。
(……何を贈りましょう?)
リリアーナは真剣に考え始めた。
ヴィオレッタには、これまで何度も助けてもらっている。だからこそ、心から喜んでもらえるものを贈りたい。
けれど、公爵令嬢である彼女は、きっと欲しいものなら何でも手に入るだろう。
(……それなら、特別なものがいいでしょうか)
隣では、セレスティアが腕を組んで考え込んでいた。
「……これは大問題だわ」
「……ですね」
リリアーナも真剣に頷く。
カトレアまで、珍しく難しい顔をしている。
「……確かに、簡単には決められないね」
三人の視線が交わった。
その瞬間、なぜか部屋の空気が少しだけ変わった気がした。
「……私、絶対に喜んでもらえるものを選ぶわ!」
セレスティアが宣言する。
「わ、私も頑張ります!」
リリアーナも思わず声を上げた。
カトレアは二人を見つめると、穏やかに微笑んだ。
「ふふっ、私も負けていられないな」
「……え?」
リリアーナが目を瞬かせる。
「カトレア、もしかして勝負するつもり?」
セレスティアが楽しそうに尋ねた。
「さあ、どうだろうね」
カトレアは涼しい顔で紅茶を口に運んだ。
けれど、その目にはどこか楽しそうな光が宿っている。
(……これは、負けられません!)
リリアーナは小さく拳を握った。
誰が一番素敵な贈り物を選べるのか。
そんな勝負を約束したわけではない。
けれど、三人とも、ヴィオレッタを喜ばせたいという気持ちだけは同じだった。
「……それにしても」
セレスティアがふと呟いた。
「ヴィオレッタって、何をもらったら一番喜ぶのかしら?」
「……本ですね」
リリアーナが即答した。
「お菓子も好きよね」
セレスティアが続ける。
「可愛い小物も好きだと言っていたよ」
カトレアも静かに付け加えた。
三人は顔を見合わせた。
「……全部、喜びそうですね」
リリアーナがぽつりと呟く。
「……そうなのよね」
セレスティアが深く頷く。
カトレアも困ったように笑った。
「……本当に、難しい人だね」
そして、三人はまた笑い合った。
こうして、ヴィオレッタのいないお茶会は、思いがけず賑やかなものになった。
来月に迫った誕生日会。
その日、ヴィオレッタがどんな顔を見せてくれるのか。
三人はそれぞれ胸の中で贈り物のことを考えながら、楽しいひとときを終えたのだった。




