サンディー・シェルダー視点,6(前半、回想)
「きれいな薔薇だね!ジクリードが持ってきてくれたんでしょう?お姉様に」
手洗いから戻ってきたリュードは、まだ温もりの残るベッドへと、モグラのように潜っていく。
「これは私にじゃなくて、リュードへのお見舞いなのよ」
「ふぅーん、そうかなあ」
「貴方が熱を出したから、お見舞いに来てくれたのよ」
「真っ赤な薔薇を、ジクリードが僕に渡すわけがないんだ。分かるよそれくらい、僕にだって」
そう、リュードの言う通りなのである。けれど、建前はそうじゃない。
あまり直視したくはないので、目の端で数えたところ、赤い薔薇が十本。
(完璧…そんな意味じゃなかったかしら)
4本だとか、99本だとか、意味ありげな数字じゃない。ならば別に気にする必要もないのだろう。けれど、何かが引っ掛かる。
(私とジクリードが婚約…?ここのところ急にませたとは思ったけれど、本当に…)
おかしいと思ったと同時に体がぶるっと震えた。相手は、まだあどけなさの残る十の子どもである。
(考えすぎね。きっとままごとの延長だわ)
リュードに絵本でも読んであげようと、立ち上がったときだった。
「あれ?お姉様」
「どうしたの、リュード?絵本でも…」
「赤い薔薇の中に、色の違うのがある」
「え?」
手に持った絵本を落としてしまった。
私の視線は真っ赤な薔薇を捉えて離せない。
「なんでだろう?色が違うのだけ背が低いの。隠してるみたい」
「…リュード」
「でも僕からはよく見えるよ」
「……やめて、リュード」
「ジクリードはなんで黒い薔薇を一本、この中に混ぜたんだろう?」
寒気が背筋を這っていく。ここにはいないはずのジクリードの笑い声と、どこからか感じる視線。
私は花びらが落ちるのも構わず、花瓶の中を漁った。
(っっっ!!!!)
背の高い真っ赤な薔薇に隠された一本の黒い薔薇。意味ありげに花瓶の中で咲いている。
「お姉様、どうしたの?」
あまりの恐ろしさに我を忘れて、花瓶から十一本の薔薇を引き抜くと、窓の外へ放った。
「お姉様?」
リュードの困惑した声に、ハッとする。
「ご、ごめんなさい、リュード…私…」
幼い弟を抱きしめて、何度も背中をさすった。
私は今でもこの時の行動を後悔している。
「…お姉様、怖いの?」
「大丈夫、大丈夫なのよ」
それは自分自身に言い聞かせた言葉だった。
隠された一本の黒い薔薇。意味は『貴方は私のもの』
✳︎ ✳︎ ✳︎
ヴァイアン様は、きっと落ち着かれたのだろう。
茶器の製造権の一切を、ローレンス家に譲渡している。
「全く、驚きましたな」
ドストイット公爵は、本当に目を丸くして私を見た。その様子に自然と「くすり」と笑みが溢れた。
「私、年齢を詐称していたのですもの。契約不履行とならず、感謝申し上げます」
「土地の土を売るのに、年齢の詐称など一つも問題にならんので構わん。私がそんなつまらないことを気にするとでも?」
ゆっくりと首を横に振ると、公爵はぐるりとサロンを見渡して言った。
「シェルダー家には何度も来ている、目の前のシェルダー嬢も確かに何度もお見受けした。けれど…」
「サンディー・ノエルがシェルダー家の令嬢だとは思わなかった、ですか?」
「洗練された大人の女性が、ある時名前を変えて、年齢も偽り…その、つまり、まるで違う人に見えた。実に巧妙だ。茶器のお披露目会で、貴方が言った『まだまだこれから』の意味を、今になって少し分かった気がするよ」
「私は恐ろしい女なのです」
「まあ、そうだな。離縁の際は、製造権の一切を元夫に譲渡するなんて契約書に書くようなご婦人を未だかつて見たことがない。恐ろしいと言うより、手のひらで転がされているような気分だ」
私が俯いたので、何かを察したらしい公爵が、言葉を選んで言った。
「…ローレンス殿は、とても精力的に領地運営を始められた」
「そうですか。それは何よりです」
じっと見つめる公爵の目の端に、たくさんの小皺が寄る。
「貴方は…本当にローレンス殿を愛していらっしゃったのですな」
「……彼には数えきれないほどの嘘をつきました。私に誰かを愛する資格など、ありません」
「そうかな。私は、貴方が安心したような顔を初めて見るよ。それは、ローレンス殿の近況を知れたからではないか?」
「ええ。そうかもしれません。愛する資格などない癖に、あの人の幸せを願わずにはいられないのですから。どうしようもない女なのです」
公爵は顔を背けると、立ち上がって言った。
「…ローレンス殿は、茶器の製造権を貴方に返したいと言っておる」
「え…?」
「夫婦の問題には口を出すつもりはない。決めるのはあなた方だ。…だが一つだけ、言えることがある」
「なんでしょう?」
「ローレンス殿は、貴方と出会って変わった」
公爵は、
「また近いうちに。その時には、わざわざ私の領地の土を茶器に使いたいなんて持ちかけた理由も教えてもらえるかな」
と言ってにやりと笑った。
「それはドストイット領の東側の丘陵が粘土質で…」
「そんなこと、百遍聞いた。けれどどうも腑に落ちなくてね。これも貴方が隠している偽りの中の一つだろう?」
「…おみそれしました」
ドストイット公爵は、楽しそうに笑うと扉の向こうへ去っていった。
大きな扉の、見た目よりも軽い音がサロンに響く。
「……ヴァイアン様は…私と出会って変わったのじゃないわ。別れて、あの人自身が変わろうとしているのよ」
誰の耳に届くともない言葉は、立ち上る紅茶の湯気と共に、やがて消えた。
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