第8話:広がる世界
世界は、思っていたよりもずっと広かった。
あの枯葉の寝床から這い出したとき、最初にそう思った。
(……動ける。やっと、ここまで来た)
手のひらに触れる岩の床は、驚くほど冷たい。
前世の知識では、ハイハイなんて簡単なことだと思っていた。
でも、この小さな体では、数センチ進むだけで息が切れる。
この調子では立って歩くことなんて、いつになることやら……。
それでも今は、たとえハイハイでも動ける。
寝ていては見れなかったものが今は見に行ける。
さぁ、探検の時間だ。
しっかりと腕に力を入れ頭を起こす。
目線が少し上がる。
それだけで、洞窟はまるで別の場所だ。
グリムの竈は高い塔みたいに見え、山羊のいる奥は、深く沈んだ闇のようだった。
危ないと分かっている。
でも、体は言うことを聞かない。
好奇心に引っ張られて、私は前へ進んでしまう。
「……アリス。……だめだ、……そこ、……あぶない」
掠れた声。
次の瞬間、体が宙に浮く。
大きな黒い手が、私をすくい上げた。
不安そうな目で私にケガが無いか確かめる。
その手は、ほんの少し震えていた。
それから、グリムは洞窟を作り替え始めた。
森から柔らかい樹皮を運び。
まずは私の寝床周り。
そして動き回りそうな場所を中心に作り替えていく。
大きな岩の出っ張りは丁寧に削り。
角にひとつずつ樹皮を貼り付けていく。
段差や危なそうな穴には砂利を敷き。
さらにその上に柔らかな土と枯葉。
竈の周りには重い石を積み、囲いを作った。
山羊との間には、丈夫な木の柵。
そこまで作り上げて彼は軽く頷いていた。
こうして私の要塞は出来上がった。
それからの彼は少しだけ神経質になっていた。
私が少し動くだけで、すぐに振り向く。
作業の手を止め、何度もこちらを確かめる。
落ち着かない背中だった。
(……おとうちゃん、やりすぎだよ)
そう思いながらも、胸の奥が少し温かくなる。
ある日の午後。
グリムは入り口近くで冬支度に夢中になっていた。
ほんの少しだけ、視線が外れる。
(……あの隙間、通れるかな)
柵の端に、小さな隙間。
頭ではだめだと分かっているのに、体が勝手に動く。
冷たい床を這う。
膝がこすれる。
それでも、止まれない。
抜けた先は、山羊の寝床だった。
木の匂い。
苔の柔らかさ。
あたたかい乳の匂い。
山羊は静かに横たわったまま、私を見ている。
怒らない。
私はその腹の毛に指を埋めた。
(……あったかい)
体の芯まで、じんわり温まる。
探検の疲れが一気に押し寄せた。
そのまま、目を閉じる。
「…………アリス?」
遠くで声がする。
最初は小さく、次は強く。
「アリス! ……どこだ。……アリス!」
足音が響く。
岩にぶつかる音。
毛皮をめくる音。
(……ここだよ)
返事をしたいのに、体が重い。
眠気が勝つ。
やがて、足音が止まった。
「…………ぁ」
すぐ近くで、声にならない音がした。
グリムが膝をつく。
震える手が、そっと私の背中に触れる。
何度も、何度も、確かめるように。
私は薄く目を開け、黒い指を握った。
その瞬間、彼の背中が大きく上下する。
ようやく息を吐いたようだった。
山羊が草を噛む音。
火がぱちりと鳴る。
私は抱き上げられ、彼の胸に収まる。
明日には、きっと柵は高くなる。
隙間もなくなるだろう。
少し窮屈になるかもしれない。
でも、私はその腕の中で眠る。
世界は広い。
でも今は、この腕の中がいちばん安心できる場所だった。




