第7話:白い兆し
季節が、ゆっくりと巡ろうとしていた。
洞窟の入り口に差す影の形が変わり、森を抜ける風がわずかに湿り気を帯び、冷ややかな重みを増した頃。
グリムは、アリスの「異変」に気づいた。
「……アリス。……どう、……した」
ここ数日、アリスの機嫌が芳しくない。
いつもなら、山羊の乳を飲み終えれば満足げに喉を鳴らし、グリムの指に触れて微睡みの中に落ちていく。
けれど今の彼女は、乳を飲んだ後もぐずぐずと泣き続け、何かに苛立つように自分の小さな拳を口に押し込んでいた。
♢♢♢
(……わかっている。病気じゃない。これは、歯が生えるときの痛みだ)
前世の記憶が、ぼんやりと告げている。
赤ん坊の歯は、歯茎を押し破って生えてくる。
理屈では知っている。
けれど。
ずきり、と奥が疼くたびに、思考は簡単に霧散した。
身体が勝手に涙を流させる。
喉が勝手に泣き声を上げる。
(……こんなはずじゃ、ないのに)
冷静でいようとしても、無理だった。
この身体は、まだ小さすぎる。
彼は、どうしていいのか分からない顔をしていた。
(おとうちゃん、そんな顔しないで)
熱はない。怪我もない。
それでも彼は、私の手足を一本ずつ、壊れ物を扱うように確かめていく。
その瞳は、見たことのないほど揺れていた。
(ごめん、おとうちゃん。大丈夫だから。ただ、何でもいいから硬いものを噛ませて……!)
♢♢♢
夜が来ても、アリスは眠れなかった。
グリムは一晩中、腕の中で揺らし続けた。
数晩の不眠で、その細い腕が少し震える。
それでも、揺らすのをやめない。
ふとした拍子に、アリスの口から、微かに「カチリ」と固い音が聞こえた。
それは、柔らかな肉が重なり合う音ではない。
石と石が触れ合うような、冷たく、けれど確かな音。
「…………?」
彼は立ち止まり、アリスの顔を覗き込んだ。
嫌がるアリスをなだめ、そっと指を差し入れる。
煤けた、大きな指先。
その指が、熱を帯びたアリスの口内をなぞったとき、彼女は夢中でその指を噛んだ。
痛覚を麻痺させて生きてきたグリムにとって、それは痛みですらなかっただろう。
だが、その指先に触れたのは、小さく、鋭い突起だった。
「……しろい。……いし、……みたいだ」
それは、新しい歯だった。
命が、さらに先へ進もうとしている証。
アリスは、痒みを紛らわせるように、ぎりぎりとその煤けた皮膚に歯を立てる。
(そう、それ。おとうちゃんの指、硬くてちょうどいい……)
グリムは気づいた。
彼女が泣いていたのは、病ではなく、歯が生えようとしているからだと。
そっと指を引き抜き、アリスを見つめる。
もう、乳を飲むだけの子ではない。
「……まだ。……はやい。……まだ、……だめだ」
グリムは知っていた。
まだ固いものは早い。
夜明けとともに、彼は森へ出る支度をする。
彼が探そうとしているのは、食物ではなく「代用品」だった。
森へ出かけようと立ち上がる。
アリスの様子を確かめようと振り返り、彼は洞窟を見渡した。
山羊の糞の匂いが鼻を刺す。
そのうち、アリスはこの床を這う。
今のままではいけない。
彼は森で針葉樹の枝を集めた。
ヤニが手にべたつき、鼻に強い匂いが残る。
洞窟に戻ると、山羊を奥から離し、石と枝で寝床を組み直した。
苔を厚く敷くと、山羊は鼻を鳴らし、静かに膝を折る。
木の匂いが広がり、湿った獣の匂いが薄れていった。
グリムは山羊の背をひとつ撫でる。
乳をくれる大切な命。
それが元気でいることが、アリスを守ることになる。
それから彼は、今度は細い枝を削り始めた。
柳に似た枝の皮を剥ぎ、白い芯を取り出す。
何度も煮て、硬さを確かめる。
仕上げに、ゆっくりと折り曲げて、しなりを確かめる。
♢♢♢
「……アリス。……これ。……かめ」
渡されたそれを、私はすぐ口に入れた。
ぎゅ、ぎゅ、と歯茎に押し当てる。
(……これよ、これ。よくわかったわね、おとうちゃん。硬すぎず、でも適度に押し返してくるこの弾力……完璧だわ)
ぎゅ、ぎゅ、と噛むたびに、ずきずきが薄れていく。
私の顔から、力が抜けた。
それを見届け、グリムは初めて深い溜息をついた。
もとは、一人で暮らすための洞窟だった。
けれど今、彼は小さな命のために動いている。
それを、悪くないと思っていた。
私は噛み木を握りしめたまま、グリムの胸板に顔を埋めて眠りについた。
(おとうちゃん。ありがとう。……少し、眠れそうよ)
暗闇の中で、竈の火がぱちりと鳴る。
アリスの寝息と、山羊のゆっくりとした反芻の音。
その音を聞きながら、グリムは小さく息を吐いた。
明日も、やることはある。




