第10話:雪の中の鼓動
朝、目を覚ますと、洞窟の中が妙に静かだった。
風の唸りが消え、重く冷たい気配だけが入り口の幕を押している。
彼が毛皮をめくると、そこには真っ白な壁が見えた。
一晩で、雪が入り口を半分まで埋めていたのだ。
今日から、この岩の部屋だけが私たちの世界になる。
彼は無言で雪を掻き出し、細い通り道を作った。
それだけで肩で息をつき、冷えた腕をさする。
彼は強いわけではない。
それでも、生き延びるために動くことをやめない。
火を焚くと、寝床の周りに並べた石がゆっくりと熱を帯びていく。
背中に伝わる、しっとりとした温もり。
外の吹雪が嘘のようだった。
閉ざされた生活の中で、私の食事も少しずつ変わっていった。
秋に集めた木の実を、石の上で丁寧にすり潰す。
何度も、何度も。粉になるまで。
それを山羊のミルクで煮込み、どろりとした粥にする。
「……アリス。……たべろ。……あつい」
木のスプーンを自分の頬に当て、温度を確かめてから口元へ運ぶ。
それがどれほど手間のかかるものか、私は知っている。
木の実の香ばしさと、ミルクの甘み。
派手ではないが、体に染みる味だった。
(……おいしいよ)
私が残さず食べると、彼は小さく息を吐いた。
だが、その夜。
山羊が短く、鋭く鳴いた。
何度も立ち上がっては座り、荒い息を繰り返している。
(……始まった)
私は身を乗り出す。
分かっている。これは出産だ。
けれど今の私には、助ける手も足もない。
彼は狼狽えていた。
山羊の傍に膝をつき、困惑した様子で左右を見渡しまた山羊を見る。
「……なに……すれば、いい……?」
ソワソワと落ち着きなく山羊の頭を撫でている。
きっと自分の事のように思い、不安を振り払おうとしているのだろう。
私は、そんな光景に居ても立っても居られずに声を上げた。
「あ!……あ!」
私の側にある焚火と山羊の腹を交互に指さし声を張る。
冷えた洞窟の中、剝き出しの山羊のお腹、冷やしていてはダメだろう。
彼がはっと顔を上げた。
毛皮をさらに運び込み、大きく膨れたお腹に掛けてあげる。
時間が長く感じられた。
外では吹雪が岩を叩いき、洞窟の中では山羊の荒い息が続く。
やがて、ずるりと濡れた塊が地面に落ちた。
小さな命。
グリムは震える手でそれを抱き上げ、布で丁寧に拭う。
しばらくの沈黙。
……フ、メェ。
か細い声が響いた。
その瞬間、グリムの膝から力が抜けた。
子山羊を母のそばに横たえ、深く息を吐く。
それから、私を抱き上げた。
「……うまれた。……いきた」
声が震えている。
母山羊が子を舐める音。
子山羊が立とうとする、かすかな足音。
そして、グリムの胸の奥で鳴る、早い鼓動。
閉ざされた冬の洞窟。
けれど、そこには確かな鼓動があった。
私は彼の胸に顔を埋める。
この弱くて優しいおとうちゃんと、一緒に生きていく。
やがて雪は溶け、草が芽吹く。
そのころには、この子も走れるようになるだろう。




