ファイル9 ゴミに捨てられた男
借主の佐藤さんと連絡がとれなくなったとある戸建ての大家様に、部屋の様子を見てきてほしいと頼まれた。
小林と千堂は、ある渋谷区にある戸建てを訪れた。
だが、戸建ての借主の佐藤さんは出てこない。
二人はためらいながら、向かいの家の呼び鈴を押した。
出てきたのは、腰の曲がった老夫婦だった。白髪の奥さんが、おそるおそる言った。
「……佐藤さん、最近、まったく姿を見ないんですよ」
小林が帽子を取り、丁寧に尋ねた。
「最後に見かけたのは、いつ頃ですか?」
老夫婦は顔を見合わせ、夫が答えた。
「……2週間くらい前かなぁ。夜中に、ゴミ袋を抱えてフラフラ出ていくのを見たよ。でもね、その後は……」
奥さんが小さな声で続けた。
「……ゴミを捨てに行ったはずなのに、何も持たずに、ふらっと戻ってきたの。手ぶらでね……」
その時、老夫婦は確かに聞いたのだ。
佐藤が、玄関先で誰もいない空間に向かって、ぼそぼそと話しかけているのを。
「『ここは僕の家だ。誰にも渡さない……』って……まるで、誰かと喧嘩してるみたいだったのよ……」
重たい空気が、その場を支配した。
小林と千堂は礼を言い、佐藤の家へと向き直った。
手袋とマスクを着用し、意を決して玄関ドアを開けた瞬間、湿った腐敗臭が全身を包んだ。
「うっ……」
千堂が顔をしかめた。
床は見えない。ゴミ、ゴミ、ゴミ。
ペットボトル、腐った食材、衣類の山。無数のハエが飛び交っている。
小林は足を踏み入れながら、小声でつぶやいた。
「これ……人間が住む場所じゃねえよ……」
二人は慎重に階段を上がり、2階へと向かった。
ギシ……ギシ……と、今にも床が抜けそうな音が響く。
奥の部屋佐藤の寝室だった場所のドアに手をかける。
異様なまでに重たく、ドアを押すたびに、ゴミの山がずり落ちる。
「せーの!」
力を合わせ、ドアを押し開けた。
──その瞬間。
ゴミの山の中央に、佐藤がいた。
膝を抱えるように、うずくまったまま。
乾いた皮膚は土色に変色し、目を閉じたまま微動だにしない。
彼の周囲には、かつての生活用品が雑然と散らばっていた。
破れたぬいぐるみ、カビの生えた雑誌、壊れた目覚まし時計。
まるで、過去にしがみつくように、彼はゴミに埋もれていた。
千堂が、か細い声で言った。
「……生きてない……ですよね……」
小林はゆっくりと近づき、手を伸ばした。
しかしその瞬間──佐藤の乾いた唇が、微かに動いたように見えた。
「っ!」
二人は本能的に飛び退いた。
だが、近づいてよく見ると、それはただ風に揺れただけだった。
佐藤はもう、何も言わない。
このゴミの海の中で、誰にも知られず、ひっそりと朽ち果てていたのだった。
部屋の隅、ゴミに埋もれたカレンダーだけが、去年の夏から止まったまま、壁にかかっていた。
──カサッ。
どこからか、ゴミが微かに動く音がした。
まるで、まだ誰かが、そこにいるかのように。
「……警察、呼びましょう」
千堂が震える声で言った。
小林は黙って頷き、ポケットからスマートフォンを取り出した。
外に出た二人は、薄曇りの空を見上げながら、警察に通報した。
やがて、遠くからサイレンの音が近づいてくる。
しかし、その背後。
小林の背中に、冷たい視線を感じた気がした。
振り返っても、そこには、誰もいなかった。