第十話 「蹂躙」
───────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────ぁ。
その硬い感触に誘われ、それは目を覚ました。ぼやける視界が、その黒の双眸に入り込む。
瞬きを繰り返し、意識が鮮明化していく。唇にくっつく砂利が、言いようもない不快感を演出する。目の前の広がる黄色をじっくり見つめながら、それはもぞもぞと動き出す。
両手をぎこちなく動かし、それは立ち上がった。疑問を含んだ息が口から出るたびに、無理解の霧が濃くなっていく。
重い瞼がその活動を完全に再開させたとき、それは気づいた。
「ん、ぁ」
うまく言葉に出来ない。うまく表現できない。うまく言語化できない。だってこんなの感じたことが無かったから。こんなの奇跡よりも確率の低い出来事だから。
口をパクパクさせながら、それは目の前の景色に瞠目した。
そして、一言。
「……なんで、俺。生きてる?」
先ほど死んだはずのそれ──、ラデス・バッファウッドは、なぜか生きていた。
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「えっ? いや、は?」
乾いた独り言をしながら、ラデスは両手を開閉。その手に異常がないこともその目で確認済み。なのにラデスの理解はその現実に追いつく空気すら見えない。
だが、それよりも、込み上げてくる物があった。
「……ごぅおえっぅ」
そうやって込み上げてくる物をラデスは地面に落とした。食道を無理やり通り、口を埋め尽くす物を外にぶちまける。
昨日の夜から何も食べてないのに、吐き出したそれの量に驚いた。黄色の地面に上塗りされた黄色のそれ、口の中に広がる胃酸の味、そこでようやくラデスは、自分が吐いたのだと自覚した。
無理もない。それほどの痛みと苦しみ。焼死するほどのそれを受けて、平気でいられる人間などいるはずがない。あんなものを受けて、簡単に忘れられるはずがない。
そう、ラデスには確かにあの時の記憶があった。受けたことのない、地獄の業火に焼かれるような感覚が。
あの時、確かに死んだはずだ。すべてを燃やし尽くすような炎によって、黒焦げの死体となってその生涯を終えたはずだ。それを確信させるほどの激痛と熱だった。
なのに、生きている。止まったはずだった心臓も、ラデスの体に元気に脈を刻んでいる。燃えて朽ち果てたはずの安物の服すらも、元に戻っている。呼吸も正常、なんら異変などない、健康体そのものの体となって。
「どうなって」
「目を逸らすとは、舐められたものだな」
その疑問が解消する間もなく、冷ややかな声が耳元で聞こえた。あの時、ラデスの命を奪った張本人、ステルベンだ。
ラデスが戸惑っていた内に近づいたのか、一瞬のうちに近づいたのか、いずれにしろ彼はいつの間にかラデスの目前に立っていた。
そして、『ぐさ』と、音がした。
「え」
ステルベンはラデスの背中を左手で押さえ、右手に握った何かを、ラデスに押し付けた。
腑抜けた声が口から出たと同時に、感じたのは違和感。胴体の中心、下丹田の部分から少しばかり上、俗にいう腹の部分だ。
なぜか、熱かった。というよりも何か腹に入ってきたような感覚だった。無理矢理、押しのけて中に入ってくるような、そんな感覚だった。
なんでそうなっているのか確かめたくて、理由が知りたくて、ラデスは自分の腹部へ視線を向けた。
「あ?」
白い服が赤く、染め上がっていた。腹から溢れ出す何かによって、何の変哲もない白の部分が真っ赤に、燃えるような赤に変貌していたのだ。
──ああ、刺されたのか。
べったりと服につき、尚も腹から流れ続けるそれを見て、ラデスは理解した。
ステルベンの右手に握られているのは、15センチほどのナイフ。その白みがかった青色から考えるに、氷の魔法で作られたものだろう。
元々彼がそれを常備していたのか、今の一瞬で作り上げたのかは知らないが、今となってはもう関係のないことだ。
そのナイフが氷で作られたのだから、きっとひんやりとした触り心地なのだろうが、それを上回るほどの熱が傷から発生している。ついさっき嫌というほど味わった、『死』の熱だ。
息が荒くなり、呼吸に焦りが付与される。腹部の痛みが熱へ変換され、その熱がまた痛みに変換される。それの繰り返し。先ほどのの炎に包まれる感覚とはまた違う苦痛、だが、どちらとも一生に一度味わうか味わわないかの苦痛だ。
「この程度では死なないか。ならこれならどうだ?」
執拗に生きるラデスに、ステルベンは退屈そうな表情で返した。
二撃目を予感させる言葉と同時に、ステルベンのナイフを持つ手に力が入った。嫌な予感が走り、すぐさま彼を引き剝がそうとラデスはもがく。
だが、もう遅い。
「あがぁっ」
魔法でも、純粋な暴力でもない。
ただ、彼はそのナイフを、『ぐり』と捻った。
「あがぁ!!」
ぐり。ぐりぐり。
「あぅわぁがああ!!」
絶叫と同時に、黒い血塊が口から飛びだす。血肉が、臓腑がぐちゃぐちゃにかき回されたのだから当然の反応だろう。
ポタポタと、口から命が血と共に零れ落ちてゆく。先ほどの炎に包まれる感覚とは違う、ゆっくりと、じっくりと、じんわりと死が近づく感覚。
このまま自分は死んでしまうのだろうか、このまま自分は終わってしまうのだろうか、そんな予感が頭を何度もよぎる。そのたびに心が恐怖に塗りつぶされていく。
嫌だ。
嫌だ嫌だ。
死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。
焦りを含んだ呼吸が、徐々に恐怖を帯びた物へと変わり、ラデスの精神を蝕んでいく。
歯を食いしばり、大粒の涙を流し、くしゃくしゃな顔で、必死に死の恐怖にあらがおうとするそれは思わず目を背けたくなる。
その哀れな様子を見たステルベンは、
「無様だな。さぞかし怖いだろう。そんなお前に情けをかけてやるよ。俺はお前や魔族とは違って優しいからな」
そう呟きステルベンはラデスの首をガシッと掴み、地面に押し付ける。馬乗りになった彼の顔が悪辣に歪み、そこでようやくラデスは、一抹の危機感を覚えた。
彼はべったりと血が付いたナイフを逆手に持ち替え、
「がぁ!!」
思いっきりラデスの体に突き立てた。しかし今度はそれだけでは終わらない。
突き刺したそれを、再び引き抜き、また別の箇所へ突き立てる。
「ぐあぁ!!」
何度も。
「いがぁあ!!」
何度も何度も。
「あぐぅぅ!!」
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
血が噴き出し、絶叫をあげても、なお終わらない地獄。きっと地獄とはこういうことのための言葉なのだろう。
「──」
もはや、彼に生きる道などない。ステルベンはそう判断したのか真っ赤に染まったナイフを放り投げる。時間にして三十秒の惨劇を、一心にその身に受けたラデスの体はボロボロだった。
口回りは吐血で血まみれ。白い服はもはやその片鱗を思い出せないほど真っ赤に染まっていた。何度も何度も突き刺された傷からは肉はおろか、骨すら垣間見えている。その恐怖からかズボンからはみっともなく尿を垂れ流し、見るも無残な状況だ。
しかし、それよりもはるかに残酷なのは彼がこの状況でも生き永らえていることだろう。元々ラデスの体はあまり病気にかからず、大怪我もちゃんと安静にしていればすぐ直る、丈夫そのものだった。
が、この時ばかりは、この丈夫な体をすこぶる恨んだ。
傷から入り込む空気がぐちゃぐちゃに傷ついた臓器に触れ、体の内部が冷やされていく。いや、この冷気は、ラデスの体が漸く死を迎える準備が出来た合図だろうか。
血液があらゆるところから流れ出て、ラデスの体を確実に沈めている。いったいどれだけの血液が流れ出ればこんな感覚に陥るのだろうか。
徐々に体から力が抜けていき、ゆっくりと体の感覚が消える。先ほど覚醒したはずの意識がまた、彼岸の彼方へと消えていく。
仰向けのラデスが真っすぐ見るのは、雲一つない澄んだ青空。涙でにじみ、ふやけたその景色が徐々に真っ白な何もない物へと変わっていき、
──ああ、死んだのか。
そこでやっと、ラデスは己の”死”を理解した。
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「起きろ。軟弱者」
「いって!!」
意識が覚醒した瞬間、体に受けたのは鈍痛だ。その勢いのまま、地面を転がるラデス。口に入った砂の感触を確かめつつ、顔を見上げる。
足を振り上げたステルベンを見て、ようやく彼に蹴られたのだと理解できた。
「回復するまで待つのも退屈だからな。少々乱暴に起こさせてもらった」
「わざわざ蹴らなくたっていいだろうが…」
暴論に正論をぶつける。これまでの彼の身勝手な理論にラデスがなんとか反抗しようと導き出した結論だ。
そんなことをすれば、相手の怒りが溜まるのは目に見えている。その証拠にステルベンの表情が、少し苛立った。
自分に敵意を向けている者を、怒らせる。自然界において、最もやってはいけない行為ランキング一位だが、それはこの場でも同じだろう。
だが、それも自分自身に起きている事象の前には、道に転がる小石のように微かなものだ。
「……まただ」
先ほど起きた異変と同じ。死んだはずの自分が、まるでその出来事が無かったかのように生きている。まるで彼の死が嘘だったかのように。
ボロボロになった服も、血まみれだった自分の体も、全部元通りだ。まあ、尿塗れのズボンが元に戻ったのは僥倖だが。
そして何より、地面に広がっていたはずの血の海がない。真っ赤に滲んだ砂も、跡形もなく消えている。そこにあったはずのラデスの死の証拠が、世界から丸ごと消えているのだ。
ラデス自身がボケている可能性もあるが、まだ齢19の彼が認知症になるなど、よほどの不運が舞い降りない限り、起きない事象だろう。
だが、それ以上に起きるはずのない事象がこの場で起きている。なによりその事象の被験者がラデス自身ときては、信じるしかないのだ。
一度死んだ者が、再びこの世に蘇るという摩訶不思議な現象を。
この世界には魔法や魔物、当たり前のように普通とはかけ離れた奇跡があるが、それでも人を生き返らせることは出来ない。人が引き起こせる事象には限界がある。それはこの世界における死にも適用されることだ。
だが、ラデスは生き返った。一度ではない、二度も。
「二度も死んだ気分はどうだ?」
死者が生き返る、という状況についていけるわけも無く、混乱するラデス。反対にステルベンの様子に、動揺は一切ない。
彼は何が起きているか、ラデスの身に起きている事象のからくりが分かっている。その推測がラデスの中に思い浮かぶのに、時間はかからなかった。
「なあ、ステルベン。このままじゃさすがに不公平だ。せめて教えてくれ。何が起きてるんだ」
このままでは骨折り損、いや死に損というやつだ。このまま無意味に死を繰り返すのは、ラデスにとって非常にまずい。聞いて素直に答えを返してくれるとは思えないが、一か八かだ。
「……まあ、知ってどうにかなるわけでもないか」
予想とは異なり、案外あっさりと答える気になったのだろうか。正直ここまで簡単にしゃべってくれるとは。嬉しさもあったが、ちょっと拍子抜けだった。
「少しばかり説明が難しいが、今の俺たちは俺たちであって俺たちではない。そういう感じだな」
俺たちであって俺たちではない。どういうことか全く分からなかった。前後が矛盾しまくった言葉だからだろうか。
「先ほど、平和の揺籃に触れただろう。あれは物体を保存する魔道具だ。あれの中に内包されている魔力を浴びた物は、あれの魔力に換装される」
「つまりあれの中に魔力がある限り、俺たちも壊れることはない。たとえ魔王がやってきたとしてもな」
魔力で換装する。魔力で作り替えると言った方が正しいだろうか。つまりラデスの体を含めたここ一帯は、現実のものではなく、魔力で作られた仮初めのものに過ぎないということだろう。
ステルベンはその言葉に「だが」と付け足し、
「これには少し欠点があってな。魔力で作られた換装体の精度が高すぎて、魔法の温度や、剣の切れ味、あらゆる人間の感覚までもが忠実に再現されているんだよ」
「何を目的としてここまで精度を高めたのか、今となっては分からない。だが、平和と名付けられている以上、何かの争いを止めたかったのかもしれんな」
もしそうだとしたら、皮肉なものだろう。後の時代にこんな使われ方をしているとは、制作者も思うまい。
恐らく、正規の使い方は争いの最中に発動させて、両者の戦いを強制的に無力化。そして無理矢理、仲裁に持ち込む。このような形だったはずだ。
平和を望み、暴力を嫌い、誰にも血を流させない。なんとも優しく、慈しみに溢れた魔道具だと言える。かつてこれ以上に平和な世界を望んだものが他にあっただろうか。
だが、世界は残酷かつ非情だった。戦いを鎮静化させるはずが、このような拷問器具のような形として使われるとは、さぞかし作り手の気持ちに同情する。
だが、今は同情をしているわけにもいかない。ステルベンの言うことが本当なら、かなりまずい状況だ。
あの揺籃に魔力がある以上、ラデスが傷ついても再生する。そして、これまでの死の経験よりステルベンはラデスを殺すことに一切の躊躇がない。
つまり、ステルベンはラデスを殺し放題というわけだ。
「うそ……だ」
正直、ステルベンは手加減をしてくれると思っていた。実力差が大きい相手に対して、わざわざ本気を出す必要がないからだ。
結果、その甘い心を粉々に砕かれる。
「さあ、決闘を再開しよう」
彼の掛け声にて、再び決闘が始まる。その掛け声をステルベンは「いや」と否定し、
「これは決闘ではない。蹂躙だ」
悪い予感が、全身を電流のように駆け巡る。それはこれから始まる、ラデスの死の繰り返しを意味している。
今この時、この瞬間に、ラデスとステルベンの決闘は終わった。次に始まるはステルベンによるラデスへの蹂躙。
ラデスは、その開始のゴングとなる言葉を、ただ茫然と聞くことしか出来なかった。




