第十二話 「計三回の勇気の一歩」
──かなり、まずい状況だ。
戦闘経験がほとんどないラデスでもこの状況が分からないほど、鈍感ではない。
草むらの中から緑の悪魔たちがわらわらと飛び出しラデスを品定めしている。怒りの表情をする者もいれば、ニヤニヤと馬鹿にするような表情をする者もいる。
彼らが持っている武器も多種多様な物で、その武器で何をされるか、と想像すると体がぞわっとする。
どうする、と考えているうちにもどんどんゴブリン達が集まって来る。さっきの泥濘は偶然見つけただけ、ただ運が良かっただけだ。またこちらに運が巡って来るとは思えない。
しかも、もう逃げ道も無くなっている。
…やばいやばいやばい! これどうする、どうする!!
このまま死ぬのか。俺。死ぬ。死、死死、死ぬ。しぬしぬしぬしぬしぬしぬしぬしぬ。
受け入れ難く、なお迫る現実がラデスの精神を激しく揺らす。
もう終わり。ここで終わり。夢も人生も何もかも。
ああ、死にたくねぇ。
ラデスがそう覚悟した時、予想だにしない出来事が起きた。
「────っっっっっ!!!!!」
山の奥、だろうか。どこからかとてつもない咆哮が聞こえてきた。
先ほどのゴブリンの断末魔とはまるで違う。音量も気迫も何もかも違う。そのあまりにもでかい声と恐怖に、ラデスは思わず耳を塞ぐ。
ラデスが想像していた恐ろしい何かだろうか。何にしろ普通とはかけ離れた、何か異常事態が起きていることは確かだろう。
謎の雄叫びが止んだ後、ゴブリン達はラデスのことを見限るようにどこかへ去った。
時間にしてたったの数秒。しかし、それはラデスの心を支配するには十分すぎる物だった。
──ここにいるのは、まずい。逃げなきゃ、死ぬ。
そう考えたときには、ラデスは動いていた。幸いラデスは木々に目印を付けている。その目印さえ見つけてしまえばすぐに帰れる。
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「くそっがっ、ハア、くそが。なんで無えんだよ!!」
あれからどれだけ走った? あれからどれだけ時間が経った?
目印が、ない。下山しているのかも分からない。
走っても走っても景色は、変わらない。この世界にたった俺一人しかいないんじゃないかと錯覚してしまうほどの孤独感。壮大な木々や川のせせらぎ、綺麗な花、取るに足らない虫までもがすべて俺の敵に回ったみたいで。
早くここから離れたい。
ラデスは走った。自分が生きる道を、命を守る道を探して走った。ただ、走り続けた。
ただ、がむしゃらに走った。
自分の命を守るという生存本能に従うままに。
そして、ついにラデスの焦りと疲労感を含み霞がかった黒目は木に、確かに刻まれた傷跡を捉えた。
「あったぁぁぁ。はあぁぁ、あったぁぁぁあぁ」
ある。ここにある。確かにあった。あとはこの傷跡を辿れば──
──帰れる。
急げ。急げ。希望の光が、差す方へ。
光が見える。もう出口だ。
ああ、もうすぐ。もうすぐだ。
そしてラデスは目の前にある希望の実がなる方へ、進んだ。
そこにあったのは────
対岸を離し、大きく大地を割る崖だった。
は?
は? は?
は? は? は?
なんで?
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ラデスは目の前に広がる光景にただ、唖然とすることしか出来なかった。
希望から絶望への大きな転落。ジェットコースターのように激しい緩急。
世界は弱者に残酷だった。
ははっ。
ラデスは座り込んだ。自分に降りかかる絶望の赴くままに。
そして、笑った。自分の不幸に笑った。
ただ、安直で、傲慢で、馬鹿な自分を嗤った。
これこそがファゴスが危険だと言われている所以だ。地盤がもろく崖が出来やすい。
ある時、冒険者がこの山で死んだ。彼は聡明だった。自分のためだけではなく、ここに来る他の誰かも使えるようにと、出口へ続く傷跡を作った。
しかし、緑の魔物はその希望の断片に目を付けた。彼らはそれを真似て、やたらめったらに木に傷跡を作った。
もちろん彼らにはそれの意味は詳しくわかってはいないだろう。もしかしたら、面白半分、ただの遊戯のつもりだったのかもしれない。
ゴブリンに犯された者。逃げてきた者。迷った者。これに希望を絶たれ、崖に飛び降り死んだ者は少なくない。
その崖を覗いて見ると、数多の白骨死体が見えると言う。
そして、いつしか誰かが対岸を大きく離すこの崖をこう呼び始めた。
──『人喰いの大口』と。
今だからわかる。この神秘的な木々の景色に惹かれて、たくさんの人がここに来るんだ。
そして、俺のように追い詰められて、いつしかこの景色が獲物を絶対に逃がさんとする檻のようにに見えていくんだ。
そして寄り縋った虚構の希望に見捨てられ、命を絶つんだ。
ああ、もう、
いっそのこと、死んじまおうかな。
ラデスの希望は今、完全に断たれた。
彼がその大口へ、勇気の一歩を踏み出そうとした時、
どこからか悲鳴が聞こえた。甲高い、女性の声だ。
俺のように食われようとしている馬鹿がいるのか。安直にこの山に入った馬鹿が。
ふっ。ふふっ。
そんなの関係ねえよ。俺はもう。
どうせ死ぬんだ…。
最後に馬鹿の顔を、拝みに行ってやるか…。
彼を一時的に死から救ったのはまたもや、ただの好奇心だった。
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笑いながら、ふらつく足取りで悲鳴が聞こえる方へ向かうラデス。
すると、何やら巨大な影が見えてきた。
ラデスは物陰から息を潜めながら、影の方に目を凝らした。
「─────っ!!!!」
でかい。果てしなく、でかいゴブリンだ。
緑の体表は一緒だ。
しかし、大きく膨れ上がった腹に、人をまるで蟻としか思っていなさそうな嘲る目。さらにその巨躯に見合うようなでかく、禍々しい血に塗れた棍棒を持っている。
「オイ、女ヨ。選ベ。我二潰サレルカ、我ガ一族ノ糧トナルカ」
しかも、このゴブリン喋りやがる。
ゴブリンは魔物。魔物は魔族と違い、知能が低いはず。
なのに、目の前のこいつは、はっきりと言葉を喋っている。低く、悪に染まったどす黒い声だ。
というか女?こいつ誰と喋ってる?
ラデスはもう一度、じっと見た。
確かに、緑の髪の少女が倒れている。杖を持った少女だ。気を失っているのか、あのゴブリンに見向きもしない。
そんな、ことより。
なんで?もう諦めていたのに。
死にたく、死にたくないよう。
黒い夢に囚われていたはずのラデスの心は、いつのまにか輝きを取り戻していた。本来喜ばしいことだが、ラデスは自分の優柔不断な心を激しく呪った。
緑の魔神は再び話し始めた。
「早クシテクレ。ソレトモ我ト戦ウカ?矮小ナ人間ヨ」
「──ソレトモ、隅デ怯エテイル男ニ助ケテモラウカ?」
ああ、あああ。
こいつ、もう、気づいて…る。
「ドウスルノダ?臆病者ノ男ヨ」
苦しい。怖い。こんな、ことに比べたら、
死、なんて──、もう。
少年は勇気の一歩を踏み出し、走り出した。
大きな影とは反対の方へ向けて。
「ハハッ。ソレデコソ人間ダァァ」
化け物の嘲る声を無視し、少年は走る。この走りでもう、死んでもいいと言えるくらい。
先ほどとは違う。生きるためではなく死ぬために、走る。
さっきの所だ。もう、すぐだ。もう死んでしまおう。こんな気持ちなんかもう感じたくない。死ねば終わる。
もうすぐ、終わる。終われる。
その時だった。
「あでっ!!」
彼は転んだ。何に転んだのだと目を凝らす。
小さな石だ。道に会っても誰も気に留めないような小さな、小さな石。それでも今のラデスよりは悠然に真っすぐに佇んでいた。
「─なんで、邪魔したんだよ」
苦しみから逃れたいという気持ちと、無意識にラデスの根底にあるほんの少しの生存本能が化学反応を起こし無数の怒りを生み出す。
ラデスの怒りは無意識にその小石に向けられていた。
なんで。なんで?なんで。なんで!!!!
このクソ石が。邪魔すんなよ。こんの石石いしいしイシ石いしいしいしいしいしイシいしいしいしいし石いしいしいしいしいしいしいしいしイシいしいしイシいしいしイシイシ石いしいしいしいし石イシイシイシイシ石石石石ぃぃぃぃぃぃ!!!!!
──意志? 石じゃなくて意志?
勇者の、ユーキの意志?
もしかしたら、そんなことないかもしれない。俺の空想なのかもしれない。でも、今はこう思おう。
お前が止めてくれたんだな。
そうだよ。そうだ。ああ、そうだ。忘れてた。
俺は死にたかったんじゃなくて、
俺は勇者になりたかったんだ。
すぐ目の前に困っている人がいる。今にも消えそうな灯火がある。
…行かなきゃ。
いつの時代もどんな状況でも、勇者が立ち上がるのは、
──誰かが、困っているとき。
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「──モウ、イイカ?」
今にも振り下ろされようとしている棍棒を少女は見ない。少女は意識を失ったふりをしていた。
そっちの方が楽だから。
もう、誰にも迷惑かけないから。
「ン?何ダ。オ前」
少女は目の前にいる怪物の言葉に違和感を感じた。ここには私一人のはず。
さっきの人も逃げたはず。
…今そこにいるのは誰?
少年は剣を抜く。体に起きる震えも武者震いと心に錯覚させる。まだほんの少しだけ怖いから、恐怖で歪みそうになる顔を笑顔で塗りつぶす。
「オ前、何者ダ?」
目の前のデカブツは少年に問う。
彼もまた少女と同じように違和感を感じていた。先ほどまで怯えに怯え、逃げ出したはずの男が突然飛び出してきたからだ。
体も、種族も違う二人の疑問は偶然にも一致していた。
「お、俺の名はラデス。────勇者に、なる、お、男だ」
たどたどしい言葉で、彼は名乗る。たった今、勇者の卵は勇気の一歩を踏み出したのだ。
今度は、自分の命のためではなく、他人の命のために。




