死んだはずの婚約者
玄関の外には、
死んだはずの女が立っていた。
なのに彼女は、
私よりずっと自然に彼の名前を呼んだ。
「蓮、いるんでしょ?」
インターホン越しの声は、甘くて、慣れていた。
恋人の部屋に来た女の声だった。
私はドア越しに聞いた。
「あなた、本当に蓮の婚約者なんですか?」
「そうだよ」
「名前は?」
少しだけ間があった。
「沙耶」
沙耶。
その名前を聞いた瞬間、なぜか胸の奥がざわついた。
どこかで聞いたことがある。
でも思い出せない。
私は蓮のことを何も知らなかった。
家も、家族も、過去の恋人も。
知っているのは、好きなワインと、朝になると必ず帰ること。
そして、嘘をつく時だけ、私の名前を呼ばないこと。
「蓮は私のこと、何て言った?」
沙耶が聞いた。
私は答えなかった。
「死んだって言った?」
背中が冷たくなった。
「どうしてそれを」
沙耶は笑った。
「蓮はいつもそう。都合の悪い女を、心の中で殺すの」
その言葉は、嫌になるほど刺さった。
私も、都合の悪い女になるのかもしれない。
週に一度だけ会う女。
朝には帰られる女。
指輪を見つけても、本命にはなれない女。
その時、廊下の向こうから足音がした。
蓮だった。
「沙耶、やめろ」
私はドアスコープを覗いた。
そこには、蓮がいた。
そして、その向かいに沙耶。
どう見ても生きていた。
私は鍵を開けた。
蓮が振り向く。
「美羽、開けるなって言っただろ」
「だって、死んでないじゃん」
蓮は何も言えなかった。
沙耶は私を見て、綺麗に笑った。
「ね? 蓮は嘘つきでしょ」
私は蓮を見た。
「説明して」
蓮はしばらく黙っていた。
そして言った。
「沙耶は、二年前に死んだことになってる」
「どういう意味?」
「戸籍上は、死んでる」
沙耶の表情が消えた。
蓮は続けた。
「結婚式の一週間前に失踪した。崖の近くに靴とバッグが残されていて、警察は自殺と判断した」
「じゃあ、なんでここにいるの?」
蓮は沙耶を見た。
「俺も、それを知りたい」
沙耶は小さく笑った。
「ひどいな。再会した婚約者に言う言葉?」
私は指輪を握りしめた。
「じゃあ、この指輪は?」
蓮は目を伏せた。
「俺が捨てられなかった」
胸が痛んだ。
私は蓮を試していたつもりだった。
でも本当は、ずっと試されていたのかもしれない。
死んだはずの婚約者を忘れられない男を、私は好きでいられるのか。
沙耶が私に近づいた。
「美羽さん、蓮に聞いてみたら?」
「何を?」
「あなたを好きになった理由」
私は蓮を見た。
蓮は、すぐに答えなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
「私、代わりだった?」
蓮は小さく言った。
「違う」
「じゃあ、何?」
「美羽といる時だけ、沙耶を忘れられた」
最悪な告白だった。
でも、一番本音に聞こえた。
沙耶が笑った。
「よかったね。忘れるために愛されたんだって」
私は蓮の手を振り払った。
「帰って」
「美羽」
「二人で話せば」
本当は、追いかけてほしかった。
本当は、ここで沙耶を置いて、私を選んでほしかった。
でも言えなかった。
言ったら惨めだから。
蓮は私を見つめたあと、沙耶に言った。
「もう終わりにしよう」
沙耶の顔色が変わった。
「何を?」
「二年前のことを、美羽に話す」
沙耶が低い声で言った。
「やめて」
蓮は私を見た。
「美羽。君と初めて会ったのは、半年前じゃない」
私は息を止めた。
「どういうこと?」
蓮は言った。
「二年前、沙耶が消えた夜。君もあの場所にいた」
沙耶がバッグから小さなUSBメモリを取り出し、私の足元に投げた。
「見れば?」
私はそれを拾った。
沙耶は私の目を見て言った。
「そこに全部入ってる」
そして、ゆっくり笑った。
「蓮があなたを好きになった理由も」
一拍置いて、彼女は続けた。
「あなたが、私を殺した理由も」




