指輪の跡
彼の左手には、指輪の跡があった。
でも彼は、私にこう言った。
「結婚なんて、してないよ」
私はその嘘を、
信じたふりをした。
神崎蓮と出会ったのは、半年前。
仕事終わりに立ち寄ったバーで、隣の席になった。
彼は、何を聞いても少しだけ笑って、肝心なことは話さない人だった。
仕事の話はする。
好きな映画の話もする。
でも、家の場所も、家族のことも、過去の恋愛も話さない。
それなのに、私のことはよく見ていた。
疲れている日は、何も聞かずに甘いカクテルを頼んでくれる。
強がっている日は、「今日は帰らなくていい?」と聞いてくる。
泣きそうな日は、泣く前に照明を落としてくれる。
ずるい人だと思った。
私たちは、付き合っているようで、付き合っていなかった。
週に一度、私の部屋で会う。
ワインを飲んで、映画を流して、同じベッドで眠る。
でも朝になると、蓮は必ず先に帰った。
「今日も早いんだ」
私が聞くと、蓮はシャツのボタンを留めながら言った。
「朝から予定がある」
「日曜なのに?」
「美羽は、俺を試すのが好きだね」
その言い方に、少しだけ腹が立った。
試したいんじゃない。
安心したいだけ。
でも、そう言うのは負けな気がした。
だから私は笑った。
「試されて困ることでもあるの?」
蓮は私を見た。
「あるよ」
「何?」
「美羽を好きになりすぎたこと」
そういうことを平気で言う。
名前のない関係のまま、私だけを期待させる。
その夜、蓮が帰ったあと、私はベッドの下に黒い箱が落ちているのを見つけた。
開けると、中には指輪が入っていた。
小さなダイヤのついた、婚約指輪。
私の指には、少し大きい。
つまり、私のものじゃない。
私は蓮に写真を送った。
これ、忘れ物?
すぐに既読がついた。
でも、返事はない。
十分後、蓮から電話がかかってきた。
「美羽、今どこ?」
「私の部屋」
「誰か来た?」
「何それ」
蓮の声は、いつもの余裕を失っていた。
「その指輪、触った?」
「触ったよ。婚約指輪でしょ?」
沈黙。
私は笑った。
「奥さん? 婚約者? それとも元カノ?」
蓮は低い声で言った。
「美羽、それは俺のじゃない」
「じゃあ誰の?」
「……死んだ女のものだ」
冗談にしては、声が本気すぎた。
「今から行く。誰が来ても開けるな」
電話が切れた。
私は部屋を見回した。
さっきまで見慣れていたはずの部屋が、急に知らない場所みたいに見えた。
その時、インターホンが鳴った。
画面には、女が映っていた。
白いブラウス。
濡れた髪。
赤いリップ。
女はカメラに向かって微笑んだ。
「その指輪、返してほしいの」
私は息を止めた。
「あなた、誰ですか?」
女は少し首を傾げて、笑った。
「聞いてないの?」
そして、ゆっくり言った。
「私、蓮の婚約者です」
その瞬間、蓮からメッセージが届いた。
絶対に信じるな。彼女は死んでる。




