第九章 ――見え始めた世界――
減速開始から、
さらに時間が流れていた。
《NOAH》は、
少しずつ、
確実に木星圏へ近付いていた。
最初は、
観測機器でしか分からなかった変化。
だが今では違う。
通信越しの窓からでも、
木星が少しずつ大きくなっているのが分かる。
ある日の通信。
ミオが、
少し興奮した顔で言った。
『今日は、
皆で観測窓来てます』
映像が切り替わる。
NOAH中央観測区画。
暗い。
でも、
人が多かった。
子供たち。
整備員。
老人たち。
皆、
狭い窓へ集まっている。
その向こうには。
木星。
まだ小さい。
でも。
以前とは違う。
ちゃんと“模様”が見えていた。
褐色の縞。
白い渦。
ゆっくり回る巨大な雲。
NOAHの人々が、
静かにざわめいている。
『ほんとに縞ある……』
『動いてる……』
『でかい……』
『怖……』
一人の老人が、
窓へ手を当てていた。
震える声で呟く。
『……帰ってる』
その言葉で。
観測区画が静かになった。
二百年以上。
何世代にも渡って、
“帰還”はただの言葉だった。
でも今。
窓の向こうに、
目的地が見えている。
それは、
NOAHの人々にとって、
ほとんど奇跡だった。
その頃。
ヘスペリア-3側でも、
受け入れ準備が本格化していた。
中央非回転軸区画。
建設中だった巨大ドッキングベイは、
既に骨格を完成させていた。
巨大支持フレーム。
多重磁気係留設備。
回転差吸収構造。
通常艦艇用ドックとは、
比較にならない規模。
作業員たちは、
半ば呆れながら作業している。
「ほんとに三キロ船来るのかよ……」
「街じゃねえかもう」
「接岸っていうか、
引っ越しだろこれ」
笑い声。
でも、
誰も嫌そうではなかった。
むしろ。
どこか祭りの準備みたいだった。
さぎりは、
建設中のドックを見上げる。
巨大だった。
NOAHは、
もはや船じゃない。
一つの文明だった。
その文明が、
今、
木星圏へ戻って来ようとしている。
ある日の通信。
ミオの後ろで、
警報灯が回っていた。
『第二減速段階入ります』
「もうそんな位置なの?」
『はい』
ミオが、
少し疲れた顔で笑う。
以前より、
明らかに忙しくなっていた。
NOAH全体が、
帰還モードへ入っている。
『最近、
皆寝不足です』
「そりゃそうでしょ」
『でも、
止まれなかったら嫌なので』
その言葉に、
保存庫が少し静かになる。
止まれなかった船。
二百年前。
木星圏へ住むはずだった船。
通り過ぎてしまった船。
だから今回の減速は、
NOAHにとって、
ほとんど“人生のやり直し”だった。
ミオが、
窓の外を見る。
遠くの木星。
その光が、
顔へ映っていた。
『最近、
変な感じなんです』
「変?」
『近付くほど、
本当にあるんだって感じして』
少し笑う。
『ずっと、
映像の中の場所だったから』
さぎりは、
返事に少し迷った。
ヘスペリア-3の人間にとって、
木星は“空”だった。
でも。
NOAHの人々にとっては、
神話みたいな場所だったのかもしれない。
その夜。
ヘスペリア-3外周リング。
食堂では、
NOAHの話題ばかりだった。
「あとどのくらいだ?」
「減速次第らしい」
「三キロ船とか、
実感ねえな」
「人口どのくらいなんだ?」
「8000人規模って聞いた」
ざわめき。
興奮。
少しの不安。
でも。
誰も、
拒絶する空気ではなかった。
木星圏の人々は、
基本的に“訪れる人間”へ優しかった。
放っておけない。
それが、
この文化だった。
窓の向こうでは、
氷輸送船が接岸している。
《グゥゥゥゥン……》
低い振動。
巨大氷塊。
回生システム。
いつも通りの木星圏の日常。
でも。
その先に、
帰ってくる船がいる。
それだけで、
全部が少し違って見えた。
数日後。
NOAHから、
新しい映像が届く。
観測窓。
暗い宇宙。
その中に。
小さな白い点が見えた。
ミオが、
少し震える声で言う。
『……見えました』
「え?」
『エウロパです』
保存庫が静まり返る。
白い氷衛星。
まだ小さい。
でも。
確かにそこにある。
NOAHの子供たちが、
歓声を上げていた。
『白い!!』
『ほんとに氷なんだ!!』
『光ってる!!』
その後ろで。
大人たちが、
静かに泣いていた。
ミオは、
窓の向こうを見つめたまま呟く。
『……近い』
その言葉が。
二百年以上漂流した船の、
本当の“帰還”を感じさせた。




